第28話 後日譚 長すぎる冬に、或いは、短すぎる夏に(下)

 長い冬の峠を越えたあたりだった。

 その夜はどうしても眠ることができず、渇いた心を持て余したまま、大陸に渡ってから一千日目の朝を迎えた。天候は穏やかで、厳冬はゆっくりと降っていくのだろうかと淡い期待を抱かせる朝だった。

 太陽は樹海の東からゆっくりと登り始め、水平に伸びる森の端を色づかせる。藍色の森の海から宵闇が薄まると、空は薄黄色く明けて朝を迎え入れる。その頃には太陽は空に頭を出し、森の手前側は逆光となり、幹がより黒く沈んで視界に映るようになる。そして天蓋に青みが差す頃になると、ようやく針葉樹の真っ直ぐな幹の間からも光が漏れ、長い影が白銀に落ち始める。

 太陽に照らされて鮮やかになった森と、夜の静けさと冷たさを残したままの日陰の森。二つの森が縞となって幾重もの襖絵のように奥へと続く。足元を見ずに遠くの景色を見つめながら歩いていると、二次元の平面な世界を進んでいるような感覚に囚われてしまう。光にさらされている世界を眺めているのだろうか。それとも眠ったままの夜の名残を陰に見出そうとしているのだろうか。

 焦点がぼやけ、雪に足をとられて躓きそうになる。昼と夜を一枚の平面の世界に展開することができたのならば、このように奇妙な奥行きのある縞の絵が二十四時間続くことになるのだろう。絶えず寝不足気味の気だるい身体と心を引きずり、起きているつもりでも寝ているつもりでもなく、ぼんやりと足を交互に動かしながら。抑揚の乏しい時間を刻み続ける。


 視界に映るこの景色、

 眠っていても、起きていても、消えないこの世界……


 目を細め、視界を限りなく遠くの幹に這わしたとき、光と影の狭間に一人の女性の姿を見つけた。

 そんなはずはない。

 頭に浮かんだ言葉は否定だった。疲労と渇いた心がみせた幻覚だと反射的に抑え込もうとしたのかもしれない。ここは、昼と夜、眠りの世界との狭間。彼岸の幻は雪に閉ざされた世界でも起こる。砂漠で蜃気楼に戸惑うように。厄介なことに、森では木が人の形に化けることが多々あった。

 すぐに彼女の姿は消えた。手前の幹に隠れてしまったのだ。

 立ち止まり、引き返して確認してみようと心は揺らいだが、肉体は機械的な動きを止めてくれなかった。前へと足を交互に踏み出す。幻影の可能性が高い。そう無言で判断を下した肉体に感謝すべきだろう。たとえ一歩とはいえ、後戻りすることは精神的な苦痛を倍加させる。それは治りかけている傷をいじくるようなもの。妄想に期待しても仕方がない。しばらく歩き続ければ幹の位置はずれる。そうすれば彼女は再び現れるはずだ。本当に存在してくれているのであれば。怠惰に麻痺した心はこちらの可能性を無言で祈っていた。

 再び彼女は姿を現した。幻影ではなかった。数回消えては現れ、熱っぽい眩暈に襲われる中、優しい匂いに吸い寄せられるように彼女のほうへと足を向けていた。

 迷うことなく、最後の幹を避けて歩み出る。もう視界を遮るものはない。

 もう消えることはなかった。

 彼女はまるでググゥのことに気がついていない様子だった。いや、そのようなことはないはずだ。厳冬の白銀に眠る樹海。動いている生きもの自体が稀だ。気がつかないわけがない。ググゥのことをまったく気にしていない様子と訂正したほうが正しいのだろう。背の高い幹にもたれて、低い位置で浮かんでいる青白い月を、遠い目をして追っているようだった。

 彼女は陽の当たっている幹ではなく、蒼く染まった陰の側から空を見あげていた。線の細そうな体躯で、両手を白い毛皮のコートのポケットに突っ込みながら。その姿が印象的で、深く心に焼きついた。

 朝陽を含んだ柔らかい風が吹いた。彼女の髪が胸のあたりでふわりと揺れる。まっすぐに伸びた繊細そうな髪だった。灰色がかった栗色で、細めている瞳は彩度をやや落とした緑色を帯びている。日向の下では、髪も瞳も飴細工のように淡く透けてしまうことだろう。雪に照り返されたほの暗い陰と温かみのない雪景色に違和感なく溶け込んでいる肌は白く、薄い色をした唇も特徴的だった。

