破滅を望む修道女② ≪リリィ・フレミング≫
教会までの帰り道は二人の間に会話はなく、ただ私が鼻をすする音だけが聞こえていた。
あの後はファリスの大声や、私が泣き出したことで店内のお客さんの注目を浴び、何事かと奥さんの方が駆けつけて来た。
私はラスクを返し、それを盗ろうとしたことを正直に話して謝った。なぜか関係のないファリスも一緒に。
もちろんすごく怒られたけど、その後に奥さんは最後には踏みとどまったこと、それにきちんと謝ったことを褒めてくれた。
そして何より帰り際に、「また買い物に来てね」と言ってくれたことに私は心を救われた。
だけどあの場では優しくしてくれたファリスは全く喋ってくれない。
やっぱり嫌われてしまったのかな……
そんな不安を抱きながらファリスの背中を見つめて歩いていたが、途中で私達はピタリと足を止められた。
気付いた時には店の前から消えていたアンドン達によって、道を塞がれていたからだ。
「おいお前! 最近リリィと一緒にいる奴だろ! よくも邪魔してくれたな!」
アンドンは腕を組んで胸を張り、体の大きさをさらに強調させて凄んでいたが、それでもファリスは全く動じる様子を見せなかった。
「リリィ! そいつのせいでお前は捕まったんだぞ! いつまでも一緒にいないでこっちに来い!」
違う……!
ファリスは私を止めてくれただけ!
感謝こそすれ、決して恨むことなんてないのに。
向こうへ行くのなんて嫌!
でもここで従わなかったらきっとアンドンは手を上げる。
私はともかくファリスが傷付けられるのには絶対に耐えられない。
だからいつものように我慢すればいいだけの話。それで全ては丸く収まるはずなんだ。
そう自分に言い聞かせているのに、なかなかアンドン達の方へ踏み出すことが出来ない。
私はファリスの横に立つと、つい視線を送ってその様子を伺っていた。
「俺を見るな」
前を見据えたままというのは変わらないけど、ファリスはパン屋を後にしてから初めて口を開いた。
だけどそれはまるで、私を突き放すような淡白な口調だった。
「自分がどうしたいかは自分の口で言うんだ」
その言葉に肩を震わせた。
心に迷いのあった私がファリスのことを見た理由。それはこの先どうするべきかの選択を委ねるものだった。
自分の気持ちを押し殺してでも、相手の望むように行動しようという。
否定されて当然だ。
そもそもこれは私の問題なのに……それは単に諦める為の動機を求めていただけなんだから。
「私は……」
言うのは怖かった。
けど、隣に感じる存在が不思議と私の口を開かせてくれた。
「私は……虐められるのは嫌なんです! もうあなた達とは遊ばない!」
初めて出す大声にアンドン達は一瞬たじろいだけれど、すぐに顔を紅潮させ、大きな体を揺すりながらすごい形相で迫ってくる。
今度は私の方が臆して数歩後退するが、その間に割って入ってきたのは小さな男の子だった。
「よく言ったな。リリィ」
そう言ってファリスは振り返り、私へニカッと笑いかけてきた。
「聞いただろ! お前達はリリィの友達なんかじゃない! もう二度と構うな!」
普段は穏やかというか、どこかボーッとしていて無気力な印象を受けるファリスだけど、今目にしているこの姿が何とも勇ましく、私は顔を火照らせ胸が締め付けられる感覚を覚えた。
その啖呵を開始の合図にするように、アンドンは殴りかかってくるも、ファリスは既のところで躱して逆に相手の顔に拳を入れる。
でも……失礼な物言いだけど……ファリスは威勢はよかったものの、腕っ節はすごく弱かった。
渾身の攻撃を綺麗に当てることが出来たのに、アンドンは痛がる素振りを露ほども見せていない。
それどころかあまりの威力のなさに驚いてさえいるようだった。
