第5話 安い正義の高すぎる代償
メルリエルの家を後にして街に戻ってきた時にはすっかり日も落ちていた。
光を吸収させると暗闇で発光するリラン光石を、柱の先端の装飾されたガラスの中に入れて作られた街灯が足元を照らす大通り。
そこから外れ路地裏へ姿を消すと、周りに誰もいないことを確かめ、メルリエルから譲ってもらった仮面をつけてから衣装のフードを被った。
目の前にそびえるのは大きな建物の壁。
しばらくその前を右へ左へウロウロとした後に、意を決して前へ向かって走り出す。
そして壁にある僅かな出っ張りに足をかけ、上に向かって思いっきり踏み込んで跳ね上がると次の出っ張りへ。
その動作を何度も繰り返すことにより一瞬にして屋上まで駆け上ることが出来たし、それに加え壁を蹴る時や着地をした時の足音がほとんどなかった。
さらに力を試す前に緊張を和らげようと大きく息を吐き、その場で何度かステップを踏んでから、前を見据えて疾走する。
平地を走る際のスピードもこれまでと比べ物にならないほどになっていて、やがて端にまで到達する間際のところで勢いよく踏み切った。
それから目にした光景、この身に感じる刺激、その全てが普通に生きていたら経験することもなかったのではないかと思えるくらいの衝撃だった。
体が軽く、地面がはるか下に見え、まるで羽が生えて空を飛んでいるのではないかと錯覚してしまう。
しかしもちろん実際に飛んでいるわけではないので、放物線の最高点まで達すれば後は重力に身を任せ落下するだけである。
俺が予め着地点と定めていた別の建物の屋上が近づいてくるにつれて恐怖感も増していき、いよいよその瞬間が来た時、思わず目を瞑り体を強ばらせると、勢い余って前方に転がってしまった。
やがて床面との摩擦によりその回転が止まると、そのまま俺は仰向けに寝転がり星が煌めく夜空を見上げる。
心臓の鼓動がまだ激しく聞こえてきたので、落ち着かせる為に深く息を吐いた。
昨日までの俺には……いや、普通の人間にはなし得ないことをこれほど簡単にできたのだから、やはり俺の体はメルリエルの言った通りになっているのだろう。
実際に試してみてようやく実感し、それと同時に底知れぬ高揚感まで湧いてきた。
次は何をしよう。とりあえず屋根伝いに街を一周してみようか。
そんな子供じみた考えを巡らせてすっかりはしゃいでいると、耳に入ってくる様々な音の中の一つに気を奪われてしまった。
『いや! お願いだから家に帰して!』
上体を起こしてから目を瞑り、神経を聴力に集中させてみる。
『おい、逃げねぇように繋いどけよ』
『こいつは上玉だな。攫ったことを伏せておきゃ高値が付くぜ』
何やら大変なことが起こっているようだ。どう解釈しても仲睦まじい夫婦や恋人のやり取りではないからな。
会話の内容から察するに誘拐の可能性が高い。
――助けに行かなきゃ!
瞬時に俺の頭に浮かんだ考えはそれだった。
勿論メルリエルに言われた言葉を忘れてたわけではない。
だけど知ってしまった以上見過ごすことなんて出来ないじゃないか。
理不尽に危機的状況に追い込まれた人がいると分かっているのに……自分に助けられる力があるのに何もしないのは同罪に等しいだろう。
原理はいくら考えても理解しようがないが、幸いにも集中して音を拾うだけで、それが発せられている位置も距離も把握することが出来た。
それを頼りにすぐさま俺は目的の場所へと急行したのだった。
◇
声を辿って着いた先は街中に建っている大きな倉庫だ。
外部を少し調べると破損している箇所があったのだが、穴は大人の男の胴回りくらいの大きさだったので通るのは難しそうだ。
――と思いながらも一応試してみたら意外にも簡単に抜けることができた。
振り返ってもう一度通った所を見てみると、一体自分の体がどんな形状になっていたのか……考えるとちょっと怖いな。
そのまま梁の上を進んでいき、広い場所まで出るとようやく声の主を見つけることができた。
いかにもゴロツキという風体の男が五人、そして足錠で柱に繋がれている犬人族の少女。歳は自分より一つか二つ下くらいだろうか。
身なりが普通だから奴隷というわけではなさそうだ。
寧ろ攫ってきて、これから奴隷商人にでも掴ませようと画策しているのかもしれない。
男達は全員腰に剣を差していて、そのうちランプを持っているのが二人、あとは少女の傍らにも一つあるか。
天井近くの小窓から差し込む僅かな月明かりを除けば光源となるのはそれくらいで、倉庫の中は少し離れればお互いを認識できなくなるくらいの暗さだった。
それなのに俺の目には全てのものがハッキリと目に映っていた。
猫は夜目が利くとは聞くがこういうことなのか。
状況は把握できた。
後は行動に移すだけなのだが……
気付けば俺の手は震えていた。
感情に任せて駆けつけたが、いざ現場を目の当たりにすると嫌でも実感が湧いてくる。
相手は複数人だし、力を手に入れたと言っても俺は戦い方というものを知らない全くの素人なんだ。
しくじることが死に繋がる。
即ち絶対にやり直しがきかない。
それほどの重圧に、あんなに息巻いていた自分はとうに消え、すっかり息は上がっていた。
――だとしても!
