第6話 犠牲となった者への手向け
俺はベッドに横たわり、ただひたすら虚空を見つめていた。
テーブルの上には皿に盛られたパンが二つ。全く手つかずの状態だ。
もっともすっかり固くなっていて、既にとても食べられたものではなくなっているが。
俺は大きく息を吸って止めると、それを一気に吐いた。
深呼吸というよりは溜息に近いものだろう。
とてつもなく気怠い。
二日前のあの日の夜から一睡もしていない。
まだ敏感になった自分の体に慣れていないせいか、部屋の中の微かな音どころか、外のものにまで反応してつい目を覚ましてしまうからだ。
しかし最たる要因は他にある。
瞼を閉じて暗闇の中に身を置き、意識を深淵の底に沈めようとすると、しばらくしてぼんやりとある光景が浮かんでくるのだ。
血塗れになったあの時の少女が、虚ろな目で涙を流し、ずっと同じ言葉を呟き続ける。
――「お母さん」と。
その度に体が熱くなり、汗が吹き出し、動悸も激しくなってしまう。
例え体が睡眠を欲していたとしても、目を開けてどんなものでもいいから、何かを見つめ続けている方がまだ気分は楽であった。
やがて小鳥のさえずりを合図に外の世界は白んでいき、街の日常を彩るコーラスの参加者が次々に増えていくのを耳にしながら、俺はゆっくりと重い体を起こして新たに始まる一日を迎えた。
もしこの呪いが解けなければ平常心が保てず今日、明日にでも自ら命を絶ってしまうのではないかという恐怖に怯えながら。
◇
太陽が頭上高くに位置した頃、俺は光に吸い寄せられる虫のようにフラフラと力なく目的の場所を目指して歩いていた。
長い時間をかけて到着すると、花壇の手入れをしているよく見知った人物の背中に向かって名前を呼んだ。
「リリィ……」
聞き覚えのある声にリリィは立ち上がり、満面の笑みで振り返る。
しかしよっぽど酷いものだったのだろう。俺の顔を見るなりその笑顔が消えると、代わりに自分の手で口元を抑え驚愕の表情を浮かべた。
「ど、どうしたんですか!? どこか具合でも……」
「いや、そんなことないよ。それよりフレミング神父は?」
俺は神父様を訪ねてこの教会までやって来た。
自分を苦しめているものが間違いを犯したことへの罰だというのなら、全てを吐露すれば許しを得られるのではないかと僅かな期待を込めてのことだ。
それに神父様なら懺悔した内容を絶対に口外することがないということも打って付けだった。
「それが、神父様は今……」
そう言ってリリィが視線を向けた先を見れば確かに神父様がいたのだが、その周りには礼拝にしては多くの人が集まっていた。
皆一様に黒い服に身を包んでいるので葬儀の最中だろうか。
その様子をまじまじと見ていると、沈痛な面持ちでリリィが語ったことに俺の顔はさらに酷いものとなった。
「先日の事件のご遺族の方々です。倉庫の中で無惨に命を奪われた……」
それを聞いて、俺は棺の周りを囲んでたくさんの人が啜り泣いている光景から目を離せなくなった。
肉親、恩師、友人、もしかしたら恋人だっているかもしれない。
棺に突っ伏して一層激しく泣いている女性は母親なのか。
どことなくやつれているように見えるのは元からというわけではなさそうだ。
すると突然、ずっと耳に残って離れないあの少女の声が聞こえてくると、まだ昼間だというのに辺りは一切光が届かないほどの闇に包まれた。
その後、遺族たちがこちらに向き直り俺と視線を合わせる。
ピタリと泣き止み、立ち上がった母親も同様だった。
憎悪、怨み、嫌悪、軽蔑、殺意……その目に込められた感情に俺は気圧され、息苦しさを覚えた。
腰を折って前のめりになり、左手で胸を、右手で口を押さえ思わず嘔吐しそうになる。
だんだんと呼吸も満足にできなくなり意識を手放しそうになるが、その間際に自分の名前を叫ぶ声によって救われることになった。
「――ファリス!」
いつの間に俺はリリィに抱きかかえられていたのか。
肩で息をしながら顔面蒼白になっていると思われる顔を覗き、心配そうな目をこちらに向けていた。
目に映る風景もここに来た時と変わっておらず、この場の雰囲気にそぐわないくらいに燦々と陽光が降り注ぎ、遺族たちもまた変わらず故人との別れを惜しんでいた。
