英雄に恋する少女 ≪アリサ・メイブリック≫
お母さんは私を産んですぐに亡くなった。
お父さんが仕事に行ってしまうと私は一人っきりになってしまうから、その間はラドフォード家に預かってもらっていた。
そこでいつも遊び相手になっていたのは、物心がついた時から知り合いだった黒髪に真紅の瞳の男の子。
あくまで知り合い、友達とは言わない。
なぜなら私はこの子のことが好きじゃなかったから。
ラドフォード家の次男――ファリス・ラドフォード。
二つ上のファルークのことも知っていたけど、彼は子供ながらに逞しく、年齢に似つかわしくない優しさやユーモアがあり、周りに安らぎや活力を与える子だった。
アレクシス様の血を引いているというのも頷けるほどに。
でもファリスは全くの正反対。
いつも裾を握りながら両親の傍に寄り添って、私が目を合わせようとするとすぐ隠れてしまう。
そのくせに気付けばいつも近くにいるんだから意味が分からない。
口数も少なく、自分の考えをはっきりと口にしないし、何を考えているのかもさっぱりだ。
私はこういうナヨナヨした男の子が大嫌いなの。一緒に過ごすことにいつも気を重くするくらいに。
でもアレクシス様の家に行くことはそれ以上に好きだった。
ファルークは楽しい子だし、おばさんが作ってくれるおやつはとても美味しいし、何よりここには私が一番好きな本がある。
アレクシス様の書斎に入れてもらった時に偶然見つけたのだけど、とても古い物語らしく作者は分からない。
聞いてみたらメルリエルという人から譲り受けた本だとか。
難しい文字ばかりだから最初はおばさんに教えてもらいながらだったけど、同じ話を何度も何度も読み返した。
誰も正体を知らない英雄が悪者を懲らしめて街を救う物語――
口にするのは少し恥ずかしいけど、私はこの主人公に恋をしていた。
初恋が物語の人物なんてバカバカしいと思われるけど、お金が欲しいとか誰かに褒められたいという思いは一切なく、自分の街を、そこに住む大切な人を守りたいという一心で敵に立ち向かう。
読めば読むだけその純粋さに惹かれ、胸が高鳴っていった。
展開が進むにつれて主人公と深い関係を築いていくヒロインのことが本気で羨ましく思えるくらいに。
この続きがどうしても知りたくて街中の書店や図書館を探し回ったけど、結局見つけることが出来なかった。
それどころかこれと同じ本すらも。
アレクシス様の話では存在するのはこの一冊だけみたい。
どういうわけか完結することがなかったこの物語。私はいつも様々なラストシーンを自分なりに頭に思い描いていた。
それがきっかけで、いつしか私は作家になりたいという夢を抱くように。
たくさん勉強して、納得できる文章を書けるくらいの実力をつけることができたら、この主人公の結末を書かせてもらいたい。
それが私の夢だった。
そして5歳になったある日のこと、私はラドフォード家の子供部屋で本を読んでいた。
今日はアレクシス様がいなくてあの本を借りられないから別のものを。
壁に寄りかかって座っている私の向かい側にはファリスがいる。今日はファルークもいないから二人きりだ。
相変わらず目も合わせずにずっと無表情。そんな顔をするくらいならおばさんのところにでも行って甘えてくればいいのに。
お互いに会話もなく、部屋には本のページをめくる音だけ。重苦しい空気に居心地が悪くなり私はたまらず部屋を出ようとした。
「どこに行くの?」
なんでそんな時に限って声をかけてくるの? だったら最初から話くらいしなさいよ! 本当にイライラする奴ね!
