第23話 透明への帰還(前)
青色以外、何もなかった。
ググゥは空を眺めていた。岩の上で仰向けになって寝転がり、大きく翼を広げながら。
深い考えはおろか、何も頭に入ってくるものはなかった。だからというわけではないが、今はこうして全身で感じてみたかった。残酷なまでに青く、瞼の裏に収めきれないほどに広い空を。そして声が届かないほどに深い空の懐を。とても自分の身体では受け止められそうになかったが、心地よい疲労感に浸りながら臨む空は清々しかった。
隣ではリリィがうつ伏せになって、顔をこちら側に向けて眠っている。このままではおそらく、目を覚ましたとき、左半面の顔に岩の痕がついていることだろう。そのぼんやりとしたリリィの寝顔を想像して、声を立てずに笑った。
ググゥとリリィは、一緒に川で仰向けになって浮かび、潜っては川魚を追いかけ、疲れては同時に岩へ上がった。寝転がれるくらいに大きな岩を選んで身体を休めながら身体を乾かしているうちに、リリィは眠りについてしまった。
濡れている服を着ているままでは寒い、とリリィは裸になって横になった。白い裸体はすでに乾いている。軽く波打っている髪も風でなびくほどに軽くなっていた。
ググゥは起きあがると、広げて乾かしていたワンピースを拾いあげてリリィにかけてあげた。川で泳いでもうっすらと残っている土の汚れが懐かしかった。
* * *
橋の欄干から身を乗り出して池を眺めていると、橋の下から二羽のカルガモが泳いでやってきた。風はなかった。水面に三角形の波紋が美しく広がっていく。
先頭の顔つきは凛々しくて、その後を追うもう一羽は、少し小ぶりでふくよかな体躯をしていた。カルガモたちは池の端の葦に寄り添うように身を隠すと、頭を水につけて顔を洗い始めた。
「君にはずっとそばにいて欲しい」
「あなたさえ逃げてしまわなければ、私はいつまでもあなたのそばにいるつもりよ」
「僕は運命に戸惑いながら、君と出会って、君を選んだ。今でも思い返すといつも不思議に思うよ。全然自分らしくなかったって」
「そうね。でもあなたのその自分らしさを欠いた一歩に感謝している。戸惑っていたのは、私も同じだったのよ。あの場所に居合わせていなかったら、あなたがあのときに声をかけてくれていなかったら、きっと結ばれることはなかったのでしょうね」
「一時間でも時間がずれていたら、あと十分だけでも遅かったのなら、お互いに出会うことはなかったのかもしれない。それでもまた他の巡り会わせの機会が用意されていたと思う?」
「たぶん、なかったんじゃないかしら。だったらもっと早く出会えていたっていいはずよ」
頭に像が浮かんでいた。目の前の池に連想されたのだろうか。支流が本流へ合流する地点の河の様子だった。お互いに別々の川から下り合流する。このタイミングが合わなければ、一緒に同じ景色を眺めながら川を下ることはできない。同じ流れに身を任せている限り、追いつくことも、すれ違うことも、追い抜くこともできない。つまりはお互いの存在を知る機会はないのだ。
春の盛りはまだ少し先だった。午後三時、その少し前。何気なく落とした腕時計の文字盤はそう指していた。時刻を知ってしまったからだろうか、目を細めた視界はどことなく黄色く染まっているような気がした。
「それに、君を見つめていた視界を遮るように誰かが間に立っていたのなら、僕は君のことさえ気がつかなかったのかもしれない」
二羽のカルガモはお互いの毛繕いをし終えると、池の中心のほうへ、太陽が沈んでいく空の下へと再び泳ぎ始めた。
「あのカルガモたちは夫婦なのかな、鳥っていうのも可愛いものね」
彼女もお尻を振りながら泳ぐカルガモの後ろを眺めていたらしい。
「仲間はずれにされたのかな。水鳥っていつも群れで池を泳いでいるよね」