 やはりリリィではなかった。異国の風貌をした別の女性だった。しかし言葉を交わさずとも、眺めているだけで初めて気づかされることもあった。遠い昔の妻も、次第に思い出されることが限定されていくリリィも、この『天秤の国』の女性も同じだった。初めて見かけたときは、決まって物憂げな表情を浮かべている。そしてその横顔を黙して眺めている。その横顔は完璧な美しさだった。

 ググゥは散らばった過去の記憶をできるだけ引き出しに片付けてから彼女へと近づいていった。美しい蝶が逃げてしまわないように慎重な足取りで。もしくは、夢なら醒めることがないように、この世界に与える刺激を最小限に留めるようにして。

 もう一度風が吹いた。今度は厳しい冬のものだった。大地を隠した雪が僅かに舞いあがる。

 あちらこちらから音が聞こえた。枝に積もっていた雪が落ちる音だ。身体の芯まで届いていたはずの冷気が、鈍痛となって染みた。一瞬だけ真冬の形相を醸し、治まってからそっと顔をあげたとき、彼女と目が合った。彼女は風に散ることも逃げ出すこともなく同じ場所にいてくれた。

「あなたのことをずっと眺めていたわ」

「僕も、君のことをずっと眺めていたような、気がする」

 言葉の繋ぎ方が分からなかった。人との知り合い方を忘れてしまったのか、それとも、これがまだ現実として受け入れられなくて戸惑っているのか。幸い彼女から言葉をかけてくれたので、かろうじて冷静さを保つことができた。

 彼女の声を聞き、久しぶりに言葉を発したことで、気持ちも僅かばかり落ち着きを取り戻した。彼女が何者で、どのような運命の巡り合わせによってこの地で出会うことになったのかという謎は、取り残されたままであったが。ともかく、嬉しいという感情が芽吹いたことは確かだった。それは久しぶりに言葉を交わせる相手と出会えたという、単純な理由に基づくものなのかもしれなかった。

 この感覚は、『孤独の国』で鳩の女王に助けられたときの安堵感とも似ていた。その一方で、このような季節に閉ざされた白銀の樹海で偶然に出会うはずはない、という警戒感を消せない自分もいた。これは、『憂鬱の微笑』や『永承の砂浜』の類の新たなまやかしではないのか、と。何しろこの地で一千もの昼と夜を睨み、彷徨い続けてきたのだから。新たなまやかしを生む土壌は充分に養われている。いつ、ふいに襲われても不思議ではない。

 言葉を整理できないまま、誤魔化すように空を仰いだ。これも久しぶりのことだった。この樹海にたどり着いてからは、遠くの景色と足元ばかりを記憶に留め、上書きし続けてきた。リリィと別れたことで、空からは心が離れ、決別していた。

 雲は一つもない。濃淡の乏しい青一色が湖のように広がっている。このまま空へ飛び込むことができたのならば、夜の果ての宇宙まで潜っていくことができそうだ。遮るものは何も感じられなかった。鳥も飛行機もない。空には何もなかった。この思いはこの地に足を踏み入れてから変わることはなかった。いや、リリィと別れたことで少しだけ表現が変わった。空は在るのだが、そこには何もない。少し理屈っぽくなったのだろうか。

「だって、あなたは鳥なのに歩いてばかりだもの」

「そういう君は、悲しそうな目をしているのに泣かない」

 潔癖なまでに淀みを排除した雪の世界。向き合っているのは、リリィと違う髪と瞳の色をした異国の女性。リリィと出会ったのは、終電もとうに過ぎた真夜中のプラットフォームだった。青い空の底に広がる眩い白銀の世界と、夜の蒼の海に浮かんでいたコンクリートの孤島。リリィのいた世界を意識しすぎている。似ているところを投影させ、似せようとしているのだろう。それくらいの偶然や類似性は探せばいくらでも転がっているはずだ。

 過去との繋がりを断とうにも、どうにも目の前に映っている総てが夢うつつで、仕組まれた虚構の世界に思えてならなかった。儚い夢であったとしても、彼女は何者なのだろうか。別れたかつての妻でもリリィでもない。しかしどちらの面影も感じさせられる。

