第25話 点描の余白

  やがて空は砂時計の落ちる砂を追いかけるように明けていった。呼吸を繰り返すよりも遅いリズムで。撫でるように。足跡を残さないように。

 瞬きをせずに窓を見やっていても外の景色に変化はない。しかし、深く目を閉じて視界を混沌の沼に沈めてから再び開いてみると、確実に時間が進んでいることを認識することができる。

 いっそのこと明けるな、と混沌へ向かって叫んでみても、物忘れを止められないことと同じ理で、その願いを聞き入れてもらえることはない。巻き戻しも早送りもできない。時間は、空気も壁も皮膚も心も関係なく、ただ吹き抜けていく。

 僕はうつらうつらと舟に揺られていたものの、眠りに落ちた記憶はなかった。薄い睡魔の影に抱かれながらも、静かに夜という魔物と向き合っていた。

 夜も色褪せ始める午前四時前、隣で横になっている彼女からは寝息が聞こえてくるようになった。背中をこちらに向けて。僅かに背を丸めながら。

 淡い月影がベッドに落ち、蒼白く浮きあがった背骨が印象的だった。枕もとで月と似た色の光を放っている時計のデジタル表示は、三時五十八分。彼女とはこれまで夜がまだ眠っている時間にも、宵だけが目を覚ましている時間にも、何度も抱き合ってはいろいろな話をしてきたが、この夜ほど抱き合ったまま、まるで石膏像のように動かずに言葉を重ねたことはなかった。これまで断片的に聞かされた彼女の話の点と点が、釘で引っ掻いたような線で一つ一つ結ばれていった。彼女の最後の言葉はこうだった。

「さすがに疲れちゃったから、少し眠るね」

 それから、彼女は三度寝返りを打って、二度目を覚ました。突然目を開けると安心したかのように微笑んで腕をまわしてくる。そして腕の力が抜けて眠りの世界へと帰っていく。向こうの世界へと。

 その様子を、僕は薄目で見守ると、寝たふりをして動かなかった。感じたことは、誰かに肌を触れてもらえるということは幸せなことだ、ということだった。

 そして、夜は絶えず曖昧な境界線を引き直しながら明けていった。


「彼は面白味のない男だったわ。頭は良かったけれど、良すぎたからなのかな、性格は破綻していたわ」

 翌朝、僕は鏡台の古ぼけた椅子に腰かけて、鏡に映る自分の顔と、その背後に映りこんでいる彼女の姿を交互に見やっていた。八月を迎えた最初の日曜日の朝は、太陽が昇っているだけで室内は蒸し暑かった。

「信じられる? 彼はね、本気で天に昇ろうとしたの。そこで何をしようと考えていたのかしら。ただ高いところから遠くの景色を見たかったのか、自由になりたかったのか、それとも人々をどこかへと導きたかったのかしら」

 古い建物特有の饐えた臭いと混じって、石鹸の匂いが僅かに流れてくる。窓を開けてみようとしたが、僅かにしか開かない構造となっていた。

 彼女は裸のままベッドで、いくつもの水の玉を背中や二の腕に転がしながら背をこちらに向けている。身体を拭くことが下手なのは相変わらずだ。独り言のような口調で聞こえてくる声、背中を丸めている姿勢からして、おそらく剥がれたペディキュアの補正に励んでいるのだろう。

 彼女の話を耳で聞き、頭ではいろいろな想像が駆け巡った。その彼はどのような男だったのだろうか、と。

 鋼鉄の翼で大空を渡るパイロット。

 空を飛び越えて唯一地球を見下ろすことができる宇宙飛行士。

 いつもリュックとパラシュートを背負っていそうな野性味あふれる冒険家。

 夜空に刹那の夢を描いてみせる気難しい花火職人。

 天を貫く巨大な塔の構想を抱いている芸術肌の建築家。

 数ある摩天楼の骨格や基礎工事を支えてきた不愛想な設計技師。

 永久機関への見果てぬ夢に日夜を費やしているポマード頭の物理学者。

 天空の楽園の存在を説いてまわるエキセントリックな宗教家。

 次世代が正しく羽ばたいていけるように手助けを施す教育者。

 言葉だけで人の心を空へと誘うことができる元空手家の詩人。

 飽きることなく空の写真ばかりを四角いフレームに収め続ける愛猫家。

 あるいは、一枚のキャンバスにあらゆる空を表現してみせる高学歴を捨てた西洋画家。

 伝説のカモメに倣って孤高を極めようとしている回顧主義の思想家。

 いろいろな職業や生き様が脳裏を駆ける。クレイ・アニメのように次から次へと連想されるものへと変化しながら。

 そして、最後にたどり着いた姿は、金色の双翼を背中に宿した美しい男の後ろ姿だった。

 空を飛べない者はいつだって翼に憧れる。今思うと、それは自由気ままに空を飛びまわるという能天気な夢ばかりではないのかもしれない。地面から両脚が離れるという開放感を望む現れもあるのだろう。期待と不安が入り混じっている浮遊感。もしくは足が竦んでしまいそうになる緊張感と鼓動が激しくなる高揚感。それは恋に落ちる感覚にも通じるものがある。腕を引いて空へと飛ぶことができるのか、できないのか。連れ去ってくれるのか、くれないのか。空を飛べる者と飛べない者。恋においてもその二種類に振り分けられる。飛べない者はいつだって空を見あげて羨望を抱く。


