第24話 透明への帰還(後)
* * *
「少し休もう、そこのベンチで」
「そうね、少し疲れちゃった」
夕闇に沈みゆく温泉街。古めかしい宿が建ち並んでいる大路を折れ、山手へと延びている石畳の路地を歩く。自転車で登るにはきつすぎるほどの勾配で、時折吹き降ろしてくる風が山側の木立をざわめかせる。観光地特有の喧騒は、凪いだときに届いてくるだけになった。
坂道の下には神社の境内があり、巨大な楠の木の葉が広がっていた。揺れる枝葉の間からは、温泉街のオレンジ色の灯かりが温かく覗く。さらに向こうには、水平に国道が延び、闇に霞むように新興住宅が広がっていた。それらの家屋から漏れる灯りや、等間隔に配された外灯が地上に落ちた星のように輝いていた。賑やかな温泉街の音も光も、人気のない境内の薄闇の沈黙に中和され、どこか対岸の異国のような隔たりが感じられた。
まだ早い夏虫の囁きが足元をくすぐる。音の主を目で追ってみる。探してみたけれども見つけられなかった。
「君はすごく素敵な匂いがする」
「そうかしら?」
彼女はお腹に手を当てて深呼吸をしてみる。
「これは躑躅の匂いね。甘すぎず、ほのかな蜜の香り。雨と初夏を感じさせてくれる匂い。私はすごく好き。だけど、これは私の匂いじゃないわ」
「どちらかというと、君はもう少し甘い匂いがする」
「また、変なことばかり言う」
「愛している人の匂いを好きになることは、すごく大切なことかもしれない。これから先もずっと一緒にくっついていくことになるのだから」
「嬉しい。でも、もっと歳をとれば変な匂いになるわ」
「そんなことはないさ。その素敵な匂いをたどっていけば、何十年先からでも、無数の街明かりの中からでも、同じ顔にしか見えない渡り鳥の群れの中からでも、必ず君を見つけ出すことができるさ」
「呆れて何も言えない」
彼女は浴衣の胸元を少し広げ、両手をベンチについた。両脚を真っ直ぐに伸ばして地面から浮かせると、裾がはだけて白いふくらはぎが覗いた。
「汗をかいちゃった。せっかく温泉に入ったのにね」
彼女の右の下駄が落ちた。軽い音を立てて。
匂いを確かめるように、そっと腕を彼女の肩に回した。
「この道の先には何があるのかな?」
誤魔化しながら。
「何とか公園があるそうよ。ロビーにあったパンフレットに書いてあった。躑躅の花のイラストが描かれていたから、この香りはそこからじゃないかしら?」
この先にそのような公園があることを知らなかった。温泉街の喧騒から離れたくて、この小路を選んだだけだった。ここからでも充分に躑躅を感じられるのだから、公園は濃密な匂いで満たされていることだろう。それはなかなか素敵な想像だった。きっとこのようなベンチが何台も置かれていて、高台からの眺めも最高のはず。
「そこの公園のベンチに座って夜を明かそうか?」
「躑躅の香りに包まれて朝陽を迎えるなんて素敵ね」
ふたりは目を合わせて笑った。
「そう、素敵だ」
「でも、これから旅館でお食事もあるし、せっかく予約までしたんだから。外で過ごしてしまってはもったいないわ」
「そりゃ、そうだ」
彼女に下駄を履かせてベンチから立たせた。
公園への道はまだまだ続く。急勾配で、傾斜に沿って曲がりながら。そちらへ向かって歩き出してみない限り、その先は見えなかった。
* * *
「リリィ、君に、伝えられなかった言葉がある」
たったそれだけのことを伝えたくて、この世界でリリィと出会えたのかもしれない。
ググゥとリリィは岩の上に立ち、鏡に向かい合っているように同じ表情を張りつかせて静かに泣いていた。
「なんで泣いてるの?」
リリィが言葉を口にした。瞬きもしないでじっと見つめたまま。
「長くて短かった旅路の終着に」
ググゥは答えた。そして目を固く瞑った。
「リリィはなんで泣いてるんだ?」
「分からない……、分からないけど、きっと何でもないことよ」
「泣き虫だな、リリィは」
「私、ググゥの前でそんなに泣いたかしら」
ググゥはその問いには答えなかった。目を閉じたまま、少しだけ笑ってみせた。
「『再会』のおまじない」
「何?」
リリィは首を傾げてググゥの言葉を受け取った。
きっとリリィにはこの言葉の真意は伝わっていないだろう、とググゥは思う。しかしそれは仕方なく、当たり前のことだ。本当の意味をぼやかして口にしたのだから。それも唐突に。
