タルト

森本レオナ

出会い

沙月ちゃんがお店に入ってきた時、きれいな子がきた、と感じたことをよく覚えている。僕は仕事が終わって、近所のバーでお酒を飲んでいるところだった。その子が僕の席の近くに来てくれると嬉しいなと思ったが、あまりジロジロ見るのは失礼だと目をそらし、ハイボールに口をつけながら、カウンターの向こうのマスターの視線の動きを見た。どうやらその子が僕の近くに向かってきているのがわかった。マスターが布で清めていたグラスを一度置いて、彼女の方を向き注文をとった。

「こんばんは、何になさいますか」

うーん、と言いよどむ彼女。ちらりと彼女を盗み見て、きれいな艶のある長い黒髪だと思った。

「ハイボールをお願いします」

彼女はすこし鼻にかかる声で注文した。僕は自分のハイボールを置いて、彼女の方を向いて、こんばんはと挨拶をした。彼女もこちらを向いて、挨拶を返してくれた。

「こんばんは、何を飲んでいるんですか」

彼女がただ単にこんばんは、と返事してくれたら「お近くですか」とか「仕事がえりですか」などと質問しようと考えていたが、何を飲んでいるのか尋ねてくれた。それだけでなんとなく好感があった。

整った眉とまつげ、潤いのある唇、スラリとした首元…… 。

きれいな子が近くにきて嬉しいと思うだけなら幸せだ。彼女にもっと近づきたいと思い、なぜか少し居心地が悪くなった。自分が今飲んでいるお酒が「あなたと同じ」ハイボールであるということ以外にも、色々話してみたいと思うような、こういう余裕のなさ。

「ハイボールです、同じですね」

彼女はにっこり笑って、そうですねと返してくれた。僕は彼女のことをもっと知りたいと思った。こうなったら頑張ってブレーキをかけながら、彼女とお話をするしかない。

彼女のことでわかったことは以下のことだ。

・「ここらへん」(つまり都内)に住んでいる

・このお店には「たまに」くる

・デザインを学ぶ大学生である

こんな風に、しばらくお互いのことを楽しく話せた。

・そして彼女の名前は沙月

「定朗さん、何曜日にこのお店にいるんですか」

定郎は僕の名前だ。さだろうと読ませる。今時の名前じゃないことは分かっている。

「まちまちだけど、仕事の都合で水曜と週末が多いかな」

「じゃあ、今週末また飲みましょうよ」

「いいよ、もちろん。うれしいな」

ステキな飲み友達ができた。

約束して、彼女は会計をして出ていった。彼女の会計を申し出ようと思ったが、初対面で急に奢るのは自分の品を損なう気がして、すんでのところで提案しそびれた。

同じ理由で、連絡先の交換も控えた。いいや、また週末あえたら最初の一杯をご馳走することにしよう。




彼女と週末同じ店で会うのが、目下の僕の最大の楽しみなった。三回目に同じお店で飲んでいる時、美術に興味があるという彼女が行ってみたい展示の話をした。

「沙月ちゃん、美術に興味あるなんて、なんかハイだね」

「いえ、そんなことないですよ。知識とかないですし」

「そうなの。僕の引率の先生になって、美術とは何かって教えて欲しいな」

下心の扱いだけ、自分の品を損なわないように細心の注意を払いながら提案してみた。

タルトでいうなら一番下の土台に「この子とエッチしてみたい」という根源的な欲求、中身のクリームの部分に「君のことをもっと知りたい」という感情。今回は「美術のことを教えてほしい」というフルーツ(たてまえともいう)の三層構造のデコレーションで沙月ちゃんに提案した。

「そんな先生なんて」

「冗談だよ、ただ沙月ちゃんが絵を見てどんな風に思うか教えてほしいなと思って」

「そうなんですか?」

と言いながら、一緒に行くだけならいいですよ、と彼女は承諾してくれた。

「けどわたし、誰かと美術館行くのは初めてです」

デートの約束ができた、と僕は舞い上がった。沙月ちゃんもなんとなく嬉しそうだし、上手に関係を築けているなと感じて嬉しくなった。

「エッチしたい」という僕の感情の土台の部分と「君のことをもっと知りたいたい」というクリームの部分の割合だけは間違えないように、気をつけようと思った。

まだ僕はこのタルトを土台の見えるところまで切って見せていない。

僕の申し出をこのまま切りわけていったら「エッチしたい」という土台があるのだろうという予感くらいは、彼女にもあるのだろうが。

彼氏がいるのかどうかだけ聞けていないのが、気がかりだったが、それを聞くと土台が見えてしまう。土台にたどり着くのはまだ早い。

僕は彼女に連れられて、浮世絵の展示にきた。浮世絵なんて全然知らない世界だ。興味もそんなに持たなかった。でも僕は、彼女がどんなことに興味があるのか、今日は展示を見る彼女の姿が楽しみで来ている。

そうして展示を一通り見終わって、一緒に見た国芳という人の浮世絵について、感想を聞こうと思いカフェに誘った。

ちなみに僕にとっての第一印象は、美術の教科書で昔見たような絵、だった。ただこれについては特に触れる必要もない。展示を鑑賞している間は、沙月ちゃんの少し後ろをついてみた。彼女が長めに鑑賞した絵は、僕も足を止めて観察してみたりしていた。

春画のところでよく足を止めていた。もしかしたら僕に気を使ってせっかくのプライベートを邪魔してしまうかもしれない。春画をじっくり鑑賞している姿なんて、異性にあんまり見られたくないかもしれない、などと気を回して僕は自分の行動がバレないように気をつかいながら回った。

「女の人の絵が好きなのかな」

「着物の柄とか色が好きなんです」

なんだ、そういうことかと少し安心した。まだ、彼女と性癖について話をするほど打ち解けてはいない。いずれは打ち解けたいけど。

「着物デザインとかパターンって可愛いなと思って…… 」

やっぱりハイセンスな美人なんだな、と思った。

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