 ふたりは、ほぼ同時に短い言葉を真っ直ぐに口にした。

「空には何もないから」

「こんなに寒ければ涙も凍ってしまうわ」

 ググゥは空を失った理由までは答えなかった。

 異国の彼女もその理由まで教えてくれなかった。

「あなたは鴉なの?」

「いや、渡り鳥さ」

「嘘よ、そんな真っ黒な渡り鳥なんて見たことがない。それに今は冬よ、しかもこんな雪の森で」

 彼女の質問に答えながらも、どうしてもリリィとの関連性を探し出さずにはいられなかった。それは引き伸ばされた時間を手元から手繰り寄せてみる作業に似ていた。

 リリィという存在を頭からつま先まで蘇らせて、彼女の周囲を頭から螺旋状にゆっくりと滑空しながら下っていく。

 真っ直ぐに、自由に飛びたいと思っても、彼女の周囲を旋回しながら滑空することしかできない。異国の彼女を目の前にして、無意識に均衡を保とうとしている自分がいた。突然の出会いに動揺させられた。見つけた均衡は、リリィの身体を旋回する形で落ち着き、その軌道に従って降下していく。

 白いミュールに収まった足元を過ぎても底にはたどり着けず、更に下へと、奥へと。何も見えない闇の中を落ちていく。

 均衡を保とうとしていたのは、僕だけではないのかもしれなかった。初めて出会ったあの夜、リリィもまた居続けようとするための均衡を必死に見つけ出そうとしているようだった。華奢な脚で孤島のコンクリートに佇んでいた。そして呑み込まれてしまいそうな闇をひたすらに嫌った。晴れ間に降り注ぐ静かな雨……晴れでも雨でもない。不釣り合いな空を無言で見せてくれた。

 異国の彼女はどうなのだろうか。彼女をこの地へ導いたものは何なのだろうか。そもそも自分をこの地まで駆り立てたものは何だったのだろうか。リリィの印や証がこの地に眠っていると本気で信じていたわけではない。異国で聞いた物語の誘惑に魅せられたことは否定しないが、非現実的な希望は空とともに捨てた。あくまでも最期の旅路への最後の寄り道のはずだった。

 意識は光の届かない地の底、物語の起点を目指して落ちていく。

 闇。

 螺旋状の軌道を描き続けている原因は、現実への帰還を果たせない歪な重力がもたらす均衡によるもの。

 溜息を深く吐いたとき、光の粉で創られたような異国の彼女の姿が闇に浮かんだ。

 異国の彼女の周囲に螺旋を描きながらゆっくりと降っていく。

 空想と現実、希望と絶望、逃げ出したいものと執着したいもの、変えたいものと変えたくないもの、壊したいものと壊したくないもの……相反する二つの願いの間で右往左往する。統制できるものはなく、成り行きに舵は失われ、異国の彼女の足元を通り過ぎる。衛星軌道を描きながら落下していく。

 異国の彼女と向き合おうとすると、これらの真逆の思いに胸が締めつけられる。現実を見失わないことも、虚構に溺れてみることもできなかった。絶えず均衡を保つ支点を探し出そうともがいてしまう。不安に駆られ、苦痛をともなったが、苦痛として感じられている限り破綻をきたすことはなかった。

 リリィは希望だった。出会えたことが無性に嬉しくて、守らなくてはいけないと思った。幸せにしなくてはいけないと感じた。二度と失ってはいけないという使命感に囚われていた。しかし、運命を変えることはできずに失ってしまった。

「でも黒い鳥は好きよ。鳩は見ているだけで息苦しくなるから嫌い」

 異国の彼女は目を細めてみせた。真実を口にしているのか、からかっているのか、その瞳の奥は読み取れなかった。

「いや、鳩は『平和の象徴』、立派な務めを背負っている一族さ。それと比べれば、僕はさすらうだけが取柄の『愚か者』の一族。しかもその一族の掟からはみ出してしまった、一番の愚か者さ。もう誰も僕の名前なんて覚えていないだろうな」