 彼女が生まれ育った土地は、四方を見渡してみても稜線が途絶えることのない山国だった。北東に連なる山の中腹には、電気を都市部へと送る送電鉄塔が線を描いていた。銀色の無骨な姿は、澄み渡った青空の下でも、曇天の重々しい空の下でも、夕焼けに染まった空の下でも、不思議な存在感があった。見慣れない者にとっては特に。 

 山間の国道を自動車で走っていると、左手にその塔が見えてくる。僕は助手席に身を沈めながら本数をよく数えていた。

 国道を左に外れ、アスファルトを固めただけの簡素な狭い道を山中へ向かって走っていくと、送電鉄塔にたどり着くことができた。

 深い林に埋もれた道は、秋には黄色い落ち葉が、まれに訪れる台風の後には折れた枝葉が散乱していることもあった。夏の想い出が多かった。木漏れ日に包まれて木立はざわめき、耳を塞ぎたくなるほどに蝉の大合唱が空から降ってくる。鮮やかな色彩と蒸した夏の匂い。蝉の鳴き声は、原風景へと回帰していく幻想的な気持ちにさせてくれた。冬には葉の落ちた黒々とした幹が白銀の中で林立している景色が迎えてくれるのだろう。美しく忘れられない風景として心に焼きつくに違いない。しかし、その冬景色を一度も見ることはなかった。

 脱輪しないように丁寧に自動車を端に寄せて停め、五分ほど道なき道を歩いていくと、送電鉄塔の真下に出る。

 堅牢なフェンスに囲まれていて鉄塔に触れることはできないが、その周囲だけはなぜか芝のような低い草が広がっていて、寝転がって空を望むことができた。何度か彼女とそこへ出かけては、手足を投げ出してドライブの休憩をした。その時間はいつも静かだった。風に揺れる木立と蝉や鳥の鳴き声、ふたりの会話しか聞こえてこなかった。

 そのときの彼女はよく空をぼんやりと空を眺めたままだった。豊かな水源と大気の流れを複雑に留める地形の空には、変わった形の雲がよく浮かんでいた。少し目を離している間にも雲は次々と生まれては、名前をつける間もなく姿を変えていく。僕は、彼女の少し風変わりな性格から、それらの雲ばかりを目で追っているものと思っていた。実際、流れる雲たちを見やりながら幼い物語を聞かされることもあった。しかし、彼女は雲ばかりではなく、送電鉄塔の先端をただじっと眺めていたのかもしれない。雲だったらこの場所でなくても眺めることができたのだから。彼女の二つのどこか淋しげな眼は映写機となって、彼の姿を、彼が描いていた夢を、大空に投影していたのかもしれなかった。


「私を置いてね、彼はそのまま天まで昇ってしまったの」

 彼女はこのような言葉を選んだ。再び語り始め、言葉を続けていく。

「おかげで彼が無数の鴉となって飛び去っていく夢をよく見るようになったわ。青空を背にそびえる鉄塔の天辺に彼が独り座っていて、下から声をかけると振り返ってくれるの。そして彼は立ちあがり、空を見あげて両手をゆっくりと広げてみせるの。私は危ないと思って声をあげるんだけれど、彼の身体は無数の鴉に分かれて、そのまま四方へ飛んで行ってしまう。去っていくに従って、そこから夜が広がり、空は二度と明けることがなくなるの。私はその様子を下から見あげることしかできなかった」

 僕は黙ったまま、彼女の話を聞いていた。話したいことは、もう昨夜のうちに総て話していた。『夜』はいつも悲しむ者の空を染めるものだ。彼女の白い肌は、話の結末へ近づくにつれて、コットンガーゼの柔らかいワンピースに隠れていった。

 彼女の空には絶えず夜だけが広がっていたのかもしれない。青い空の下で気持ちいいねと笑い合ったときにも。その夜は彼女を逃がさないように追い詰めていたのか、それとも他の総ての色を掻き消して優しく包んでいたのか、僕にはそれが分からなかった。ただ、僕と一緒にいて、ときどきは僅かながら夜が白むことはあったのだと思う。そのことを彼女が望んだものなのか、望んでいなかったのかは、判断がつかないままになってしまいそうだが。彼女は演技もできなければ嘘もつけない。隠したいことは不器用すぎるほどの沈黙で応える。