冷静であるならば、さっき俺が見たものが幻ということくらいすぐに分かったはずだ。
だがそれが叶わなかったのは自分の中にある罪悪感のせいなのだろうか。
「やっぱり今日はおかしいです。病の発作ですか? それともこの間の落雷の影響が……」
落雷の影響?――
随分と元を辿ればまさにその通りだと俺の口からはつい乾いた笑いが漏れてしまい、それを見たリリィは訝しげな顔をする。
「とりあえず私の部屋で休んでいってください」
「ありがとう……でもまともに歩けるうちに帰るとするよ」
小さな体で支え続けてくれていたリリィから離れ、そのまま教会を後にしようとすると、腕を掴まれ歩みを止められたのだった。
「では、せめて家まで送らせて――」
「大丈夫だから!!」
言葉を遮る俺の怒号にリリィの肩が跳ね上がり、引き止める為に伸ばしていた手を慌てて引っ込めた。
こうしてリリィに怒鳴ったのは初めてのことかもしれない。
いつでも笑顔が絶えず、穏やかで、慈愛に満ちた彼女に対してそんなことをすれば天罰が下るかもしれない。そう思えるほどに無縁なことだったからだ。
だけどそんなリリィだからこそ関わってほしくないという思いで突っぱねてしまったのかもしれない。
もしくは一遍の曇りもない姿が今の俺にとっては逆に疎ましく感じてしまったのか。
救いを求めてここへ来たくせになんと偏屈で我儘なのかと、そんな自分に対して怒りが湧き上がってくる。
「ご、ごめんなさい……」
突然のことに両手を胸に当て、慌てふためくリリィの目にはうっすらと涙が滲んでいた。
それは幼少時代に『泣き虫リリィ』とからかわれていた頃の微笑ましいものではなく、今にも消え入りそうなほどに悲しげであった。
「リリィの気持ちはすごく嬉しいよ……ありがとう。けど仕事に支障が出るし、本当に平気なんだ」
顔に浮かべた笑顔は精一杯の作り物だが、伝えた謝意は心の底からのものだ。
「また、近々顔を出してもいいかな?」
その言葉に屈託のない笑顔で「はい!」と返事をしてくれたリリィのおかげで俺の心は随分と軽くなった。
つい先日助けてもらったお返しをすると宣言しながら、どうやらまた一つ貸しを作ったようだ。
◇
リリィと別れてから俺はまた別の場所へ、本来ならば昨日にでも行かなければいけなかった場所へ向かっていた。
だけどそこへ到着した今も尚、躊躇って立ち尽くしていたが、これ以上先延ばしにしても状況は悪くなる一方だろう。
俺は覚悟を決めて、山中のログハウスの扉を数回ノックした。
しばらく待ってみたけど中からの返事はない。
物音はするからいるはずなんだけど、聞こえなかったかな?
「あの、メルリエル。俺だけど」
軽く握り拳を作りもう一度扉を叩こうとした瞬間に、建物の主の声がそれを留めた。
「入れ」
淡々とした言葉からはどんな感情が篭っているのかを汲み取ることができなかった。
怒りか、呆れか、絶望なのか。
家の中へと入り、一室に置かれた大きなテーブルに向かって書き物をしているメルリエルの背中を見ても、それは同じであった。
重い沈黙の中で時間は刻々と過ぎていき、羽根ペンを走らせ文字を書く音だけが室内に響き渡る。
俺はずっとメルリエルが口を開くのを待っていたが、この空気を切り裂く切っ掛けを相手に委ねるのは卑怯な行為なのではないか。
もしかしたら押し黙っているのはそういう意図があるのかもしれない。
「メルリエル、俺は――」
「座れ」
自らを奮い立たせてまで発した言葉を遮られて少々思うところはあったが、その声の重みに俺は素直に従いメルリエルの向かい側へ座った。
それによって今日初めて見たメルリエルの顔は意外にも淡白なものだった。
もっと怒りに満ちたような、そんな形相で迎えられると思っていたんだが。
「この記事に書かれているのはお前か?」
筆を止め、こちらを向いてメルリエルは傍らに置いていた今日の新聞を俺の目の前に差し出す。
この街の行政機関の広報が発行しているもので、そこにはあの晩の事件のことが書かれていた。
発見者が目撃したという人間ほどの大きさの黒い影。メルリエルはこの部分のことを言っているのだろうが、それは紛れもなく俺のことだ。
口を噤んでいることが肯定の意だと受け取ったメルリエルの目は、ここに書かれている以上の説明を求めているようだった。