「愚か者なら、一番の愚か者のほうがいいじゃない」

 まだ名の知らない彼女はポケットから手を出し、白い指先を差し伸ばしてくる。

「ねぇ、私は何に見える?」

 つられるように翼を伸ばす。

 彼女はそっと翼の先を握る。

「何って……」

 言葉に詰まってしまった。唐突な質問だった。彼女は少しだけ儚くて、いや、生命力に溢れている美しい女性。何よりも今の自分よりも遥かに輝きがある。陳腐だが、そのような言葉しか浮かばなかった。そういえば、リリィと初めて言葉を交わしたときも、同じような言葉を投げかけられたような気がする。

「君は天使の環をもっていないのかい?」

 記憶の土壌に水は撒かれた。だから、勝手にこのような言葉が口から出た。この意味がもし通じるのなら、それは、彼女はリリィなのかもしれない。

 胸が高鳴っている。どんなに否定しようともそのことを確かめたかった。

「そんなものはもってないわ。そうね、きっと彼方の故郷の冷凍庫にでもしまい忘れたままじゃないかしら」

 苦笑した。しかしそれは何か曇っていたものも飛ばしてくれた。

 やはりそのようなことは、やはりないのだ。

「ねぇ、何がおかしいのよ」

「君が笑ったから」

「あなたがおかしなことを言うから。でもね、天使の環はないけど、ドーナツだったらあるわ。食べる?」

 青い空、白銀の樹海、異国の彼女、天使の環の冗談、それにドーナツ。この世界に繋ぎ留めている言葉だけがひとりでに泳ぎだす。零して散ったビー玉のように。

 異国の彼女はドーナツを二つ取り出すと、一つをググゥの足元に置いた。

「これ、硬いね」

「その昔は揚げたてだったはずよ」

 彼女は目を細めながら首を傾げながら得意そうに言う。その表情は、リリィともかつての妻とも似ていないような気がした。やはりどこか挑発的な、からかっているような、何かを知っているような含んだ視線を感じずにはいられなかった。しかし、そのことを追求する気にはならなかった。

 ただ嬉しかった。

「これを、こうやって、手を使わずに食べてみるんだ」

 くちばしでドーナツを咥えてみせた。

 視界に入らなくても興味深そうに見つめる彼女の視線が感じられる。

 ふたりは同じ幹にもたれて、同じ方向の空を眺めながらドーナツを頬張った。

 時は緩やかに進んだ。空は深い湖の底を連想させるような蒼本来の深みを湛え、世界に等しく降り注ぐ陽射しは、雪に光を与える。光は、薄暗く沈んだ木の陰を満月の夜のように淡く浮かびあがらせる。陽の世界に月影の世界が同居する、『天秤の国』がもたらす風景。夜の色をした陰で佇むふたりの視線は、どこか虚空を感じさせる静けさが滲んでおり、混ざり合わない光と陰の狭間に向けられていた。

 『祈りの島』での日々。お腹が空けば仲間たちと空を旋回し、魚影を見つけては放たれた矢となって海中へと飛び込んだ。疲れたときは涼しい岩陰を見つけて休憩した。真夏の夜明け前が特に好きだった。風に身を任せて自由に飛び回る。時間を持て余すことはなかった。昼夜を問わずに無数の色彩に彩られていた。朝焼けと夕焼けは太陽がみせる芸術そのものだった。夜は昼の極彩色と変わって、満天の星と月が天蓋を覆う。静かな夜の煌めきは海へと零れ、さざ波がその光に息吹を与える。青い空も一様ではない。午前と午後とでは色味も深みも異なっていた。旅をする雲は二つとて同じ形のものはなかった。

 そして空には淡く溶け込んだ羨望が広がっていた。それはどこまで高く昇り続けられるのかという憧れとなって、空に挑む者たちの心に語りかけてくる。雄鳥の誰もが同じだった。気高い憧れに挑戦した武勇伝を、愛する者たちへ求婚の言葉として語り、己の誇りとして心に収める。それらは口承の合唱となり、叙事詩として刻まれ、歌声となって小さな島に響き渡る。海は波をぶつけてリズムを生み、しぶきは太陽の弾けた珠となって宙に舞う。島の片隅では鮮やかな花が咲き、その派手な花を競うように見つけては、愛する者へのささやかな贈り物にする。島の半分を覆った素朴な草の色の変化を見定めながら、渡りの準備を進め、何事もなく繰り返される日常への感謝の意を天に捧げる。自分が何かを決断しなくても、周りの世界は巨大な万華鏡のようにゆっくりと回転し、飽きさせることなく楽しみと歓びをもたらしてくれた。その世界で生を授かり成長した。愛情と感受性の苗床を築き、幸せを掴み取ろうとした。短い時間ではあったが、確かに一度はその幸せを手に入れた。翼を広げて風に身を任せて飛び回れば、その範囲内で充分すぎるほどの美しい未来と幸せを描くことができた。

