第22話 海面の空
ググゥは海底で目を覚ました。
意識を無事に取り戻したということは、どうやらまだ生きているらしい。墜落して海へ叩きつけられてから、そう長く時間は経っていないはずだ。いや、海の底にいて少しも苦しくないのだから、もう死んでいるのかもしれない。呼吸を穏やかに繰り返すことができる。普通に考えてみれば異常だ。目を開いてみても視界はぼやけていないし、体に痛みはない。
ググゥは海の空を仰いでみた。
ここからの空も遠かった。しかし、知識で得ていたほどに海底の世界は暗くなかった。鳶色の水彩絵の具を溶いたように深い色をしているが、濁りはない。光が許す限り遠くまで見渡すことができた。
静かな夜の色にも似ていた。遠くへ去った日々のことが思い出される。『祈りの島』から一睡もせずに飛び続けた夜のことだ。あの夜は渡りきれないほどに広かった。この海底も夜空と同じくらいに広いのだろう。
意味もなく歩き回った。足場は柔らかく、『永承の砂浜』を思わせる砂がなだらかに広がっている。思考は何もまとまらず、懐かしさばかりが胸を込みあげてくる。
孤独だった。しかし恐怖はなく、自分自身のままでいられるような、安心感でもあった。全力で挑み、正々堂々と喫した敗北の清々しさにも似ていた。
なぜか、嬉しかった。
自分の気持ちと向き合えたとき、遠くで光っている何かを見つけた。
銀色のハンガーラックだった。白いワンピースが一着かけられていて、穏やかな海流の影響を受け、そよぐように揺れている。その隣には、山頂でリリィと一緒に夜を明かしたベンチがあり、チョココルネが二つ並べられていた。その足下にはミュールがあった。履き込まれて少しくたびれている。リリィのものだ。他にも山で目にした花々が海底に咲いていた。名前は分からずじまいになってしまったが、そのいくつかは、今でもかすかに思い出せるほどお気に入りの匂いをもった花だった。
不思議だった。目を覚ましたとき、海底には何もなかったような気がする。視線を這わすたびに、記憶と結びつくたびに、生まれてくるようだった。
ベンチへあがると、全身の力を抜いた。目を瞑る。
金色の龍を追いかけた疲労は全身に深く刻まれたままだった。海に叩きつけられた痛みはない。水の抵抗を受けているせいか、全身は重くも軽くも感じられる。心地よい疲労感としてはだるすぎるが、鬱に陥ってしまいそうな倦怠感はなかった。
どのくらい目を瞑っていたのだろうか。短くとも長かったリリィとの日々が脳裏で再生された。今ここで目を開いてみれば、あの山頂から眺めた景色を完璧に再現できそうだった。
ゆっくりと瞼を持ちあげてみる。
目の前の砂が突然舞いあがった。
煙のように砂が踊り、視界の一部が濁る。
砂の乱れは次第に落ち着きをみせ始める。
砂から姿を現したのは、長い尾をした大きなエイだった。翼のようにひれを上下に波打たせると、そのまま海底を這うように遠くへと、より濃い鳶色の世界へと消えていった。
今度は視界の端に可愛らしい気泡を捉えた。二つ、三つと小さな泡が連なって上昇していく。気泡の持ち主はベンチの上を歩いているヤドカリだった。仲良く二匹で、背負っている家はチョココルネにそっくりな形だった。ベンチの上のチョココルネに興味をもったらしい。その周囲を、戸惑いながらも新しい家に換えるべきかと、品定めをしているようにも見えた。彼らには甘いお菓子の家は大きすぎる。
その愛らしい様に微笑みかけたとき、ワンピースの肩口が膨らんだ。黄色く小さな魚の家族連れが現れたのだ。裾からは鮮やかな群青色の魚の群れが続いて顔を出した。ワンピースは彼らの棲み処とされていた。
不意に座っているベンチが揺れた。
驚いて振り返った。
大きなマンボウがうっかりとベンチにぶつかってしまったらしい。体躯に似合わない小さなひれを懸命に動かして方向転換を試みている。その様子は微笑ましい気持ちにさせてくれるほどに一生懸命だった。本当に慌てているのかも分からない表情も相まって、出会ったばかりだというのに親近感がわいてくる。
ググゥは独り海底に取り残され、自分の想い出と戯れてくれる生きものたちに癒されていることに気がついた。