「一緒に生きていく姿って素敵ね」
「そうだね。君を愛すためだけの小さな楽園をいつか築きたいな。あのカルガモのように群れからはぐれてしまってもさ」
「私のための楽園?」
「そう」
「いつもあなたは変なことばかり言う」
彼女は照れたように困りながら笑ってくれた。その表情を、水面に映っている彼女の姿を見つめて確認した。
「雑居ビルのように古くて汚いマンションかもしれないけれど、寝室の壁や窓辺には飾り棚を設けて、胡蝶蘭やシクラメンなどたくさん植物を育てようかな。休日の朝は陽と花の匂いに包まれて君を抱くんだ」
「なら、もっとお花の勉強をしないとね。蘭は特に育てるのが難しいから」
「その後は、甘いフレンチトーストとグレープフルーツジュースをベッドの上で食べよう」
「グレープフルーツは苦いから嫌い」
「あ、そうだったね」
* * *
ググゥは起きあがり、岩の上で空を飛んでいる真似をしてみた。落ちた影も翼を広げて空を泳ごうとしてみせる。
背中にも翼にも痛みはなかったが、かつてこの翼で自由に空を渡ったという実感も蘇ってこなかった。翼は無力な飾りにしか思えなかった。鳥としての誇らしい存在感はなく、とてもこのようなもので空を相手に飛べるような気がしなかった。いくら思い出してみても、どうやって胴体を空中へと浮かしていたのだろうか、見当もつかない。火の入らない飛行機のイメージしか浮かばなかった。
肉体はすでに完治しているのだろう。大怪我をしたことで、空を渡る感覚と力強く羽ばたくという行為を無意識に肉体が拒んでいるのかもしれない。また墜落してしまうのではないか、と。そもそも空には何もない。今大切なものは地上で生まれ、そして在る。
翼を大きく羽ばたいてみた。
やはり少しも身体は浮かない。『陸の孤島』で過ごしていた頃は、鳩のコロニーであったマンションの屋上から最寄り駅のプラットフォームまで行き来することができきるまで回復していた。リリィと旅に出て、寄り道をしたあの山頂では、ベンチから広場の樹の高い枝まで飛ぶことができた。この川原に着いてからは、リリィの顔の高さまで飛びあがり、両翼で彼女の頭をしっかりと抱きしめてあげることができた。それが今では、胴体は役に立たない鉄の塊のように重く感じられ、背中の翼は画用紙に描かれた翼の絵を切り抜いたような頼りなさだ。
力いっぱい羽ばたいてみたものの、動かせたものは、岩のくぼみに溜まっていた砂埃と数枚の落ち葉、乾き始めているリリィの髪、それくらいだった。それに何本かの羽が抜け落ちて宙を舞った。いずれの羽根も漆黒に染まり、色の深みと形だけは立派なものだった。そのうちの一本は、リリィの軽く握られた指先のあたりに落ちた。
もう一度翼をはためかせた。
数本の羽根が岩に落ちる。
やはりどの羽根も艶のある黒色をしていた。それらの羽根をくちばしで拾いあげると、リリィの頬や腕、背中、ふくらはぎへと置いてみた。なぜそのようなことをしたのかは、ググゥ自身にも理由を見つけることができなかった。放り出された時間は、思考の枠をはみ出して、こういう無意味なことに寄与されていくものなのかもしれない。
* * *
「僕は昨夜、とても大きな恋をしたよ。抱いているときの君の顔を見て、あと五回は恋に落ちるんだろうなって」
「何?」
明らかに彼女は困ったような顔をしていた。そう呟いて、ベッドの中で身体をこちらに向けた。
「恋をする相手は君が最後になるだろうけど、まだいくつも恋をすることができるんだなと思って」
彼女はまだまだ眠たそうな顔をしている。微笑んでいるのか、呆れているのか、まだ寝足りないのか、判断のつかない曖昧な表情だった。
「歳をとった君を、僕はずっと飽きることなく抱き続けるのだろう。呆れられてしまうくらいにね。君の寝顔を見ていたら、そういう未来の絵が突然浮かんだんだ。これは初めての感覚だったな」