 しかし、この『天秤の国』には短すぎる夏はあるものの、大半は雪に支配される冬の世界。しかも飛ぶことはできず、足を繰り返し動かしながらこの樹海を彷徨うことしかできない。雪と疲労に感覚は奪われ、足は枯れ枝のようになる。そして絶え間なく冷気は肺を凍らせ、ゆえに酸素をうまく取り込めない身体はすぐに疲れを覚え、断続的な休憩を余儀なくされる。熱を奪われないように幹の陰でじっとうずくまり、風を避けながら時をやり過ごす。肉体が僅かでも回復するのをただ待つのみ。

 匂いもなかった。あるのかもしれないが、単一で、この匂いからは他の生き物を感じさせてくれることはない。景色も研ぎ澄まされた美しさに目を奪われることはあったが、静的過ぎて現世ではない気味悪さが最後には広がる。ともに在る空を抜かしては、『祈りの島』とは何もかも対照的だった。

 いや、空も違っていた。気温の差だろう。地上に足をつけたままでも遥か先まで視界に収めることができた。熱さえも徹底的に排した大空、仰いでみるだけで宇宙の果てまで届きそうだった。空を高く飛べたときよりも遠くの世界を見渡すことができた。空の懐の深さまで。または形の無い心の奥底まで。空にも心にも水がないだけに、射す光は屈折せずに、真っ直ぐに、遠くまで心と空を繋いでみせる。

「あ、」

「あれ、」

「こんな形をしているんだもの、やっぱり手を使わないと食べられないでしょ」

「ホントだ」

 ふたりは同時に雪に落ちたドーナツを見つめた。その食べ跡の形までもよく似ていた。異国の彼女のほうが、ググゥよりも少しだけ器用に食べていたが。

「あなたはどうしてここに来たの?」

「君はどうしてこの木の下で待ち続けていたんだ?」

 ドーナツを拾おうとして目が合った。新しい言葉はぶつかることなくお互いの耳に届く。

「いろいろと、ね」

「そう、理由はいろいろとあるさ、たぶん」

「何かさっきから同じようなことを答えたり、質問したり、そればかりね」

「そうだね、だからお互いのことがいっこうに分からない。だけど、なぜか分かるような、分かってもらえるような安心感がある。僕には」

「不思議ね、似た者同士なのかしら?」

 胸の深いところが揺さぶられた。不要なことは聞かなくてもよい、と直感的に感じた。

 彼女はドーナツを拾うと口に放り込んだ。ググゥも後に続く。

「ここはどんな国なんだ?」

「さぁ、私もあなたにそれを聞こうと思っていたんだけれど」

 どこかはぐらかされている感は否めなかった。

 けれども……

「どうして?」

「うーん、ここまで来てしまったから、かしら」

「僕は東から西を目指して歩き続けてきた。太陽が沈む方角を目印にしてきたから間違いじゃない」

「私は西から歩いてきた。太陽が昇るところを目指してきたから、間違いないと思うわ」

 そして、

 この目印の乏しい木の下で偶然に出会ったというのか?

 しかも凍えた季節の樹海で?

 起こり得るのか?

 昔の傷が疼いた。方角の話には心当たりがあったような気がする。

 それはリリィではなく、別れた、かつての妻、彼女が目指した方角。

 リリィとよく似た人物の噂を頼りにこの地を彷徨い、かつての妻と再会した??

