第29話 後日譚 掟に、或いは憂鬱に
「出会いと別れと出会いを祈って」
そう言い残して、異国の女性は目の前から消えてしまった。
次の日も次の日もこの木の下で待ち続けた。彼女は現れることはなかったが、心の中からも消えることはなかった。
それからというものの、西を目指して歩くことを止めた。あえて樹海のこの一帯を彷徨い続けることを選んだ。彼女は東を目指して歩き続けていると言った。このまま西を目指して歩き続ければ、地球の反対側で再び巡り合えるのかもしれない。しかし、それは途方もない妄想の果て、数えきれないほどの夢を渡らなければならない。その賭けに身を投じてみようとしても身体は動いてくれなかった。また、東を目指して追いかけてみても、彼女に追いつける気がしないことを身体は知っていた。
……再会が許されるのなら、その地は出会えたこの場所なのだろう。
これまで別れを受け入れては、幾度となく手放してしまってきた。が、今度は振り切るのでもなく、記憶の土壌に埋葬するのでもなく、がむしゃらに追いかけたかった。もう失うことの痛みに耐えられないとか、そのほうが彼女の幸せにつながるとか、悲痛な気持ちを変換したり、受容したりしたくなかった。残された可能性も時間も多くはない。その最大限の可能性に全身でぶつかりたかった。勝ち目のない戦いに本気になってみたかった。通り名の『愚か者』を貫くために。その先が闇でも白紙でも氷の中でも構わなかった。
「出会いと別れと出会いを祈って」
異国の彼女が呟いた言葉。
この言葉を何度も繰り返す。
呪文を唱えるように。
昼は太陽に向かって、夜は月に向かって。太陽も月も姿を見せない灰色が停滞する日は、不吉に映る黒く沈んだ森に聞かせるように。
この言葉から逃れられなかった。
縛られて、もしくは心の拠りどころとして日々を重ねた。
そして、季節は短い夏を挟んで再び長すぎる冬を迎える。
遠い昔、『祈りの島』に別れを告げ、『孤独の国』に流れ着いた日のことが懐かしかった。あの頃は目を瞑って孤独と向き合えば、いつでも『永承の砂浜』へ飛翔することができた。『天秤の国』の樹海を彷徨っている今、意識を薄い膜の向こうへ飛ばしてみせることすらできなくなった。飛ぶ糧となる記憶は、大海に取り残された孤島のようだった。波や潮風によって痩せ細り、今では深い青色の底へと呑み込まれようとしている。おそらく『永承の砂浜』へたどり着くことができたとしても、待っている風景は、何もかもが沈んだ海のど真ん中か、真っ黒に埋め尽くされた終末の荒野のどちらかだろう。心を満たしてくれるものはない。
それはこの白銀の世界にも言えたことだった。かつての妻やリリィと過ごした日々と結びつけられるものはない。生きている証として、白い息を空に溶かし、空の気まぐれで消えてしまう足跡を残して歩くことのみだった。
かつて悲しみは、孤独と安らぎが重なり合って魅せる幻影だと思っていた。しかし今、両眼で捉えて映っているのは絶望だけだった。感傷的な思い出が孤独と安らぎをベールで優しく包み、悲しみへと幻惑してくれていたのだ。長すぎる冬のこの地では、思い出は削られていく。優しい幻惑は昼夜を問わない冷気に剥ぎ取られてしまい、絶望という現実しか視界に残らなかった。この期に及んで悟るのだ。あの忌み嫌っていた『永承の砂浜』は、心を破綻させない『優しい悲しみ』の具現化であったことに。
「一緒にここから逃げ出さないか?」
歩きながら、目をしかめて、天に問いかけてみる。
空を飛ぶことができないというのに。
これ以上どこへ逃げようというのだろうか。
いつしか心も弱気になる。
「もう逃げ出したくないの」
天の声が降る。空っぽで何も見えない胸の奥底に落ちていく。そして溶けることなく積もる。
心は、裸のまま、それを受け止める。
失って、初めて知ることを繰り返している僕は、やはり『愚か者』の一族。自分には、愛する者の手を離さないという『愚か者』としての執着心が足りなかった。その一族の端くれのはずなのに。かつては同族の誰彼よりも、『愚か者』であることを一番の誇りにしていた。追いかけることを止めた本当の愚か者には、運命を変えることはできない。結末は変わることなくいつも待ち構えている。敗れる度に、情けなくも偽りの『愚か者』を気取っていた。負けて当たり前なのだからと。
懐かしい『愚か者』の一族の『掟』が思い出された。
その渡り鳥の一族は
お互いの命が尽きるまで
誓い合った一羽の相手だけを愛し
その名を残すことなく生涯を閉じると云う
『掟』は、決められた者を、与えられた者を、恋してしまった者を、疑うことなくただ受け入れていただけではない。手を離さないと誓った者を守ってくれるものでもなかった。命が果てるまで手を離さないことを全うしてみせる覚悟が根底にあり、ときにはなりふり構わない愚かな執着心を必要とされていた。美談や美徳で括られるほど『掟』は優しくない。それに一生は平坦でも公平でもない。幾多の困難に見舞われる。何事もなく『掟』を全うできる者たち、『掟』に従うことで幸せになれた者たち、『掟』に縛られて幸せを手放した者たち、『掟』を全うしたゆえに後世に名前を語られずに消えていった者たちが、世代を重ねて一族に伝承されていく。その中には、ひっそりと『掟』に敗れ、背を向けて『愚か者』になりきれなかった愚か者が誕生することもある。それは罵声を浴びて飛び立ったかつての妻ではない。今でも地を這っている自分のことを指す。
なぜ、かつての妻を追いかけ、同じ空を選ばなかったのだろうか?