彼女の肩にそっと腕を伸ばす。毛布からはみ出していた肌は冷たくて、手のひらの熱を奪っていく。
「ねぇ、何を笑っているの?」
彼女は緩慢な動きで毛布から腕を伸ばして、僕の髪を触れようとしてきた。その細い手首を掴むと、そのまま手のひらを重ねた。ほのかに温かくて、しっとりとしている。
「何度も会って、何度も抱き合って、いろんな角度から君を見てきたはずなんだけど、それでも初めて気づかされることがある。結婚は決して人生の墓場や恋路の終着駅じゃないってね。もう他の誰とも恋をすることはできなくなるけど、決めた相手とは何度も恋をすることができるんだなって思ったんだ。結婚って、それを許してくれることなんだなって」
そのまま彼女の腕を引き寄せると、彼女の唇を軽く噛んでから重ねた。
「あまりにも簡単すぎる答えに思わず笑ってしまったんだ。馬鹿だよな」
「ううん、今なら分かるわ、その感覚」
「それで今、この歳になって君と出会えたことに感謝しているのさ。十年前に出会っていても、きっと恋をしてしまっただろう。だけど、今のような心境には至らなかったと思う。普通の恋で、よくある若気の至りとか、何か取り返しのつかない過ちを犯して別れてしまうことになっていたのかもしれないし、果てしない倦怠期の波に呑み込まれていたのかもしれない」
「あなたの口から倦怠期という言葉が出てくるなんておかしい」
「そう? それはいつも馬鹿みたいなことを言ってるから?」
彼女は笑っただけだった。彼女はもう片方の腕を器用に毛布から抜き出すと、あっという間に僕の後頭部のあたりを掴んだ。そしてそのまま彼女に引き寄せられた。
彼女の顔が目を瞑っていても感じられるほどに近くにあった。目を開いても焦点が合わないだろう。彼女の唇が触れてくる前に、僕は口を開いた。まだ伝えたい言葉は残っていた。
「でも、今はもう失うことの痛みと苦しみを知っているし、そこから立ち直るには膨大なエネルギーを必要としていることも知っている。そのエネルギーも化石燃料と同じように限りがあるということも。それに本当に好きな人とは、年老いても何度も恋に落ちる感覚が分かった。そのことを、君が教えてくれたんだ」
「もう、あなたは馬鹿よ」
「どうせ僕はどんなに努力したって『天才』の側にはいけない人間さ。かなり遠回りをしてしまったけど、歩んできた人生にはそれなりの誇りをもっているし、その誇りが胸を張って言っているのさ。好きな人のためには、とことん『愚か者』になれってね」
* * *
「これはググゥの羽根ね」
リリィはうつ伏せのまま目を覚ましていた。目を細めて指先にあった黒い羽根を摘まむと、子供のように指先で遊び始めた。
「白い肌に、茶色の髪、白いワンピース、青い空、緑の山、眩しい太陽、水面に落ちた影、丸くて小さな石、切り出されたようなゴツゴツした岩、斜めに入った模様、それに抜け落ちた黒い羽根。その組み合わせが美しくて、思わず飾ってしまった」
「そう……、ググゥがそうやって私のことを大切にしてくれる気持ちがすごく嬉しい」
「でも、そう……、でもだ」
「ごめんね」
「いいさ、愚か者になれ。君は落ちこぼれの天使さ」
「そうね、あなたのその言葉も嬉しい。ググゥ、やっぱりあなたは私と同じ高さで、同じ目線で、同じ景色を見てくれていた」
リリィの言葉を背中で聞いていた。これまで一緒に眺めていた景色を思い返すと、ゆっくりと首を捻って振り返った。
リリィと静かに見つめ合う。
瞬きもせず、言葉も発さず、ただ涙が零れた。
ググゥのほうが僅かに先で、リリィがその後を追うように。
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