「もう一度、川に潜ろう」
ググゥは力任せに飛びあがってリリィに抱きついた。
リリィは勢いを受け止めきれず、大きな水しぶきをあげる。
ふたりはあっという間に頭まで水を被り、ずぶ濡れとなって川面へと頭を出した。
「いったい何なの?」
リリィはググゥの肩を揺すった。
ググゥは力の抜けた笑みを浮かべた。揺すられるがまま、何も答えなかった。
それ以上しつこく聞かれることはなかった。
『再会』のおまじない……この世界においてさえ、照れくさくなってしまったのか、それともリリィの前で『愚か者』になりきれなかったのか、リリィに伝えることはできなかった。
――総てのことが、リリィの人生を良い方向へと導いてくださいますように。
『再会』の相手が、リリィがかつて深く愛した誰かのことを指すのか、ありえないだろうが十年後の自分自身のことを指すのか、分からなくて情けなくなってしまったが、いずれにしてもリリィは孤独を溜めすぎた落ちこぼれ天使。悲しげな表情で世界と向き合っている姿は魅力的であったが、しかし、それだけではいけない。
いくら不器用で鈍いググゥでも、もはや気づいていた。
リリィがいかに多くの報われない涙の雨を降らし続けてきたかということを。
リリィの独断で足を踏み入れた大蛇の背の道。そこで遭遇した雨。最初は世界を呑み込もうとしているかのように激しく打ちつけていた。視界は白く煙り、総てを無に還そうとしているようでもあった。雨があがり、夏の陽射しが注いだ後は、天気雨が静かに長く続いた。青空を広げながらも白糸のような雨は降り止まず、窪みから覗いた世界は乾くことがなく、光と水が溶け合った幻想的な光景に包まれた。気がついたときにはリリィは目を覚ましていて、一緒に空を眺めていた。その空からは、零さずにはいられない悲しみだけが伝わってきた。雨音はなく、ただただ静かだった。
あれは、リリィそのものの世界だった。
あのとき、やはりリリィの心を覗いていたのだ。
ようやくたどり着いたのだ、彼女の心の中に。
そして、
あの山頂で彼女の呟いた言葉が空から降ってきた。
「空にはいつだって羨望が広がっている」
ググゥは自分がヒーローでも魔法使いでもないことを知っていた。奇跡を起こせるような選ばれた人物ではない。先ほどの『再会』のおまじないも、光と音と匂いのある実際の世界を目の前にしては何の効力ももたない。同じ景色を堂々巡りする、時の止まった世界においてのみ力を発揮する。あれはおまじないというよりも、むしろ祈りに近かった。軒下で雨があがるように空を仰いでいるようなもの。現実の世界では、祈ったり、願掛けを行ってみたりしたところで振り払えるものは何もないし、事実に対して抗う力にはならない。逃げ出すには静かに目を瞑ることしかなく、再び目覚めたところで、何かが変わってくれていることはない。それを嫌って眠ることを避けるようになり、幾百もの夜を渡ることになる。しかし、結局、いつしか瞼を重ねてしまう。絶え間なく訪れてくる睡魔と向き合いながら受け入れるようになる。日々それを繰り返すようになり、昼と夜が混沌としながらも再び規則的に並び始める。大切なことも嫌なことも中和されて、隠され、忘却されていく。祈りとは、せめて夢の中では安らかに過ごせますように、という内なる世界への問いかけなのかもしれない。時の止まった世界は、静かな祈りによって永承されていくのだから。
他者に対して極めて無意味なものであると知りつつも、それでもググゥには心の拠り所としている祈りがあった。根拠などありもしないことは分かり切っている。けれども、過去の恋愛が残してくれたおまじないだった。
もし再会のできる可能性が残されているのであれば、それは別れの痛みを同じ量だけ耐えて、同じ量だけの涙を流したものだけに許される、と。
「リリィ、最後にもう一度泳ごう」
涙を流すのだ。
何かに対してなんて、誰かに対してなんて、もうどうでもよかった。
できるならば、ふたりで思いっきり泣きたかった。
今はただ冷たいと感じる、無色透明の水の中で。
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