秘密

そのお店に行こうということになったのは、会社の同僚の山下さんと仕事帰りに飲みに行った時に誘われたのがきっかけだ。

「宮崎さん、浮いた話ないですね」

と山下さんに言われたのがきっかけで、いま気になっている子がいると話をした。

「なあんだ、ちゃんと女に興味あるんだ」

とビールをあおるグビリとあおる山下さんに、あっけらかんと言われた。

「そんな、僕のことどんな風にみてるんですか」

「女に興味ないから、男に興味あるのかと思っちゃった」

「な…… 。」

「うそうそ、でも宮崎さんからそういう話を初めて聞けて嬉しいですよ」

などと、仕事以外の話を初めてして打ち解けた嬉しさも手伝い、調子に乗って少し下ネタなど言い合った。

「ところで宮崎さん、僕のおすすめのえっちなお店に一緒に行きませんか」


これまで数年間、僕との距離感を大切にしてくれた結果、こうした話を控えていた山下さんが初めて「えっちなお店」という手札を僕に見せてくれたことが嬉しかった。そういうお店にはこれまで行ったことがない、と彼に素直に告げてせっかくだから一緒に行くことにした。別に行く理由がなかっただけで、興味がないわけじゃない。それに知っている人が案内してくれるのであれば、なおの事いい。

お店の待合所で、二人で待っている時、山下さんが心構えについて教えてくれた。

「宮崎さん、こういうお店ですから最初は何をどうすればいいかなんて考えちゃうかもしれません。でもね、大丈夫。基本的にはお姉さんにお任せしておけばいいし、なにかしたいことがあったら素直にそう言って、ダメならそういうシステムじゃないと優しく言ってくれるし、お姉さんがそのやりたいことについて料金の説明をしてくれる場合もあります。お客さんなんだから、色々教えてもらって当たり前の立場だと思って」

と山下さんは、親切に教えてくれた。そういう話の内容も、この待合室というシステムも、なにもかも目新しかった。待合室には、自分たちの後に来た二十代前半と思しき若者もいた。こういう店には、これくらいの年から行くものなんだなと感慨深い気持ちになった。

待合まで来た男性に先に呼ばれて「じゃ」と、こちらに目配せをして山下さんは待合室の入り口まで行き、そこで待っていた女性と奥へ入っていった。再び「そういう風になっているのか」と感心した。

そのうち、僕のところにもスーツの男性が来て、お店の奥につながる通路まで連れていってくれた。

そこにこの間一緒に美術館に行った沙月ちゃん本人がいた。お腹には「みどり」というネームプレートがあった。

あ…… 、と声が漏れた。「みどりちゃん」も同じく小さな声をあげた。その後、すぐになにか観念する顔になった。彼女とはそこで初めて手をつないだ。

ドレス姿がよく似合っていた。あと、沙月ちゃんが「みどり」って、きっとおっさんに適当につけられたお店の名前なんだろうなと思ったが、黙って手を引かれていた。手を繋いで、お客様をお部屋までお連れする、というマニュアルがあるのだろう。

普通、ということはわからないが、自分がこの珍しいシチュエーションになんとなく興奮しているのがわかる。

沙月ちゃんの身体を金で買えるからだろうか。でも、彼女とこれまで築いてきた関係を壊したくない。

金で彼女の身体と時間を買ったら壊れてしまうだろうか。

…… 壊れてしまうだろうな。大切にしてきた時間を台無しにするのは嫌だった。

部屋に二人で入ると、彼女は伏し目がちだった。決まり悪そうに彼女はこちらを見つめ、言葉を探しているようだった。僕はこれから僕が発する第一声が重要だと思った。

まずみどりという名前についてつっこみを入れようと思ったが、おどけるのは多分良くない。それは後で打ち解けてからしよう。

決定的に沙月ちゃんが傷つく前に。

「まず第一に」

僕が口を開くと、彼女は真剣な眼差しをこちらに向けた。僕はその視線を受け止めて、なんとなくもう大丈夫だという気がした。

「僕はこうしてここであった今も、君ともっと打ち解けて仲良くなってみたいと素直に思う。初めてあった時から、今このタイミングにいたるまで」

僕は自分で「まず第一に」といったのはよくなかったと思った。ただ、彼女が傷つかないようにフォローしようと思ったのだ。いくつか、何か言わなければならないことがあると本能的に感じた第一声だった。