なぜ、リリィとどこまでも歩いていこうとしなかったのだろうか?
なぜ、川の上流までという目的地を定めてしまったのだろうか?
「空にはいつだって羨望が広がっている」
いつも空があった。
空が怖い?
何を恐れていたのだろうか?
憧れの空の高みには、伝説の金色の龍がいる。
実際に存在しているのかどうかも分からない、伝承だけの存在の龍が。
実在するか分からない何かに怯え続けていたのだろうか。
金色の龍には、目を合わせた者の飛ぶ力を奪い去る魔力があるという。
このことは何を意味する?
空との間には偽りは許されない。
飛ぶこととは、そもそも何なのだろうか。
自分に足りないもの。それは消失感を埋める何かに対する憎しみだと思っていた。背負わされることになった『掟』に対する、もしくは金色の龍に対する憎しみ。もしくは自分の元から去っていくことを選んだ彼女たちに対する憎しみ。そのことが、自分の胸にナイフを突きつけてみせることができなかったこと、『永承の砂浜』の空の殻を破ってみせることができなかったこと、そしてこの閉ざされた樹海から抜け出せないことに繋がっているのだと思い込んでいた。
しかし、それは違った。
もっと簡単なことだった。
現実に向き合おうとする強さが足りなかったのだ。
いつしか空は逃げ出す場所となっていた。
希望と憧れと過去の記憶ばかりを浮かべ、執着してみせるという現実から逃げ続けた。
僕はまだ空を飛べるのだろうか?
絶望を再確認しているようだった。
愛する者の手を二度と離さないで。
逃げ出すためではなく。
そして、あの日、あの木の下で、異国の彼女と出会った。
「出会いと別れと出会いを祈って」
彼女はこう言い残してくれた。
「あなたは本当に消えてなくなるだけだと思う?」
涙が溢れた。
彼女は何を懐かしんでいたのだろうか。
本当に彼女は消えていなくなってしまったのだろうか。
どのような結果に見舞われようとも、もう二度と手を離したくない。
今は彼女の言葉を信じるしかなかった。
消えたことが別れに当たるのなら、もう一度だけ出会える機会が許されている。
彼女はこうも教えてくれた。
「ドーナツは食べ始めと食べ終わりが同じ食べ物だから」
彼女を見かけたあの幹を、この樹海からもう一度見つけることができたのならば、そこが最後の、再会の舞台になるのだろう。
もう一度、異国の彼女が残した言葉とともに、優しい笑みが思い出された。
やや疲れた目元をしていて、どこか悲しそうな視線で、けれども口元に柔らかい笑みを浮かべている。
不意にみせる微笑みはみんな同じだった。
その微笑み方が、僕は好きだった。
総てが同じ形で模られた針葉樹の幹を、目を凝らしながら確かめ、歩き続けた。膨大な労力を消費することが分かっていながらも、一本ずつ目線の位置にくちばしで印を残していくことを止めなかった。
季節は巡り、幾百もの夜が再び流れた。
雪の積もり方ひとつで、ひっそりと景色は変わる。森は平面に描かれた背景のように映る。奥行きを二次元に閉じ込めた森の陰影。空には、世界で一つしかない太陽と月が交互に沈黙を守る。凪いだ夜には、星空が無限の広がりを感じさせながら天蓋を覆い、耳の奥が痛くなるほどの静寂に包まれる。吹雪けばあらゆる彩度が奪われ、一日中灰色の闇に溺れてしまう。その景色だけは、目を瞑らずとも容易に思い浮かべることができた。
異国の彼女が消えてしまってから、一千回目の夜が過ぎようとしていた。三日三晩吹雪に見舞われ、その夜は太い幹に抱かれるように身体を預けながら治まるのを待った。彷徨っているうちに眠れない夜が次第に増え、体力をすり減らしながら過ごしてきたが、この夜は抗い難い睡魔に襲われた。最後に憶えている記憶は、これほどの深い眠りに誘われるのなら、二度と醒めない夢にまで落ちていけそうだ、という安堵感だった。
物語は、まだ終わらない。
まだ終わらせるわけにはいかない。
夜明けとともに奇想天外な展開を迎えることになる。
再会は、少しばかり生臭すぎた。
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