ワガハイがくれたもの

nameless権兵衛

ワガハイがくれたもの

 山の端に没した夕陽が、名残りとばかりに雲を鮮やかな茜色に染め上げる。美しさに誘われて、先刻からベランダにて暮れなずむ空を眺めていると、遠くからは、まだ夏は終わりじゃないぞ、とばかりにセミの鳴き声が聞こえてくる。

 気持ちの良い夕暮れだった。少し涼を帯びた初秋の風が爽やかに吹き抜け、どこかノスタルジックな思いに駆られる。そういえば‥‥、私はふと思い出す。ワガハイと初めて出会ったのもこんな日だったか。


 昔から私は人付き合いが苦手で、不愛想な男だった。別にこちらとしては普通に接しているつもりなのだが、顔が怖いだの不機嫌そうなどと言われるうちに色々と煩わしくなり、周りとは必要最低限のコミュニケーションしかとろうとしなくなった。幸いうちの工場は、仕事さえできればとやかく言われることもない所なので、特に親しい付き合いもなく、ただ淡々と仕事をこなす灰色の日々を過ごしていた。

 そんな私だが自炊だけはきちんとする方だった。別に料理が好きと言うわけではないが、田舎の鉄工所は給料が安い割に重労働で、必然健康管理が大事となる。金がないから一人暮らしを始めた時から色々作っているうちに上手くなり、美味い飯を食うというのは日々の数少ない楽しみの一つとなっていた。

 その日、私は会社の帰りにスーパーであさりのむき身を買い求め、やたら綺麗な夕焼けを見ながら家路についたのを覚えている。家に戻って時雨煮にでもしようと生姜を探していると、裏口の外から「ニャ~」と、甲高い鳴き声が聞こえてきた。当時の私は家賃が安いという理由で古いオンボロアパートの一階に住んでおり、使ってはいなかったが、裏口は小さな庭に面していた。果たして裏口を開けるとそこには黒白の痩せた子猫が座っており、私の姿を見るや、再びか細い鳴き声を上げる。

 そいつは招き入れられたとでも思ったのか、人間を怖がるような素振りは見せず、当たり前のように家の中に入ってきた。正直私はこの予期せぬ闖入者に困惑した。本当ならすぐ追い出すべきだったのであろうが、私とてまるっきり心がないわけでもない。一生懸命鼻をひくつかせて食べ物を探す子猫を可哀想に思い、あさりのむき身を一つかみ食わせてやると、猫はウミャン、ウミャンと嬉しそうな声を上げ、たちまちのうちに平らげてしまった。食後につまみだしはしたが、私はちょっと良い事をした気分になったのを覚えている。その時はこれで終わりだと思っていたのだが、とんでもない。これが始まりだったのだ。

 翌日、夕飯の時間にまた猫は現れた。さすがに居つかれては困ると無視を決め込んだが、何度も鳴かれているうちに根負けした。すると当然のように猫は毎日現れるようになった。もちろんアパートはペット禁止で、何とか追い払おうとはしたものの、この時点ですでに手遅れだった。次第に撫でてやると甘えてくるようになり、私の膝の上で丸くなって寝るのを好むようになり、その内私も顔を綻ばせる機会が増えていき、いつしかこの猫との穏やかな生活を楽しむようになっていた。

 一つ失敗したことと言えば、当初猫など飼う気のなかった私は、名前がまだないこの猫をワガハイと呼んでいたのだが、困ったことにこれが呼び名として定着してしまったことか。


 香奈実が初めてうちに来たのは、それから一年が経った頃である。当初私の認識で彼女は、数年前入社した事務の女、程度のものであった。ある日、仕事で大失敗をやらかした事に気付いた彼女は、たまたま残業で残っていた私の元へ泣きついてきて取り乱し始めたのだ。それまでの私なら関わり合いを持ちたがらず、冷たく見放していたかもしれないが、何やら彼女の哀れっぽい様子が初めて会った頃のワガハイと被るものがあり、ミスのフォローに手を貸すこととなった。

 上司と取引先に頭を下げまくり、何とか収拾がついた頃には日もすっかり暮れていた。大いに感謝した彼女は、せめて夕食をご馳走させてくださいと申し出たが、私はつい猫に食事を上げたいから早く帰りたいと答えてしまった。すると彼女は顔を輝かせて、猫飼ってるんですか、と食いついてきた。彼女が無類の猫好きであることはそれから嫌でも知ることとなったが、まさかこれが縁で彼女と付き合い始めるとは、人付き合いが苦手な当時の私には思いもよらぬことであった。


 それから色々なことがあった。ワガハイと香奈実と一緒にいるのが当たり前のように感じるようになった最初の春。まず、さすがに隠れて猫を飼っていたことがばれ、ペット可能物件のアパートに引っ越しを余儀なくされた。その後、ワガハイが家を出たきり何日も帰ってこないことがあり、夜ごと香奈実と一緒に近所を探し回ったこともあった。数日後何事もなかったように帰ってきて、私は喜べばいいのか怒ればいいのかわからなくなったのを覚えている。そういえば、香奈実と初めて寝たのはこの頃だったか。

 二度目の春を迎える頃には、私に対する工場内での評判もいつしか変わってきていた。人当たりが良くなったとか、優しい感じがするとか言われるようになったのは、優しく接すれば優しさが返ってくることを学んだからであろう。そのせいもあってか、仕事も責任者として扱われるようになり、給料も少し上がった。

 二回目の引っ越しをしたのは三度目の春を迎えた頃で、今度はワガハイだけじゃなく香奈実とも一緒に住むためだった。そして先週、珍しく出張を命じられ、一週間程地元を離れて一人ホテルで過ごしている間に思い知ったことがある。もう私はワガハイと香奈実がいない生活には戻れないな、と。そしてある決意を秘め戻ってきたのだ。


「直佑さん、夕食が出来ましたよ~」

 キッチンから香奈実の呼ぶ声が聞こえ、私はポケットの中に手を伸ばし、大事な箱が収められていることを確認する。そして星が瞬き始めた空を後に、彼女の元へと向かう。ワガハイが嬉しそうに足元に寄ってきて、テーブルにはいつになく豪勢な夕食が並んでいた。

「おお、すごいな今日は。何かあったのか?」

「もうっ、やっぱり忘れてる。今日はあなたとワガハイちゃんと出会って三周年なのよ」

 微笑みながら彼女は言って私を食事の席に着かせようとするが、その前に私は香奈実を呼び止めた。

「忘れていたわけじゃないさ、私からも香奈実にもらってほしいものがあるんだ」

 あら、なあに?とはにかむ彼女の前で、用意しておいた箱を取り出し開いて見せると、香奈実は口元を手で押さえ驚きの表情を浮かべる。泣けなしの給料をはたいて買った結婚指輪は、ダイヤモンドの輝きを放っていた。

「これからも君と一緒に人生を歩んでいきたいんだ、受け取ってくれるかい」

 眼に涙を浮かべた彼女は震える手で指輪を薬指に嵌めると、精一杯の笑みを浮かべて、はいと答えてくれた。それを見た私も熱いものが込み上げてきて、彼女を強く抱きしめていた。

 足元にワガハイがすり寄ってきて、早くご飯を食べたそうに見上げてくるが、今だけは構ってやる余裕がなかった。だが、この幸せがワガハイのくれた小さな優しさから始まったことは、この三周年の記念日と共に生涯忘れることはないだろう。じれったそうに身を摺り寄せてくるワガハイの感触を受け止めながら、私は今この瞬間の幸せを噛みしめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ワガハイがくれたもの nameless権兵衛 @nameless-GONBE

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