こちらを射抜くように見つめる彼女の瞳がみるみると潤んできた。「別に第二には続かない」と考えながら、まず伝えなければならないことを必死に頭で紡いだ。

「僕は沙月ちゃんと過ごして楽しかったし、これからも一緒にお酒を飲んだり出かけたりしたいと思っている。このお仕事をしていることがわかった今も、そういう気持ちは、なんら損なわれていないです。それがどういうことなのか自分でもよくわからないけど…… つまり世間的には僕が傷ついたり何かがっかりしたりするタイミングなのかもしれないけど、僕の中の今の気持ちは、今日も会えて嬉しいなということと、秘密を知れたようでなんか嬉しいという二点だから…… 」

大粒の涙が彼女の瞳からこぼれた。初めて彼女は口を開いた。

「本当に好きな人ができた時に、自分の身体を売っていたら後悔するよって友達から言われた意味が全然わからなかったんです。好きとか嫌いとかよく分かってなかったし…… 」

沙月ちゃんの言葉の最後の方は、彼女の嗚咽で声になっていなかった。彼女の背中に腕を回して、ベッドの方に腰をかけるように促し、僕はとなりに座った。ギシリと音を立てたスプリングの強いベッドで、彼女が仕事をしてきた時間に思いを馳せた。

彼女が落ち着くのを待った。僕は右手で彼女の長い髪を撫でていた。次第に彼女の呼吸が整い、静かにティッシュで目と鼻をぬぐっている仕草を僕は見ていた。美しい女性だと思った。きっとこのお店でも、とても人気があったことだろう。

「定郎さんと美術館にいった日、このお仕事をやめようと思ったんです」

風俗で働いていたことを引け目に感じる必要はない、と伝えたかった。けれど、自分が何か伝えたいことがあるときこそ口をつぐまなければいけない。しばらく沈黙が続いた。彼女は言葉を探しているようだった。

僕は思わず「あの」と、声をかけた。彼女は、僕が「第一に」といった時と同じ真剣な眼差しをこちらに向けた。

「もし、僕が沙月ちゃんがここでしてきた仕事について…… 」

言い淀んだ。どう言えばいいんだろう。気にする必要はない?それじゃ、僕が沙月ちゃんに興味がないように聞こえる。

タルトの二層目のクリームを甘いところを切ってみせるイメージが浮かんだ。

僕は君ともっと打ち解けたい、君のことが好きだということを見せなければいけない。

「仕事について…… どうしてこの仕事をしているか教えてほしいと言ったら、教えてくれるかな」

沙月ちゃんは少し微笑んで下を向き、しばらくの沈黙のうちに話し始めた。

「最初はどうして女性が風俗で働くのだろうと気になったところからでした。そういう動機でこんな風に働くのは珍しいと思われるかも知れませんが。もちろん性には興味がなかったというと嘘になります。男性にも興味がありました。ハードルが高かったのは最初の面接です。最初は勇気がいりましたが、働いているうちに、みんな色々な事情があってこういう業界でお仕事をするんだなとわかりました。男性も…… 」

沙月ちゃんは言いづらかったのか、少し詰まった。

「いいよ、教えて」

と僕はいった。彼女は再び顔をあげて話し始めた。

「男性も色々な理由でこのお店にくるとわかりました」

と、言った。

「取材みたいだね」

「そうかも知れません。このお店でお仕事をする前に、友達から言われた言葉の意味が分からずこのお店でお仕事をしていました。さっき言った…… その」

「本当に好きな人ができた時、自分の身体を売っていたら」と、僕は相槌をうった。

「そう、後悔するよってやつです。それまでは人を好きになるってあんまり考えた事なかったから。相手が自分のしていることを見てどう感じるのか、真剣に想像したりしなかったんです」

「でもやめようと思ったんだね」

「そうです」

妙だと言われるかも知れないが、僕は性的な感情が高まってきた。

「どうしてやめようと思ったの」

「わたしの好きな人がわたしの仕事をみて、ガッカリしたり傷ついたらつらいって気がついたから…… だから今日最後の勤務なの…… 」

「なるほど。分かった。」

「その…… 。」

「まあ、そのことについては、今度の金曜日にあのお店で一緒にお酒を飲んだ時に話そう。ここでは時間も限られているからね。今週末空いてるかな」

「空いています」

沙月ちゃんの顔はさっきから比べると、いくぶん明るくなったようだった。

「さて、あと30分あるね。第二に思うことを言っていいかな」

また真剣な眼差しでこちらを見つめてきた。彼女の濡れた瞳に綺麗なまつげがひかっている。僕は立ち上がって、そばにあった椅子を沙月ちゃんと向かい合わせになるように置いて、彼女の正面に座りなおした。