 だから、今度は真っ直ぐに言葉を吐く。

「君はどうして目の前に現れたんだ?」

 脈絡を飛び越えた質問をぶつけた。もし彼女がこの地へ召喚される前の世界や、この地を彷徨う理由を知ることができたのならば、疼いた記憶の一端を掴めるのかもしれない。それに彼女から感じるリリィの面影や、全く異なる少し勝気な雰囲気の謎も。

「あなたが突然、私の前に現れたんでしょ?」

 残念ながら予測されたとおりの答えだった。でも嬉しかった。あたかも僕のほうが勝手に現れたのでは、と言わんばかりの口調で。

 それでも、なぜか、記憶の紐はするりと解かれた。

 かつての妻は東の空を選んで独り飛び立った。酷い見送られ方だった。昨日までの仲間たちから掟を破った者として罵声を浴びせられた中での旅立ちだった。いつまでも味方でいる約束をしたが、少しも助けてあげることができなかった。

 昨日の出来事のように克明に再生されたが、思い出されたのはこの情景のみだった。あまりにも限定的で失望してしまった。これだけの理由では、異国の彼女をかつての妻やリリィと結びつけてみるには乱暴すぎる。

「ねぇ、もう一つドーナツ食べる?」

 久しぶりに詰め込んだ甘さと油が染み込んだ小麦粉の塊は、しっかりと胃袋でも存在感を残したままだった。けれども断る声にはならなかった。

「あ、最後の一つだ。半分ずつにしましょ」

 ググゥはちぎられた半円を受け取った。

「出会いと別れて出会いを祈って」

 彼女は指先のドーナツを見つめたまま。

「どういう意味?」

 ググゥはドーナツを雪の上に置いて、彼女を見あげた。

「ドーナツは食べ始めと食べ終わりが同じ食べ物だから」

「でもそれは、食べ終えたときに再会できるんじゃなくて、失ってしまったこと……悲しみを知ることじゃないの?」

 円状のドーナツを大きく空に描いてみた。時計の針が回るように次第に青空に食べられていく。

「あなたは本当に消えてなくなるだけだと思う?」

 視線を彼女へと戻した。

 どういう意味だろうか。

 胃の中で同じになるという意味ではないだろう。

 彼女は懐かしむような笑みを浮かべていた。その柔らかすぎる突然の笑みに戸惑った。

 そう、あの笑みと同じだった。

 誘う……あの……

 高圧的でも押しつけがましさもない。彼女の言わんとする言葉の意味は分からなかったけれども、誰もが思わず頷いてしまいそうな強い意志と奇妙な説得力があった。それは、自然の摂理なのよ、と諭されているような。

 そう納得してみると、彼女の笑みは魅力的ではあったが、そのまま優しいという単純な言葉を当てはめてしまうには、あまりにも神秘的すぎて不謹慎であるようにも感じられた。

「私の幸せと悲しみを半分分けてあげる」

 紡がれる言葉も過去を正確になぞる。

 しかし、ただ一つ、新たに気づかされることがあった。異国の彼女の、この勝気な雰囲気に自分は救われているということに。

 涙が溢れてしまいそうだった。

 泣くことさえも忘れていた。突然蛇口を全開に捻られたかのように、感情だけがものすごい勢いで込みあがってくる。あっという間に胸は締めつけられた。

「硬くなったドーナツって、食べ応えがあるわね。喉が詰まりそうになるくらい」

 異国の彼女は意に介していないようだった。視線の高さまであげたドーナツに話しかけている。

 忘れもしない。チョココルネをこよなく愛し、そればかりをひたすらに食べ続けていた女性がいたことを。

「出会いと別れと出会いを祈って」

 ググゥもそう呟いた。

 ふたりは並んだまま、半分にちぎられたドーナツを食べ始めた。

 いくら空を眺めていても、横切るものは何も現れなかった。

 訂正しなければならない。空には、やはり、希望や妄想、羨望といった目に見えない期待だけが浮かんでいる。目に映らない空は、心に揺さぶりをかけて、惑わして、動かし、右や左に転がせる。

 雲は僅かにも浮かんでいないはずなのに、牡丹雪が青を背に静かに降ってきた。

 驚き、もたれていた幹から背を離す。

 ……同じだ。

 歩み出た日向は少しだけ暖かい。

 頭上を、空を、その先を、垂直に見あげた。

 降り立つ雪は音を立てない。

 静かな世界。

 雪を降らせながら、空はゆっくりと時計と逆回転に歪み、回り始めた。

 頭の芯は溶解したように鈍く重心が崩れ、身体の感覚が遠くなる。

 眩暈だ。

 倒れそうになるのを踏ん張って振り向いたときには、異国の女性の姿はどこにもなかった。

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