何を思ってこのような行動に出たのか。どうしてこのような事態に陥ったのか。俺は洗いざらい全てを話した。
もっと慎重になっていればランプを放置するミスをしなかった。相手の人数をもっと正確に把握することができた。
男が人質を取る前は売り払うつもりの女性を傷付けるわけがないと、どこかで高を括っていたところもあった。
追い詰められ、理性を失った人間がどれほど恐ろしい行動に出るか理解に及ばなかった。
そもそも最初から然るべき者へ助けを求めるべきだったんじゃないのか。
鉄皇団に事件を報せるだけの時間は十分にあったんだ。彼らに任せた方が素人の俺なんかより正確に対処できたはずだ。
掻い摘んで言うなら俺の驕りが招いたということだろう。
「当たり前だ。猿に魔法の杖を与えたところで棒切れ程度にしか扱えないのと同じことだ」
ここまでの説明を聞いて、メルリエルは呆れ返っているようだった。
「一昨日も忠告したはずなんだがな。少し言葉が甘すぎたのは私の落ち度か……」
俺は自分の中に溜まっているものを吐き出すように気付く限りの自分の過ちを語るも、どうやらメルリエルが最も知りたかった部分はそこでなかったようだ。
「そんなことより、お前は正体を知られたりしたのか?」
「そんなこと」という言葉に違和感を感じつつも俺が首を横に振る。
仮面を付けていたし、ランプで一瞬照らされただけだから、顔を見られるどころかあの男性には本当に人間だったのかどうかすら定かではなかっただろう。
「そうか、ならば問題ないな」
真顔で言い放つ言葉に俺が呆けていると、それに対してメルリエルは眉をひそめ首を傾げる。
いや、それは俺のするべき反応だ。
問題ないだって? 大ありだろう。
俺はメルリエルが釘を刺したにも関わらず不十分な知識で力を使い、挙句に人が命を落とすような事態を招いたんだ。
殴られても当然だと思っているのに、なぜ罵声の一つも浴びせてこないのか。
「私にだって亡くなった少女を悼む気持ちもあれば、お前の軽率な行動に対して怒りをぶつけてやりたい気持ちもある」
ここにきてメルリエルはようやく自分の胸の内を語り始めた。
「だが敢えて表さないのはお前自身がそれを望んでいるからだ」
望んでいるって?
俺が辛辣な言葉を自ら求めているとでも言いたいのか?
「いや、語弊があるとすればそれは甘い言葉での慰めでもいいんだ。とにかく感情を高ぶらせることが出来るならなんでもいい。そしてお前は泣きたいんだろう。それこそ声を上げてみっともないくらいに」
その言葉に心当たりがあって俺は微かに体を震わす。
「それによって精神につっかえて、自分を苦しめているものを吐き出し少しでも楽になろうとしている。違うか?」
俺にはそこまでの考えはまるでなかった……が、指摘されると反論できる気が全くしないのは無意識下でそうであったからなのか。
実際その理屈であれば初めに教会へ神父様を訪ねたことも、そこで自分を追い込むような幻を見たことも頷ける。
「甘えるんじゃない。お前にはその全てを飲み込む義務があるはずだ。経験によって得た全てのものを吸収し自分の糧とする。それが犠牲となった少女へお前ができる唯一の手向けなんだ」
本当はメルリエルの口から言わせるのではなく自分で気付くべきことだった。
彼女と会話をしていると毎度自分がどこまでも未熟だということを痛感させられるな。
「未熟なのは悪いことではない、それを認めて己と向き合うことさえすればな。いくら法の上では成人になったとはいえ中身はまだまだ子供なんだ。もしも自分でどうにもできない時があれば大人を頼れ。お前が学び成長することがそうであるように、自分の経験を元に後から続く者へ道を示してやるのが大人の義務なのだから」
遠回しなのは気恥しさからだろうけど、珍しく饒舌になっているメルリエルの言葉は「私を頼れ」と言っているように聞こえた。
「決めるのはお前だ。すぐにでもあの仮面を叩き割るというのなら望み通り泣き喚いて楽になればいいさ」
これからどうするのか選択を迫られたが決断は既に決まっている。
俺はその日を境にあの姿になることはなかった。
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