祈り

 優一ゆういちの無事を祈る清楓きよかの目に、その一瞬は映らなかった。


 いや、清楓きよかの眼には、今までに起こった出来事全て把握できているわけではない。次々と沸き起こった事態に混乱し、なす術もなく立ち尽くしていた。


 だがそれは清楓きよかだけに限ったことではい。その仲間達も、そして相手の仲間たちも事態が呑み込めずにいただろう。


 ただ、最初から混乱の中に埋もれていた清楓きよかは、その瞳に事実だけは映していた。



 駆けていく優一ゆういちの態度は、それほど尋常ならざる状態といってもいいだろう。清楓きよかにとって、ずっと優しくそして大きかった優一ゆういち


 その彼が見せた憤怒の表情。


 横顔だが、その表情を一瞬だけ見た清楓きよかは、一瞬だけ恐怖する。それは彼女にとって兄とも言える存在の優一ゆういちが、これまで見せたことのないものだった。


 当然のことのように、清楓きよかの瞳は優一ゆういちを追う。だが、次々と起きる事態は、それだけを清楓きよかに許すことはなかった。


 幻想的な炎の蝶。


 その姿が、清楓きよかの視界の端に飛び込んでくる。思わずそちらに顔を向けた瞬間。


 声にならない叫びが、清楓きよかの中で沸き起こっていた。


 炎をその身に宿した蝶の群れ。いや、炎そのものが蝶の形をして、天を焦がすような勢いで駆け昇る。そのすさまじい熱量は、陽炎のように周囲の景色を歪めている。


 その中心にいる人物の姿は、紛れもなく無二むにだとわかっている。淡い姿をそのままに、彼は炎の中で立ち尽くしている。


 文字通り火に包まれている無二むにの姿。


 普通なら、その姿は苦悶にのた打ち回る事だろう。しかし、無二むにはそうならない。あれだけの炎にもかかわらず、無二むにはその姿を全く変えていなかった。地面は焼け焦げ、その臭いが清楓きよかの元にまでやってきているにもかかわらず、無二むにの姿は全く変わりがなかった。


 その事が、清楓きよかをさらなる混乱の中へと引きずり込んでいた。


 そして、無二むにの姿は清楓きよかの視界から消えていく。何も残らず、跡形もなく。彼女の前で、あっけなく。


 あまりにも唐突な事象と信じられない出来事は、人の思考を停止させる。清楓きよかの心は叫ぶ事を忘れ、ただ真っ白に染まっていく。それは隣にいる白菊しらぎくも同じだった。


 だが、時の流れは止まらない。


 清楓きよかの心が追い付くのを待つまでもなく、事態は時と共に動いていく。


 鳴り響く衝撃の音。


 その音が意味することを察したのだろう。虚ろな清楓きよかの瞳は、再び優一ゆういちの方に向けられていた。


 弾き飛ばされた優一ゆういちと、彼を襲う僧兵の巨大な薙刀。


 あたかもそれは死神しにがみがもつ鎌のよう。確実にそれが振るわれれば、清楓きよかの目の前で優一ゆういちがいなくなる。


 その恐怖が、清楓きよかを現実に引き戻す。


 だが、急に引き戻された心は、体をうまく扱えない。清楓きよかの体は固くなり、その喉は空気を通すことも忘れていた。


 祈るように両手を合わせた姿のままで。


 ただ、瞳だけは片時もそれを見逃さない。事実を刻々と清楓きよかに伝える。


 抗いようのない力が、清楓きよかの前から優一ゆういちを連れ去る。その未来を必死に振り払おうとしても、その刃の輝きは清楓きよかにそれを許さなかった。


――お願い! 誰か!


 言葉にならないその願いは、誰に告げたものでもない。ただ、誰も聞くことのないその願いは、その誰かの耳に届いていた。


 避けようのない攻撃が繰り出されようとする刹那、そこにほんのわずかな空白の時間が生まれていた。


 その一瞬の出来事が、生死を分かつものとなっていく。紙一重でその刃を避ける優一ゆういち


 まるでそれを待ったかのように、うなる刃が優一ゆういちの代わりに地面を切り裂く。そこにまだ優一ゆういちがいるかのように。


 ことさらに転げて、距離を取る優一ゆういち


 いや、その衝撃が優一ゆういちを吹き飛ばしたと言ってもいいのだろう。ありえない裂け方をした大地が、それを雄弁に物語る。


 避けた本人も、どうして生きているのかわからないに違いない。自らの四肢を確認した後、油断なく僧兵を見ている。


 だが、僧兵はそれ以上追撃をする気配はなかった。


 確かに、優一ゆういちを追っていた清楓きよかの瞳に、その一瞬は映らなかった。だが、隣の少女の声が、清楓きよかに真実を伝えていた。


無二むにさん――」


 白菊しらぎくからこぼれたその声に、清楓きよかの体は元に戻る。今まさに無二むにに向けて迫る破戒僧の姿が、清楓きよかの体に火を灯す。


 女忍者をその手に拘束したままで、無二むには破戒僧を見つめている。その真紅の瞳が油断なく相手を捉えている様を、清楓きよかは再び目にしていた。


無二むに、アナタ――」


 そうつぶやいた清楓きよかの言葉を埋めるように、豪雷ごうらい無二むにの間に雷撃が突き刺ささる。


豪雷ごうらい殿、矛を納められよ。この地での貴殿の役割はそのような事ではないはず」


 いつの間にそこに降りたのだろう。争いが繰り広げられているその場所の近くに、無災むさいが仁王立ちの姿を見せていた。


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