握り拳を作り自分の胸を強く叩く。
ほとんど気休めのようなものだが、それでもほんの少しだけ落ち着きを取り戻せたのは幸いだ。
ランプを持ったうちの一人が倉庫の中を巡回しているのを見て、梁を伝って近くまで移動する。
ゆっくりと歩を進めていく男がちょうど真下まで来た時に、俺はいよいよ意を決した。
すぐにそこから飛び下り背後に着地するが、男の耳にはその時の音は全く聞こえなかっただろう。
気付かれる様子はないが、尚もゆっくりと前進を続ける男の口を即座に左手で塞ぎ、右腕で頸動脈を締め上げる。
抵抗されるが決して離さない。ここで少しでも躊躇すれば逆にやられるのはこっちだ。
しばらくした後、脳への血流が断たれた男が意識を手放したのを確認すると静かに床に寝かせ再び梁の上へと移動した。
これは居候をしていた時にフィルおじさんから教えてもらった技だ。
お手本の為に手加減をしつつ実際に自分にかけてもらったら、俺が予想以上にひ弱過ぎて気を失ってしまったのはいい思い出である。
つまりこれの効果は身を持って理解していたということだ。
よかった! 上手くいった。
数で不利ならばこうして気付かれないように一人ずつ潰していけばいい。
そう思って先程の場所を見下ろした途端に、俺は自分の失敗に気付いてつい舌打ちをしてしまう。
男が手にしていた火の灯ったランプをその場に置いてきてしまった。
取りに戻ろうと思った時には既に遅く、それを見つけた二人の男がお互いに顔を見合わせると、ゆっくりこちらに向かって歩き出した。
やがて気絶させた男が見える距離に到達すると、状態を確認するため同時に側まで駆け寄ってきたので、先程と同様に背後に飛び下り、時間をかけずに意識を奪えるよう指を揃えると、首の側面へ渾身の力で打撃を食らわせた。
その音に反応してもう一人がこちらに向き直るやいなや膝を蹴って折り、声を上げて倒れ込んだ後に顎を目がけて踵を落とす。
一人に気付かれた辺りであまりにも焦ってしまったのでつい行動が雑になってしまったが、これで三人片付いた。
さすがにここまでの音を立てれば他の者が異変に気付くのも当然で、残された者は剣を抜き、声を掛け合って一箇所にまとまっていった。
少女の傍に置いていたランプを手に取り二人同時にこちらを照らそうとしてくるが、その前に一気に距離を詰めてその内の一人に飛び掛って押し倒した。
そしてそのまま馬乗りになり男を殴る。
顔が腫れ上がり、鼻や口から大量の血が吹き出しても殴る。
一心不乱に、無我夢中に、早く気を失ってくれることを願いながら、とにかく殴り続けた。
もう一人が仕掛けてきた時にこのままでは無防備になるだろうと考えていたからだ。
だが予想に反してその時はやって来なかった。
何かおかしいと思い、下に敷いていた男が動かなくなったのを期に振り返ると、目の前に広がる光景を見て血の気が引いた。
髪を掴まれ、無理やり顔を上げさせられた少女が目を瞑り、涙を流しながら震えている。
最後の男が剣を首筋に宛てがっていたのだ。
「てめぇ! 一体何者だ! 妙な格好しやがって」
「ま、待って……」
「う、う、動くな! 動くんじゃねぇ!!」
興奮状態の男に対して俺は両手を広げ前に突きだし、腰を落とし、逆らう意思がないことを最大限に主張しながら「待って」、「やめてくれ」という言葉をひたすら繰り返すしかなかった。
しかもこんな時にはどう対処するのが最善なのかという知識もないことが、焦りや混乱をさらに増長させているのだろう。
事態が好転することもないまま俺と男の睨み合いは尚も続き、倉庫の中は静寂に包まれていた。
聞こえてくるのは二人の荒い呼吸と少女の嗚咽だけ。
いや、少し離れた場所から微かに妙な音が聞こえる。
初めて聞くような音じゃない。これは……弓を引き絞る音?