彼女は少し不安げにこちらを見つめてきた。ふふっと笑って見せるといくぶん安心したようだった。

「僕は今日お客さんとしてきました」

彼女が少しいたずらっぽく笑った。かわいい子だなと思った。

「だから、お客さんとしては、君に触れてもいいのかな」

僕は右手の中指を彼女のお腹に持っていき、おへその下を軽く押して、そのまま抑えた。



沙月はヘソの下あたりを指で押され、アエギ声が腹から出た。彼は優しく彼女のへその下あたりを抑えている。彼女はまるで初めて自分のアエギ声を聞いたと思った。突然のことだった。

「突然なんですね」

と、彼女は少し混乱しながら言った。

彼女のやわらかな場所を指で優しく抑え、彼女がたじろいでも押さえて離さない。

「もちろん、定郎さんが良ければわたしに触れてください」

言いながら、最後の方は再びあえいでしまって声にならなかった。決まりではシャワーを一緒に浴びたりしなければいけないのだが、それどころじゃない。彼女はふと仕事を思い出した。接客する者としては、彼自身に触れて、彼を喜ばせて奉仕しなければいけない。定郎の方へ手を伸ばして、彼の下腹部に触れようとした。すると、彼の左手は沙月の手を捉えて、優しく繋いできた。彼の顔をみた。

「ごめんね、沙月ちゃん。お客さんの立場を利用しちゃった。つい、そうしちゃった。僕はお客さんとして沙月ちゃんに触ったけど、沙月ちゃんは沙月ちゃんでいて。みどりちゃんにはならないで。」

急にこの店での源氏名を出されて、どきりとした。接客で奉仕はしないで、ということだろうか。

「はい」

と返事をした。分からない。

相変わらず確かな意思を持つ力加減で押さえ続けられている沙月の子宮の部分に気が行って、また声が漏れた。自分のアエギ声に、少しケモノのような感じが混ざって恥ずかしい。

頭がこんがらがってきた。定郎さんの表情はさっきと変わらず優しそうだ。いきなり、私たちがこんなことになってどんな気持ちなんだろうか。ほかのお客さんと同じで、やることをやれたらそれでいいんだろうか。でも彼は、週末にはまた話をしようと言ってくれた。

「定郎さんはいま、どんなお気持ちなんですか」

と、おもわず沙月は聞いた。不安だった。

定郎は一瞬、真剣な表情になった。沙月のお腹を抑えていた指が弱まり、彼は沙月の両手を握った。正面から手をつないで見つめあった。彼の指は沙月の手の甲を撫でている。その様子をしばらく見ながら、彼は口を開いた。

「第三だけど」

「はい」

「君がこの仕事をしていたことについて、僕は不思議とがっかりしたり傷ついたりしていない。だから、沙月ちゃんがこの仕事をやめようと思い立たせるきっかけになった人も、誠実に話せばわかってくれるとかもしれない」

「定郎さん…… わたしが好きだというのは……」

「まあ待って」

と、定郎は彼女を遮った。

「今日は時間がないから、おはなしはここまでにしよう。僕が沙月ちゃんと美術館に行きたいと思ったことも、もっと打ち解けたいと思っていることも、二大切なこととして時を選んでお話したいんだ」

また今週末に、と言って定郎はその場を離れた。


定郎が去って落ち着いてくると沙月は、自分の下着が冷たいことに気がついた。何故だろうと考え、すぐに原因がわかり、胸が痛いほど高鳴った。



「宮崎さん、どうでしたか。初めてのえっちなお店は。」

「一生忘れないですよ、誘ってくれてありがとうございます」

「そうですよね、そういうものですよね。でも良い思い出の方で一生忘れない思い出になってくれて良かった」

ふふふと山下さんは笑っている。たぶん山下さんの思っているようなことではないが、まあ良しとする。

僕は沙月ちゃんに対して、口に任せて第一から第三まで話した。

あの場はあれでよかったと僕は思う。自分が話した内容は、僕が彼女とセックスしたいという気持ちと、彼女を大切に思っているという気持ちを交互に行き来しただけだし、別に一番も三番もなかったけど。

ただ、彼女と僕がバーや美術館やカフェで過ごしたささやかな幸せを壊すようなことにならなかった。それだけで良かった。

一度限りの肉体関係では、きっと満足できない。

沙月ちゃんが風俗の仕事をしていたとわかった今も、この気持ちに変わりはなかった。それがよくわかった。

「山下さん」

「なんですか」

「ありがとう」

「そんなそんな、また機会があれば行きましょう」

もう行くことはないと思ったが、そこは大人の付き合いとして「そうですね」と答えた。

僕はタルトは、沙月ちゃんにとって土台まで見えてしまったことだろう。

全部召し上がってもらえればいいのだけど。今度の週末には分かることだ。

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