「嘘だろ? 触られたくらいにしか感じなかったぞ! こいつ、冗談みたいに弱ぇ!」
アンドンは口元を緩めると侮辱するようなことを口にする。
ファリスは挑発に乗ってしまったのか引き寄せられるように向かっていくと、今度はアンドンの大きな拳が顔面に直撃する。
さっきまでとは状況が違うんだから当たり前だ。
戦っている相手に有効打がないと高を括って、避けることも防ぐこともしなければ攻撃に意識を集中させられるんだから。
ふらつくファリスが抑える鼻からは血が噴き出していた。
それでも構わずに今度は体ごとぶつかっていくも、逆にはじき飛ばされて大きく後ろに下がった。
尻餅をつきそうになるファリスだったけど、それを許さなかったのはアンドンの仲間の子供達だ。
二人がファリスのそれぞれの腕を掴んで拘束して、全員で周りを囲む。
「へっ! 別にこんなことしなくても簡単に勝てるけど、普通にやっても面白くねぇ。全く効かなかったとはいえ俺を殴った分はたっぷり返してやらないとな 」
アンドンはニヤけた顔で指を鳴らすと身動きの取れないファリスのお腹を思いっきり殴った。
いくら苦悶の表情を浮かべても屈むことすら出来ないのをいいことに、アンドンはさらに嬲るように何度も顔を殴り続ける。
私は酷く傷ついていくファリスを目の当たりにして涙を浮かべながら、恐怖のあまり自分の意思では動かせなくなった体をただ震わせていた。
「どうだ? 今だったら『もう二度とここら辺をうろつきません』と言ってリリィから手を引けば許してやるぞ」
「リリィは……嫌だって言った……お前らがどこかへ行け……」
口元を腫らし、口内も切れているであろうファリスが振り絞るような声で告げると、アンドンは物凄い形相で一際腕を振り上げる。
それを見て私は無意識のうちに駆け出して、アンドンの服の袖を握りしめていた。
「もうやめてください! さっきの言葉は全部取り消しますから! これ以上ファリスを殴らないで!」
「うるせぇ! こいつは徹底的に潰すんだ!」
すっかり頭に血が上っていたアンドンが振り回した腕が顔に当たり、私は地面に倒れ込んでしまう。
――すると次の瞬間、ファリスの眼光が急に鋭くなった。
地面に伏す私を見た子供達の戸惑いから生じた隙を突いて腕を振りほどくと、その勢いのままアンドンに飛びかかり腕に噛み付く。
突然に襲ってきた痛みに驚くアンドンだったけど、すぐに我に返ると早急に引き剥がそうと再びファリスを殴り続けた。
だけどファリスはどんなに痛めつけられようと、決して離れることはなかった。
それどころかアンドンの腕に並べられた歯はさらに深く食い込み、そこからは血が滴り落ちていた。
アンドンは叫び声を上げながら無我夢中でファリスの様々な箇所を拳で打つも、苦痛から開放されるには至らない。
そして鎬を削っていた二人以外の全ての者は身動きひとつ取ることも出来ずに、ただその姿を眺めるしかなかった。
まるで獲物に食らいつく野生の獣のようなファリスの姿を。
でも、それが不幸のきっかけだった。
人は自己防衛の為に怖恐れるものに対して攻撃的になってしまう。
辺りに響き渡るアンドンの許しを乞うような泣き言が、さらに増長させる要因にもなったのかもしれない。
仲間の一人が道端に落ちていた大きな石を拾い上げると、ファリスの頭目がけて至近距離から思いっきり投げつける。
それだけでも大怪我は免れないのに、さらに当たり所が悪く、ファリスはアンドンから離れると力なくその場に倒れた。
仰向けになったまま動かないファリスの頭からは大量の血が流れ出る。
子供達が恐怖を抱く対象は先程よりも強大なものへと取って代わったのだろう。
重圧に耐えられなくなって各々が蜘蛛の子を散らすよう逃げ出すと、アンドンが血塗れの腕を押さえながら最後に続いていく。