視線だけを動かして音の出処を探ると、そこには俺が把握しきれていなかった男がこちらに狙いをすましていた。
おそらく物陰か倉庫の外にいたのか。
次の瞬間には矢が放たれたが、その速さは俺の目で簡単に捉えられるものだった。
それもたったの一本だ。複数が同時というわけではないなら避けるのは容易いだろう。
だけど俺は今動くことが許されていない。
避けることはもちろん、手で払い除けることさえ。
甘んじてこの身に受けるしかないのか。
自分の取るべき行動について思いを巡らせていると、気付いた時には目に入ってくる全てのものがひっくり返っていた。
俺は迫り来る危機に対して意志とは関係なく本能で回避行動を取っていたのだ。
空中で身を翻し、矢は背中の下を通過していく。
さらに体を捻り体勢を立て直して床に着地をすると、仮面の下で相手には見えないが、俺は懇願するような眼差しを目の前の者に向けていた。
次にこの男が取る行動が安易に想像できたからだ。
「動くなっつったろーが! よ、よくもっ!」
「ち、違うんだ! 今のは……」
「バカにすんじゃねぇ!!」
張り詰めていた何かが弾けたように激昴した男は言葉を投げかけて――
手にしている剣を勢いよく引いた。
少女の首筋からは大量の血が吹き出し、半身を真っ赤に染める。
目を見開き、視線をこちらに向けながら口を動かすが声は出せていない。
そして目からさらに一粒の涙が零れ落ちた後、頭から崩れ、倉庫には鈍い音が響き渡った。
「ひっ、ひいぃぃぃぃ!!」
「バカ野郎! さっさとずらかるぞ!」
自分のしでかしたことに腰を抜かしていた男は仲間と共に一目散に倉庫から逃げ出す。
茫然自失していた俺はやがて我に返ると、急いで倒れている少女の元へ駆け寄り仰向けの状態した。
そしてまだ血が溢れ出る傷口を両手で圧迫してなんとか止めようと試みる。
これが考えが及ぶ範囲で出来る精一杯のことだった。
リリィがいれば治癒魔法でギリギリどうにかなったかもしれないのに。
今の俺はあまりにも無力だ……
押さえている首から感じられる体温がどんどん低下していくにつれて、両手にまとわりつく生温かった血も冷えていく。
やがて最後の力を出し切っているのか、無意識のことなのか、微かに口を動かすと少女は絞り出すように声を発した。
「お……かあ……さん……」
弱々しく上下していた胸は動きを止め、少女の目からは光が消え、今度こそ倉庫の中は完全なる静寂に包まれた。
俺はベッタリと血のついた手を離して、もはや瞬き一つすることもない目を見つめたまま、まるで糸の切れた操り人形のようにその場で脱力する。
途端に全身に汗がドっと噴き出し、耳鳴りと共に激しい目眩に襲われた。
暑いのか、寒いのか、自分が今どう感じているのかも分からなくなっている。
俺のせいだ……
全ては俺の誤った行動が招いた事態だ。
反省とか後悔とか、そんな生易しいものではない念に苛まれながらどのくらいの時間が経ったのか。
いつまでもこのままの状況でいることは許されないようで、開きっぱなしになっていた倉庫の扉から誰かが入ってくる気配を感じた。
「誰かいるのか?」
近くにいた者が騒ぎ声を聞いて不審に思ったのだろうか。
ランプの光を揺らしながら年配の男性がゆっくりとこちらに歩いてくるのが見える。
とにかくこの場から離れなければ。
その思いで立ち上がろうとするが、足に力が入らず自由が利かない。
それでも奮起して金縛り状態を解くことができたので、この場をランプで照らされた直後になんとか梁の上まで移動した。
そして男性の驚きに満ちた悲鳴を背に受けながら、来た道を辿り、逃げるように夜の街へと飛び出した。
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