自信に反して、何度瞬きを繰り返してみても、山頂からの眺めを取り戻すことはできなかった。けれども、思い出を寝床として楽しんでくれている生きものたちは、とても温かなものを届けてくれる。この素敵な想い出さえも、無意識のうちにほの暗い海底に閉じ込めようとしていたのだろうか。
想い出は沈下し、このような形で昇華していくものなのかもしれない。だから心の痛みはいつしか和らげられるのかもしれない。忘却という残酷さを糧として。
しばらく動く気になれなかった。ベンチに座って長かった旅の疲れに浸りたかった。何も考えずに海底の世界を、ただ眺めた。
何もする気が起らなかったし、何かをする必要もなさそうだった。今は、いられるものならば、ずっとこうしていたい。しかし、ここに居続けるわけにはいかない。夜と同じ色をした世界の底では、呼吸を止めている想い出の中では、暮らし続けることはできないのだ。そのことは痛いほどに知っている。優しさは弱さとなり、心は腐食され、必ず何かが破綻をきたして現実への回帰を困難へとさせる。想い出は大切にしまっておいて、ときどき会いに来るだけでよい。
再び海の空を仰いだ。
ここから抜け出すにも、海という空を飛んでいかなければならない。
そのとき、足元の砂が乱れた。
小魚たちは驚き、一瞬泳ぐことを止めた後、一斉にワンピースの棲み処を目指して逃げ帰っていく。ベンチのヤドカリもチョココルネの陰に隠れてじっと様子を窺っている。
エイや、今度はエビやカニなどの甲殻類が姿を現したのかと想像したが、そうではなかった。海底に似つかわしくない一羽の白い羽をもった渡り鳥が姿を現した。
その渡り鳥もこちらを見つめている。場違いの登場をしてしまったかのような間抜けな表情を浮かべて。その鳥はかつての妻ではなく、ググゥそっくりの、そっくりだったかつての渡り鳥だった。
ググゥと白い渡り鳥はお互いに驚きながらも目を合わせた。同じ感想をもったことは相手の顔を見れば分かった。
やがて白い渡り鳥はゆっくりと空へ顎を向けると、海面へと吸い寄せられるように滑らかな動作で泳ぎ始めた。
(ちょっと待ってくれ!)
ググゥは慌てて言葉をばら撒いた。思いは音にならず、空気に閉じ込められたまま海中へ旅立っていく。
かつての自分の姿をした渡り鳥に空の飛び方を教えてもらいたかった。
もう一度叫んでみても、白い渡り鳥の後ろ姿には届かなかった。渡り鳥は口からこぼれた気泡よりも速い速度で巧みに泳いでいく。
次第に小さくなっていく渡り鳥の後ろ姿。金色の龍を追いかけるために飛び立ったとき、足を掴んだ者もこのような視点だったのだろうか。あのときはそれどころではなく気にも留めなかったが、そのことが妙に引っかかった。実は足を掴んでいた者は彼だったのかもしれない。そういう気がしてきた。一緒に海底まで沈み、全身を覆っていた黒い灰は洗い流され、元の姿に戻ることができたのだろうか。だとしたら、それはもう一人の自分自身であったのかもしれない。
元に戻れるのだろうか。そのような問いがググゥの頭を過った。
考えてみても、戻りたいのか戻りたくないのか、結論は出なかった。目に映る明らかな事実としては、海底で目が覚めても全身の羽は黒いままだったことだった。
白い渡り鳥を真似て翼を広げてみせる。
僅かに身体が軽くなったような気がした。
何度か羽ばたいてみる。
翼の動きに合わせて身体が持ちあがった。翼の内側に溜まっていた気泡が騒ぎ出す。離れて昇っていく気泡の群れは滑らかな宝石のようだった。
ベンチから足が離れた。空気を漕ぐことと違って水は重たく、羽ばたくたびに羽の付け根の関節と筋肉に鈍痛が走った。『孤独の国』で墜落して翼を失ったときのイメージが蘇って重なる。それでも漕ぐことを止めなかった。
海底から海面へというマイナスからゼロ地点への飛翔。肉体の鈍痛を伴った飛翔。情けない気持ちに負けてしまいそうだった。これが金色の龍の魔力なのだろうか。飛ぶ者を地へ突き落すと云う。言い伝えでは、金色の龍と目が合った瞬間と聞いていたが。冷静に思い返せば、誰も金色の龍を見た者はいないのだ。そう言い切れるはずがない。
笑った。なぜか笑うくらいには余裕があった。まだ自分が飛べそうな気がした。ここが海の底で、海面を向けての飛翔だから? いや、飛ばなくてはならない理由が残されていたのだから。
でも、この世界で羽ばたいていくことが目的ではない。
この世界は……、『永承の砂浜』であるのだから。
ググゥは全力で水を漕いだ。