直後に私はファリスの元へ駆け寄り、膝をついてから手を取った。
だけどそれ以上のことは何も出来ない。
いいえ、唯一つのこと……泣くことを除いては。
ファリスの手を強く握り締めながら、届いているかも分からない言葉を私は泣きながらずっと繰り返していた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
こんなことに巻き込んでしまったこと。
抗うという選択をしたこと。
そして何より、こんな時でさえ泣くことしか出来ない自分の無力さを謝り続けた。
すぐにでも助けを呼ばなきゃいけないということは頭では分かっていた。
なのにそれが出来ずにいたのは、足がすくんでいたからというだけじゃない。
今この場を離れたら、もうファリスとは二度と言葉を交わせなくなる。そんな思いが私の中に蔓延っていたから。
「ごめんなさい……」
「謝らなくて……いい」
もう何度口にしたかも分からない言葉に対しての返事を耳にして、私はすぐに顔を上げる。
意識は戻ったようで薄らと目は開けていたけど、だからといって事態が好転したわけではなかった。
むしろ胸の起伏の激しさと共に息は荒くなり、体全体の震えが握っていた手から伝わってくる。
「ファリス! 待ってて、すぐに誰か呼んできます!」
自分の不確かな予感がどうこうなんて言っている場合じゃない。
判断を誤って取り返しのつかないことになる前に最善の行動を――
しかしファリスは手に力を込めて、立ち上がろうとする私を制した。
「……ここにいて」
「でも! このままだとファリスが!」
「俺……リリィ…………好きだよ……」
こんな切迫した状況の中にも関わらず私の体は一気に熱くなる。
初めて男の子に好きだと告白された。それも自分が惹かれ始めていた子に。
風に煽られてざわめく周りの街路樹が、まるで私の心中を表しているようだった。
ところが復唱する言葉によく耳を傾けて聞いてみれば、それが私の早合点だったことが分かった。
「俺、リリィの泣いている姿……好きだよ」
泣いている姿?
みんなに疎まれたり、バカにされたりするあの姿。
自分自身が最も嫌気をさしているあの姿。
ファリスはなぜそれを好きだと言うのだろう?
「リリィが泣く時ってさ……必ず誰かの為に泣いているんだ。自分が何か嫌なことをされた時でさえ……それによって他の誰かが傷つくんじゃないかって……そう思いながら泣いているんだと思う」
目を瞑り、微かに笑みを浮かべながらファリスは言葉を続ける。
「そんなリリィを見ていると……何だか心が暖かくなるんだ。だから今だって俺の為に泣いてくれてるんだと思うと、気持ちが軽くなるし不思議と心強いよ」
勘違いだと知って一度は落胆した私の心は、またも満たされていくのを感じた。
そしてファリスに対する好きという気持ちが止まらないくらい溢れ出て、同時に絶対に助けたいという思いもさらに強くなった。
自分の命を引き換えにしてもいい。
もし足りないというのなら死後の世界でこの魂まで差し出しても構わない。
目を固く閉じて必死に念じていると、私はある変化に気付いた。
ずっと握っていたファリスの手には、少しずつ力が宿ってきているように感じたのだ。
思い返してみれば、途切れ途切れだったさっきの会話も時が経つにつれて随分と流暢になっていった気が。
やっぱり何かおかしい。
ゆっくりと目を開けて様子を伺ってみると、ファリスの表情も呼吸も既に穏やかなものに変わっていた。
頭の怪我も軽傷と言えるほどに塞がりかけていたし、何より明らかに違和感を感じたのは自分の手だ。
なぜか私の手が淡く発光している。
一体何が起こっているんだろう?
