番外「その日・後(ノワン公爵嫡子視点)」


「あら、気が付きまして?」


 痛い、後頭部の痛みで覚醒したおれに誰かが声をかけていた。身体は横たわったまま、視界はぼやけてまだはっきりと像を結ばないが、女の声だ。


「うぐ……だ、誰だ」


 メイドではないこの家の嫡男たるおれの前で畏まりもしていないのだからメイドの筈がない。父の愛妾も同じ理由から違うだろう。我が家に仕える者でないとしたら。


「うん?」


 待て、おれは確か屋根から落ちた筈。そんなところからこの家の嫡男が降って来るとは普通思わない。よもや、この女は俺がこの家の嫡男と気づかぬからこんな態度を取っている可能性もある。


「あ……ぐっ」


 使用人ごときに侮られるというのは屈辱だが、よくよく考えれば今のおれは黙って部屋を抜け出した身。むしろ嫡男おれだと気づかれれば、抜け出したのがバレてしまう。ここはこの女の勘違いに乗じるべきだ。となると、俺は公爵嫡男でもなんでもない男、と言うことになる。


「どうしまして?」

「いや、なんでもない」


 さて、こんな時はどうすべきだったか。使用人がおれを助けるのも手当てするのも当然、せいぜいその務めを果たさせてやるだけだが、見も知らぬ男の立場でそれが拙いことぐらいは俺でもわかる。どうすればいい、見上げた心がけだと褒めればいいのか。いや、その前にまずは身を起こすべきだろう。


「うん?」


 起き上がろうとすると、ぼやけていた視界が徐々に鮮明になり始め。


「確か」


 おれは首をめぐらせて声の主を捜し。


「あ」


 姿を目に入れた瞬間、雷に打たれたようであった。燃えるような髪の色。あの特別魔法教官とやらを思い出しもする色合いだったが、風に靡くそれはまさに燃える炎の如し。絶対の自信を宿した力強いまなざし。整った顔立ちの中にあれば、強すぎると思う者もいるやもしれんが、嫡男たるおれの横に立つにはむしろこれぐらいが好ましいだろう。この二点だけでも素晴らしいというのに、何もかもを圧倒せんがばかりの大きさの胸っ。好みだ。何もかもがおれの好みだった。


「しかし――」


 身に着けた衣服は明らかに我が家のメイドのモノではない。いや、こんなメイドが居たなら忘れている筈はないし、父上に頭を下げて何としてもおれ付きのメイドにしていただいていたことだろう。


「ならば、客人か?」


 いや、それもあり得ない。我が家に招かれる客人だったとしても屋根から落ちてきた見知らぬ男の面倒を見るはずがない。そんなもの使用人にでも任せておけばいいのだから。


「わからん。だが、そんなことはもうどうでもいい!」


 あの忌々しい特別魔法教官とやらのこととてそうだ。居場所はわかっていて、雪辱を晴らす機会などいくらでもあるが、この女と会う機会がまた訪れるかどうかなどおれは知らぬのだから。


「おい、お前! 光栄に思うがいい。おれの愛妾にしてや、っ」


 そこまで言いかけて、思い出す。今のおれは公爵家の嫡男ではなく屋根から降ってきた見知らぬ男だったと。


「……危ういところだった」


 見知らぬ男が愛妾にと言い出したところで、喜ぶ女など居るはずもない。この状況で女を口説くとなれば、家柄には頼れぬということか。なんと歯がゆい。だが、おれは決めたのだ。何としてもこの女を自分のモノとしてみせると。

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