全身の羽から空気の粒たちが一斉にざわめき始め、白い群れとなって周囲を煙らせた。
空気は八方へと散らばる。さらに小さな粒に分かれて海面へと向かって霧散していく。穏やかに落ち着いて透明に戻ったとき、ベンチの上にググゥの姿はなかった。空気の粒たちよりも遥か上空で飛翔し続けていた。
海面へのマイナスからの飛翔は、時間にしてみればほんの僅かなはずだった。しかしググゥには、夢から現実への帰路のように果てしなく長いものとして感じられた。現実との世界とでは逆。夢から目覚めるときは一瞬なのかもしれないが、今は自分で水を掻き分け続けて越えていかなければならなかった。
夜と同じ色をした海底にあれほど長くいても苦しくなかった。頭上にステンド硝子のような空が広がり、差し込む光の帯に目をしかめるようになってからは、急に胸が苦しみ出した。無性に酸素が恋しい。やはり想い出だけが呼吸を繰り返している海水では肺を満たすことはできなかった。現実は絶えず空気にさらされているのだ。
ググゥは顎を突き出して首を伸ばした。
ようやく海面に到達した。
世界は眩しかった。深呼吸を繰り返して何度も頭を振っては海水を払い落とした。それでも胸に詰まった苦しさは抜けなかった。
海中では空気が異端だった。海底では鮮やかな海面が空となり、海面を出てしまえばここが水平線となり、異端だった空気の巨大な塊が空に替わる。改めて考えてみると笑ってしまうほどに当たり前のことだったが、海底の旅を終えたググゥには、そのカラクリが不思議で感慨深く感じられた。呼吸する場所が変わるだけで、いろいろなことが見えてきたり、意識させられたりする。空があるから飛ぶことに憧れる。鳥であるから飛べることが当たり前となり、鳥であるゆえに歩いて世界を回ることが異端に思える。海面へと近づくにつれて込みあがってきた胸の苦しみ。それは海から頭を出して深呼吸を繰り返した今でも軽くはならない。何が詰まっているのだろうか。
答えを求めて周囲を見渡してみた。
黒い灰に閉ざされようとしていた世界の面影はどこにもなかった。
青空が視界の半分を覆い、太陽は一番高いところで陽射しを余すことなく零している。後ろを振り返ってみても、水平線が途切れることはなかった。遠くには亀の背のような島がいくつか浮かんでいた。小高い甲羅の山には盛大に緑が生い茂っている。目に映るもの総てが色鮮やかだった。
仰向けになって海に身を委ねてみる。太陽と向かい合った。空から何かを見出そうとしてみる。
強烈な陽光が眼球を透き、軽い眩暈を覚えた。雲一つない空は恐ろしいほど高く、そのまま宇宙まで見渡せそうだった。太陽はこの空よりも遥かに高いところで鎮座し、この目に映っている世界の総てに光を与えている。
帰還を果たした世界は、かつて過ごした南の海に似ていた。
西から東へといくつかの渡り鳥の群れが空を横切った。
懐かしくてつい目で追ってしまったが、いずれも名前の知らない一族の鳥たちばかりだった。
妻の姿はなかった。
金色の龍の姿もなかった。
本当に金色の龍なんてものは存在しているのだろうか。
そんなものはいないような気がする。
弱い心に魅せる煌びやかな幻影。
金色の龍を追って夕焼けの空を飛び続けたことが、夢の出来事であったように思えてきた。事実として刻むには、あまりにも手応えが残っていなかった。
思いっきり叫んでみた。
胸につかえている『何か』を吐き出してみるために。金色の龍と同様に、本当にそのようなものが存在しているのであれば。
具体的な言葉にならなかった叫び声は、小さな口から飛散し、跳ね返ってくることなく、水平線の端を目指して拡散していった。
焼けるような陽を浴びて、大きく肩で息を切らしながら呟いた。
「リリィ……、リリィ……」と。
仰向けのまま、海に浮かび続けた。
なぜ、リリィの名前が口から零れたのだろう。ググゥ自身にも理由は分からなかった。確かな言葉を無意識に求めてしまったのかもしれない。もっとも親しみのある言葉を。
この『永承の砂浜』の世界で、リリィの名前を口にしたのは初めてのことだった。
その言葉は帰路へと誘う、魔法のような、おまじないのような、祈りのような言葉になった。
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