「夜は好き?」

 唐突に質問してみた。

「案外好きかも。困った性格よね」

 話は通じた、かもしれない。

 おそらく彼女は希望と絶望という二つの望みを抱いて、夜が明けることをひたすらに待ち続けたのだろう。

 空を飛べない僕と地上に置き去りにされた彼女は同じ視線だった。地上から空を見あげ、空に憧れていた。歩き続け、地上のあらゆるものを一緒に手に取り合った。

「空にはいつだって羨望が広がっている」

「……そうね」

 僕は独りごとのように言葉を空気に溶かした。

 彼女も独り言のように言葉を空気に溶かしてみせる。

 そう、僕らはいつだって羨望の影に怯えていた。

 何もない、恐ろしいまでに澄んだ青空に曝されて。


 樹海の湖畔に佇んでいるラブホテル。その朝を最後に、僕と彼女は別れることにした。彼女は明けた空に結論を見出したのだろう。彼女は再び広がった『朝』の青空の世界へ立ち向かい、僕は永遠に明けそうにない『夜』の世界へ身を委ねてみようと、別々の世界でお互いに彷徨ってみることに決めた。


「本当にここで待ってて、バスは来るのかしら?」

 彼女は空色のペンキで塗り直されたベンチに座って、道路の左右を交互に見やっている。僕はベンチの脇の時刻表らしきものを覗き込んでいた。書かれている数字は陽に焼けて色褪せている。指で擦って土埃を落としてみても読み取れなかった。

 ホテルを後にして未舗装の砂利道を歩くと、幹線道路へと出た。さらに数分歩いたところにこのバス停があった。帰りはここでバスに乗ってみることにした。

 昨日は駅から長い時間をかけて歩いてきた。途中、景勝地である渓谷に寄り道をして涼み、さすがに疲れて帰る気になれずにホテルで泊まることにした。振り返ってみても、この最後のデートにどのような目的があったのかは見つけられなかった。そもそも目的なんてなかったような気さえしてきた。川を見に行きたいという思いだけで、僕たちは早朝の電車に飛び乗った。夜明けとともに出かけるのだから、下流ではなく上流の綺麗な川を目指そうと進路を決めた。昨日は休憩を挟んで八時間ほど歩き、結果として、散策としては長すぎて、旅としては短すぎるものとなった。

「だけど、やっぱり空っていいよね」

 僕は時刻表からの情報収集を諦め、空へと視線を移した。

「うん、ちょっと残酷だけどね」

 彼女は少し笑いながら答えた。その言葉を聞いて嬉しくなった。やはり同じ視点から、同じ空を見ていたのだ。

 照れくさくなって、彼女の顔を見られず、わざと視線を逸らした。目に留まったのは、なぜかゴミ箱だった。コーヒーの缶とミネラルウォーターの新しいペットボトルが雨水に浮かんでいる。縁のあたりには、すり潰された煙草のフィルターが小舟のように着岸していた。

「あの、きちんと送り出してくれてありがとう」

 彼女の声を背中で受けた。

「いいさ。辛いことがいっぱい待ってるかもしれないけれど、がんばりなよ」

 急に目頭が熱くなった。彼女は明るく広がった空を飛んでみようとしている。直接彼女の姿を見たわけではないが、僕の心には白い翼を背中に宿した彼女の後ろ姿が見えていた。今の今となって、もう彼女と会うことはないという意味が、息苦しくなるほどリアルに全身へのしかかってきた。

「私ね、あなたによく聞かせてもらった、二羽の渡り鳥の話が好きだったわ。いつまでも一緒で、海に潜って魚を追いかけたり、小さな島の隅で卵を温めたり、群れから抜け出して、ふたりだけの小さな楽園を築いて幸せに暮らす話。ずっとあんな感じで暮らせたらと思っていたのよ、本当に」

 少しも動けなかった。彼女の言葉の一言も聞き漏らしたくなかった。これまで聞き流してしまった言葉はたくさんあったことだろう。そのことが悔やまれた。もっと注意深く意識を集中させていたら、違う結果が用意されていたのかもしれない。

「あの渡り鳥たちはずっと幸せに暮らすんだよね? そうであって欲しい」

「そうさ。絶対に幸せになるんだ」

 もし僕に守らなければならないものがあるとしたら、それは紡ぎ出された二羽の渡り鳥の未来だろう。ただ、今その結果を綴ってみせたら、涙を抑えることができそうになかった。

 バスはなかなかやって来ない。

「ねぇ、最後に何かお話を聞かせて」

 彼女はいつの間にか隣に立っていた。日傘のように真夏の陽射しを一身に浴びながら。

「落ちこぼれ天使とチョココルネの不思議な関係」

 今は少しでも渡り鳥の話から離れたかった。

「おかしな組み合わせ……でも、楽しそう」

 彼女は声を弾ませて笑ってくれたが、頭の中は真っ白で何も考えられなかった。口にした言葉も、頭に浮かんだ言葉を適当にくっつけてみただけにすぎなかった。構想も結末もない。ただ、その天使には翼がなくて、空を飛べないということだけは確かだった。

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