「お手洗よ! 女の子にそんなこと言わせないで!」
勢いよく扉を閉め、大きな足音を立てながら外へ飛び出した。
お手洗なんて嘘だった。
そう言っておけばすぐに戻ると思うだろうし、さすがにそんなところまでは付いてこないでしょ。
部屋を後にしてから私は自分の家よりも遥かに大きい庭を散歩していた。
明け方まで雨が降っていたので、まだ雫を残した草木が太陽の光に照らされ、キラキラと輝き眩しいくらいだった。
しばらくして敷地内の茂みに井戸があることに気付いた。これまで何度もこの家に来ているけど初めての発見だ。
私はその井戸の中を覗き込んでみた。
底どころか、途中から何も見えなくなるくらいだから深さは相当なものかも。
たぶん何かしら刺激が欲しかったのか、まるで暗闇に魅了され、吸い込まれるようにさらに身を乗り出す。
危機感はあったけど、それを感じるほどに胸がスっとしていくような気がしていた。
だけど踏ん張りを利かしていた地面がぬかるんでいて、私は足を滑らすと真っ逆さまに井戸へ落ちてしまった。
どのくらいの時間が経ったんだろう。この何も見えない狭い空間のせいでとっくに感覚は狂っていた。
古井戸だったようで中にはほとんど水が入っていなかった。
また、何度かどこかに引っかかって落下速度が落ちて、その僅かに溜まった水がクッションになったのか、体中に傷はあるものの深手を負っていなかったのは不幸中の幸いだ。
見上げると夜空の満月のように、丸い光が真っ暗闇の中に一つ浮かんでいた。
興奮状態が収まってくるのに伴って、私の中には恐怖心が湧いてきて、それに支配されないように、そして助けを求める為にひたすら泣き叫んだ。
だけど人が来る気配なんて一向にない。もう泣き疲れて涙は枯れ、声を張り上げることもままならないほどになっていた。
「私……死ぬのかな?」
誰に投げかけたのかも分からない疑問。
いや、きっと自分に問いかけたんだと思う。
自分の中では確信していたんだろう。だけどそれを認めたくないからつい曖昧にしたくなってしまったのかも。
体が震えてきたのもずっと水に浸かっていて冷えたからというだけじゃない。
私は誰にも知られることなく、この暗がりの中で死んじゃうんだ……
「アリサ!」
自分の名前を呼ぶ声に反応し顔を上げると、射し込む光の中には小さな人影が浮かんでいた。
暗闇に目が慣れていた為に一層眩しく感じ、輪郭しか捉えられなかったが、その声だけで自分がずっと嫌っていた男の子だということは分かった。
「ファリス! お願い、誰か助けを――」
呼んできてほしかったけど、次の瞬間ファリスはとんでもない行動に出た。
あろうことか井戸の上から飛び降りてきたんだ。落ちたんじゃなくて、自分から飛び降りた。
私は呆気にとられてしまった。
バカなの? 底なしのバカじゃないの? 子供とはいえ大人を呼ぶくらいの考えは浮かぶはずでしょ!
しかもまともに落下しちゃったから大怪我してるし。もしかしたら足の骨が折れちゃってるかも。
およそ理解できないような行動によって僅かな希望すら潰えたショックと怒りで、私は目の前で呻いているファリスに怒鳴り散らした。
「信じられない! ああいう時は普通助けを呼んで来るものでしょ! なんでこんなことしたのよ!」
私が問い詰めると、体を打ち付けて息が詰まっているからか、声を絞り出すようにしてファリスが静かに口を開いた。
「アリサの目……いつも寂しそうだから」
そう言われて私の心は揺らいでしまった。自分でもその言葉が何を指していたのか分かっていたから。
私は母親の顔を知らずにこれまで育ってきた。
おばさんは私のことを本当の娘のように、自分の息子たちと同じくらい優しく接してくれ、時に厳しく叱ってくれる。
だからこそ余計にその存在を望む気持ちが強くなっていった。
でもそれを知られると絶対にお父さんを困らせることになるから、決まって一人になり静寂に包まれた時にだけ膝を抱えて泣いていた。
みんなに隠し続けようと頑張ってきたことを、ファリスは私の目を見ただけで気付いたっていうの?
「でも、誰かと一緒にいればちょっとだけ寂しくなくなる」
その一言で悟った。私がいくら疎ましそうな顔を向けてもファリスがいつも近くにいた意味を。
それと同時になんだか笑いがこみ上げてきた。そんなことで……そんな理由だけで身を呈してあそこから落ちたのかって。
今まではずっと何を考えてるのか分からなかったけど、考えが分かってもやっぱり分からない。
張り詰めていた心が解れてきたからか、また私は体温の低下を感じて震えが止まらなくなった。
それを見たファリスは傷付いた体を引き摺るように寄せると、私の背に手を回し強く抱き締めてきた。
「え?……ちょ、ちょっと! 何!?」
思ってもみなかったことに私は混乱していた。けど、ファリスが言葉にするまでもなくその真意は伝わってきた。
体が温もりを取り戻していくのはきっと気恥しさの為だけじゃないはず。
私も同じように手を回し、もっと二人の距離を縮めた。
トクンッ……と規則的に心臓の音が聞こえてくる。
普通より速いかも。これはどっちの音なんだろう。もしかしたら同じリズムを刻んでいるのかな?
それが私に安らぎを与え、自然とお互いに目を瞑り、頬を合わせていた。
不器用で、無鉄砲で、自分で勝手にピンチになる、カッコ悪くて頼りない男の子――
だけどその時、ファリスは間違いなく私の物語の英雄だった。
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