そんな疑問を持ったのも束の間のこと。
私の頭には一つの憶測が浮かび、すぐに自分の手をファリスの傷口に宛てがうと、急激に回復速度が増していった。
思った通り、これは私の魔力によるものだ。
5歳になった時に一度自分の魔力について調べてもらったことがあったけど、私には治癒型の特性があると教えられた。
まだ特別な訓練を受けたわけではない。
それでもファリスの生命の危機に直面して、何としても救いたいという一心が本能的に発現させたのかもしれない。
失った血が多量だったからまだ意識が朦朧としている状態ではあったけど、傷は綺麗に消えたし、最悪の事態が訪れる心配はもうないだろう。
安堵と初めて魔力を使用した疲労で脱力した私に、ファリスは顔を向けて笑いかける。
「すごいや。もしまた死にそうなくらいの大怪我をしてもリリィがいれば安心だな」
「冗談言わないでください! もう……こんな思いは二度とごめんですよ!」
眉を寄せてファリスを叱りつけたけど、しばらくしてからどちらともなしに笑っていた。
少し前までが嘘のように私の心は晴れやかだった。
密かに想いを寄せていた男の子を救うことが出来たから。
それにその子のおかげで、私がずっと嫌忌してきた『泣き虫リリィ』のことがちょっとだけ好きになれた気がしたから。
◇
あれから私にはファリスの紹介でさらに二人の友達が出来た。
ファルークとアリサだ。
みんなとは家が少し離れていたけど、ちょうどお互いが住んでいる場所の中間に位置する地域でよく遊んだ。
アンドン達の時とは全く違う。
すぐに気兼ねなく何でも言い合える仲になることが出来たし、それ故にたまに誰かしらがケンカをすることもあった。
それでもそんな時間さえ楽しいと思えるくらいに充実していた。
かけっこをするとやっぱり私だけが置いていかれちゃうけど、その中でさえ変わったことがある。
それはファリスが待っていてくれること。
距離が開いてくると必ずファリスは振り返って立ち止まり、手を差し伸べてくれる。
私がその手を取ると一緒に駆け出すが、どっちも足が遅いから結局置いていかれるのは同じだったけど。
でも私はそれでよかった。
だって、その方が一秒でも長く手の温もりを感じていられたから。
そんな優しさに触れながら共に時を重ねる毎に想いを募らせ、私はずっとファリスのことを目で追っていたのに、その眼差しが本人に届くことは一度もなかった。
そして、それ故にファリスがいつも決まった方向に視線を向けていることを知ってしまう。
みんなと過ごすのは楽しかったけど、唯一その事実だけは私を苦しめていた。
ファリスとアリサ、どちらも大好きだったから尚更のこと。
そして更に月日は流れて、私は15歳の時に修道女になることを志した。
神父様は「好きなことを目指しなさい」と言ってくれてはいたけど、本当はその方が嬉しいはず。
少しでもここまで育ててくれた恩返しになればと思って。
だけど本当の理由は誰にも言えないくらいに不純なものだった。
修道女になって身も心も全てを女神様に捧げることで、ファリスへの想いを諦められればと考えていたのだ。
尤もそれは人の心がどれだけ複雑であるかをまだ深く理解できていなかった、自分の幼さを突きつけられる結果にしか至らなかったのだけど。
◇
教会の前で私はふとそんな昔のことを思い出しながら人を待っていた。
約束の時間が過ぎていたので心配していたけど、程なくして門を潜る姿を確認することが出来てホッと胸を撫で下ろす。
「リリィ、遅れてすまない」
「いいえ、この強風にも関わらず来てくれて嬉しいです」
その顔を見るだけで、その声を聞くだけで、私の心はざわついた。
まるでこの嵐の前の強風に煽られる木々のように、あの時よりもさらに激しく。
結局この好意を捨て去ることが叶わなかった私は、修道女になってからこれまで感情を隠しつつも、ファリスの前では時節表面に現しながら過ごしてきた。
もしバレたら大変なことになるかもしれないという緊張感を味わいながら。
もしかしたら私は昔から心のどこかでずっと、自分の破滅を望んでいたのかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます