第27話 後日譚 長すぎる冬に、或いは、短すぎる夏に(上)
その後、ググゥはどうしたのだろう?
そう問いかけずにはいられない。
歩むことをやめられなかったことだけは事実だろう。心に何が映っていたのか、それはもう思い出せない。リリィに会える可能性はなく、そのことは十分すぎるほどに解っていたはずだった。それなのに物語は終わらず、終わらせることができず、ググゥを歩き続けさせる。
リリィと別れてから、どれくらいの月日が経ったのか、測る術はなかった。
目の前に広がっているのは海。それは久しぶりの光景だった。渡り鳥で旅をしていたときも海は広大であったが、それは空と同義で、広大さに恐怖を感じたことはなかった。しかしこうして海を渡る力がなく眺めているばかりでは、彼岸が見えない三途の河原に佇んでいるような気持ちにさせられる。そして思う。もう戻ることができないところまで来てしまったのだと。
ググゥは、海を背に歩き始めた。
たどり着いたのは、辺境の港町だった。
リリィと別れた後、鳩の女王と語り合ったあの街、リリィと出会ったあの『陸の孤島』に戻ることはなかった。行き先を見失い、身を寄せる場所も失ってしまっていた。風の声に耳を傾けてみても、その声は拾えなかった。目を瞑り、『永承の砂浜』を探し出そうとしても、二度とその地へ飛翔することも叶わなかった。『憂鬱の微笑』はもぬけの殻で、伽藍とした空虚さ、ひんやりと静まった空間しか内に広がらなかった。
おそらく形になることを許されないほどに薄く、淡く引き伸ばされ、だだっ広い空間として体の奥底に霧散して漂っているだけなのだろう。確かに残ってはいるけれども、姿は見えない。心を動かされることがない以上、それは死んだも同然だった。
ただ唯一、心にも肉体にも鋭く感じられるものがあった。それは冷気。言葉も声もないが、触れられただけで反応する。それは筋肉の条件反射以外の何ものでもないのかもしれないが、本能に語りかけられているような錯覚をもたらした。
彼方から運ばれてくる冷気には、未知特有の不吉な死のイメージがつきまとっている。それは生きもの共通の生存本能によるものなのかもしれない。
その冷気のみが肺を満たすことになるのだと想像したとき、ググゥは自身を知り、その意味をも受け入れることができた。あまりの馬鹿々々しさに笑ってしまったほどだ。希望とも絶望とも違う。あえて言葉にするならば、それは緩やかに転がっていく優しい死だった。
ググゥは進路を北にとる。
かつて冷気を敏感に感じ取った瞬間があった。『永承の砂浜』で見つけた冷凍庫。その窓から覗いた景色。かつて踏み止まってしまった世界は、冷気と氷で閉ざされた最果ての景色そのものだった。あのときはリリィという形のある希望がこちら側にあり、踏み入れることを躊躇ってしまった。それは間違った判断ではなかった。しかし、今、そう、思う。形があるからこそ希望であったのだと。今は、不明瞭で明確な形を持たない何かに、心の内も息を吸っている世界も満たされている。だから、その地へ踏み込むことに後悔はない。
笑わずにはいられない。覚悟は固まったが、困ったことに今度は肝心なその世界への入り口を見つけることができないのだ。
想い出が首をもたげる南の地よりは北風のほうが古傷に優しいとか、封印したかつての想い出と戯れたいとか、そのような甘えた気持ちはなかった。自分自身を、その最果ての地で葬りたい気持ちがそこはかとなく疼いている。
彷徨い続けて力尽きるとき、緩やかな死を迎え入れてくれる場所にこれほどまでに相応しいところはない。生命の気配の欠片さえも感じられないことが、心にもしっくりと馴染むのだった。世界の最果て、そこへ行く力があるのならば、最期に挑戦してみたかった。『永承の砂浜』へ飛べない以上、その扉を歩いて探す旅を続けなければならない。
ググゥは北風の足跡を遡行するように北へと歩き続ける。
やがて半島の先端に立ち、海峡を挟んで対岸の陸地を臨む。風はその地から吹き流れてくる。翼で渡るには距離はありすぎたが、波を乱しながら連絡船が定期的に行き来していた。その船に忍び乗り、海を渡ることにした。
その陸地は大陸の端と思われるほど大きかったが、残念ながら島らしかった。さらに海を越える必要があった。道路は海岸線へ伸び、道の先から風が流れてくるものだから迷うことはない。素直に道を辿る。やがて大きな漁港が目の前に現れた。風はその向こう、海から来る。前回と異なるところは、海の先が何も見えないということだった。
空を渡れば、体力が尽きる前に墜落し、凍える海に抱かれて死を迎えることは確実だった。それはまだ早い。だから今回も北行きの船を探して潜り込み、行き先を船に託すことにした。
経過した日数は憶えていない。共に乗り込んだ漁師たちは身なりこそ厳つい大柄な男ばかりだったが、繊細で優しく、皆で競うように食事を与えてくれた。黒い姿の鳥ではあったが、不吉がらずに丁重に迎え入れてくれた。おかげで何ものからも邪魔されずに物思いに耽ることができたし、最後の旅へ向けての栄養も蓄えることができた。
ホラ吹きと呼ばれる老人の漁師にはよく話しかけられた。穴の開いたニット帽を深くかぶり、蓄えた髭は潮風に痛み、比較的小柄であったが肥えた体格をしていた。その男は夜の食事の後に話を仲間に聞かせては、満足そうに床についていく。
古くからの仲間は聞き流していたが、ググゥにはよい時間潰しとなった。その話の一つにリリィと思われる一説があり、姿を重ねてしまった。関係があるはずはなかった。リリィの姿を思い浮かべて耳を傾けていたからだろう。記憶は色づき、根を張り、心に留まる。それはいつ思い返してみても素敵なお話で、最高の物語だった。
魚を追いまわす旅も終わり、船は寄港する。
漁師たちは荷を降ろし、船から去っていく。しばし丘の上で休暇を取るとのことだった。乗船を進められたが、丁寧に断った。このままリリィと思われる物語の登場人物に会ってみたいと思ったからだ。
その話は港町の酒場でも聞くことができた。しかし話を重ねるたびにその姿は変容していく。肌は透きとおるような白いままではあったが、髪は金髪へと変わり、存在自体も人間か妖精か解らない曖昧なものになった。リリィも半分天使のような中途半端な存在だったから、妖精であるところまでは受け入れることができたが、これが幽霊にまで変容してしまってはさすがに困る。昼間を一緒に過ごすことができなくなってしまう。いずれにしても、存在自体が次第に胡散臭くなり、物語の登場人物以上の存在感は感じられなくなっていった。
しかし、その物語は色褪せることはなく、物語であるからこそ美しく、たとえ語られるだけの存在であっても、追い駆けてみたくなる気持ちにさせられた。リリィも大切な物語の、大切な住人だった。もし再び出会えるとするならば、足を止めずにその姿を追い求めていかないといけない。
――さて、どうしたものか?
ググゥは再び港に立ち戻り、海を眺める。
この地へ来る前の島は端くれも見えない。朝霧で水平線は霞み、対岸はこの世の果てよりも遠いと感じられた。
海を背にして歩き始める。
ここから先は歩くしかない。その情報は酒場で得ていた。
しばらくは北を目指して歩き続けたが、進路を西へと緩やかに変えた。西には果てしない樹海が広がっている。もしリリィを思わせる妖精に出会える可能性があるとすれば、それは最果ての氷と海の世界ではなく、枯れることのない樹海のどこかのはずだった。物語の舞台は森だった。その舞台はぶれることがなかった。出会えずに諦めがついたとき、進路を北へ戻せばよい。
進展がないまま、一千近くもの昼と夜を森で過ごしていた。森は深く、表情を変えることはなかった。『孤独の国』にも森はあったが、印象として残っているのは山の傾斜に沿って群生している姿だった。ここの森は平坦でどこまでも続いている。空の大半も高い木々に覆われ、深緑の海底を静かに歩いているようだった。
稜線は森に阻まれて目にすることはない。目印になるものは太陽と月だけだったが、昼夜のバランスの偏りは大きく、慣れない頃は方向感覚を保つことが難しかった。風から方角を割り出そうとしてみたこともあった。最大の友であった風も木々にぶつかり、分散されて惑わされてしまい、その声を頼りにすることができなかった。
この森の木々は模造品のように垂直に伸び、葉の形も冷気から身を守れるように尖っていた。『孤独の国』でも類似の種を目にすることはあったが、それは一部にすぎず、もっと多様な種が寄り集まって全体を形成していた。
木だけではない。動植物の種類も極端に少ない。ゆえに同じ景色と匂いばかりが延々と続く。昼夜のバランスの偏りが大きければ、夏も極端に短く、冬は逆に異常に長い。この不釣り合いの大陸を『天秤の国』と名づけた。
森の木々は冬でもほとんど尖った葉を落とさない。今となっては、この変わらない風景が網膜に焼きついて慣れてしまったが、訪れて間もない頃はそのことが不気味だった。
年中変化を見せない様は、時の感覚をいっそう蝕んでくる。この森は生きているのか、死んでいるのか。もしくは作り出された人工の迷宮なのだろうか、と。
迷宮の世界に取り込まれてしまったような居心地の悪さを感じたときのことは、今でもよく覚えている。不快な酩酊感に襲われ、眩暈と吐き気に悩まされたのだ。不規則に流れる風の影響もあったのだろう。凍える風は林立する幹の影響を受け、北から吹いてきたかと思うと、西やときには南からも全身を揺すぶられた。
『天秤の国』の吹雪は強烈だった。これまでも北国の風雪に見舞われたことはあったが、桁が違った。船で渡航していたときは、屋根の下でガラス越しに眺めてやり過ごすことができた。しかし、この地には屋根も壁もなく、幹を背にして風から身を守らなければならない。
激しく吹雪く日は、巨人族の住処に迷い込んでしまったのでは、と錯覚に陥りそうになる。黒々とした森のシルエットが空に浮かび、咆哮を思わせる唸りが一日中森に響き渡るのだ。獲物を探している飢えた声にも聞こえ、そういう日は無理して歩かず、幹を背にして小さくなって息を潜めた。
風が凪ぐ日はほとんどなかった。晴れた夜の星の数は圧巻で美しかったのだが、吹雪の日は曇天に支配され、夜は目を瞑ったときよりも闇が深く感じられた。そして不自然すぎるほどの闇の長さは、夜明けや希望といった灯りを搾取しているように感じずにはいられなかった。
越冬はいつも命がけだった。心をも削り続けなければ乗り越えることができなかった。
『天秤の国』における空も、曇天に覆われることが多かったのだが、地上の総てを覆うように広がっていた。雨も降ることはあったが、それは短い夏の風物詩のようなものだった。
冬は雪ばかりを地上に降らす。足元を埋めていく。雨は視界を逃れてどこかへと流れていくことに対して、雪は黙って去ることを許されない。またその場に姿をさらし続けることも認められず、古い雪は消えることなくより下へと押し固められていくだけだった。
このことは、いまだに彷徨い続けることを止められない自分の姿を連想させられた。忘れてしまってよいことなんて何一つない。降ろしてよい業を選ぶこともできない。背負い、ただあり続けることを求められている運命にも似ていて。
終わらない物語は、
そして、
運命はこのような形で再開される。
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