第20話 黒い翼と金色の龍

 太陽がなぜあそこまで大きく膨れあがっているのか、おそらく誰も知らないだろう。濃淡のない真っ赤な色をしていた。枝から落ちる寸前の、熟れすぎた柿にも似ていた。熱は静かに大気へ溶け出して揺らめいている。

 赤黒く熱せられた雲の海が空に広がり、それを背に金色の龍は優雅に空を泳いでいた。追いかけても届かないほど高いところであるには違いないが、想像していたほど果てしない上空でもなさそうに思えた。あまりにも優雅に泳いでいるからそう思えてしまうのだろうか。

 ググゥはこれまで一度も金色の龍を目撃したことはなかった。龍は耳から耳へと渡る伝説上の存在。肉眼でその姿を捉えられた事実は、想像と現実という見えない次元の壁をあっさりと取り払ってくれた。

 遠目からでも、金色の龍はこの世のものと思えない神々しさに溢れていた。黒い灰が視界を濁していく中、龍の周りだけは灯篭のようにぼんやりと金色に光っているのだ。その姿は恋敵とはいえ、感嘆せざるを得なかった。崇められて語り継がれている所以を知ったような気がした。その傍にはかつての妻はいるのだろうか。さすがにここからでは遠すぎて確認することはできなかった。

 長い間、そうやって金色の龍に目を奪われていた。どのくらい時間が過ぎたのだろうか。灰の雪が眼に入り、視線を落としたときには、足首が完全に埋もれるほどに降り積もっていた。

 かつての『永承の砂浜』の面影を残しているものは何もない。降り積もった雪により、一面は太陽に焼き尽くされたかのように黒一色に塗り替えられていた。隆起を描いていた砂浜は静止した黒い海となって連なり、本物の海は灰を被って夜の海の不気味さを残したまま、紅い空の下で打ち寄せている。声を荒げてみせるだけで、空という天井は脆く崩れ落ちてきそうだった。灰の雪が止む様子はない。静かに零れ落ちるように降り続けている。

 世界は一変してしまった。『永承の砂浜』の崩壊は誰の目にも明らかに思われた。

 ググゥ自身も灰の雪を被り、今では鴉以上に全身余すところなく真っ黒に染まっている。ただ、空へと向けられた二つの眼だけは、この太陽のように赤く挑戦的で、金色の龍の姿に臆していなかった。

 胸騒ぎに駆られた。

 それは我に返った瞬間でもあった。金色の龍は僅かずつではあるが、時間の経過とともに小さくなっていくように見えた。このまま眺めているばかりではいつか見失ってしまう。そうなっては、再びその姿を捉える日は来ないだろう。この機を逸しては、追いかけてみる、つまりは競い合ってみることはできなくなってしまう。そう、今しかないのだ。

 ググゥは息を吸ったまま呼吸を止めた。

 無意識のうちに翼を広げてはためかせていた。

 翼に積もっていた灰が煤となって周囲を煙らせ、全身を包む。

 対流が落ち着いたとき、立派な漆黒の翼が現れた。ビロードを思わせるほどに艶があり、血流が翼の先まで駆けていく音まで聞こえてきそうだった。痛みなど違和感は完全にない。乾燥した瘡蓋のようにどこかに剥がれ落ちていた。

 紙よりも軽く、けれども強靭に空気の抵抗を受け止めている。助走をつけなくても、数回羽ばたいてみせるだけで、全身は滑らかに浮きあがった。漆黒の翼は忘れていた空の飛び方を教えてくれたわけではなかった。飛びたいという気持ちに素直に反応を示しただけだった。

 もしかしたら、金色の龍がこの世界を焼き払おうとしているのかもしれない。そういう想像が脳裏に走った。そしてこのまま闇に埋没してしまわないうちに空へと飛翔させようと仕組んでいるのではないのか、とも。金色の龍の挑戦状? もしくは失った妻からの救済?

 そのようなことはどうでもよかった。

 ググゥは両翼の躍動を目視すると、視線を雲の海を泳いでいる金色の龍へと戻した。

 瞬時にその後ろ姿に焦点が合う。

 克明に眼球へと焼きつける。

 久しぶりに空への想いを馳せる背中は、加熱したエンジンを背負っているように熱かった。

 数本の羽を宙に残して飛び立つ刹那、両足に強烈な負荷がかかった。思わぬ反動に前のめりに体勢を崩してしまった。

 突如、砂から真っ黒な二本の腕が伸び、ググゥを逃すまいと足首を掴んだのだ。それはこれまで巣食っていた『憂鬱の微笑』の本体なのかもしれなかった。闇に閉ざされようとしている今、いよいよ正体を現したのだろうか。

 気にも留めなかった。いや、気にする余裕がなかった。一刻も早くあの金色の龍に迫りたい。すべきこともしたいことも、それしかない。焦りにも似た気持ちだった。気持ちが強くなればなるほど、龍が遠ざかってしまうように思えてならなかった。

 力任せに腕を振り払おうとした。

 激しい羽音が周囲の空気を掻き乱す。

 それでも腕は強情にも離さない。さらに力を込めて握りしめてくる。放す気がないのなら、砂浜に埋もれている本体ごと空へと舞いあがってみせるだけのことだった。

 ググゥはありったけの力で羽ばたいた。

 積もっていた黒い雪は一斉に放射状に踊り出し、降ってくる灰の雪も巻き込まれ、渦を巻いて四散していく。

 唾も飲み込めないほどに鼓動は高鳴っていた。

 そして、空から降ってきた一つの声。

――今こそ飛べよ。

 そう、飛んでみる価値があるのはこの瞬間だけ。

 声と心が重なる。

 今のググゥを、この世界に、砂浜という大地に縛りつけているものは何もなかった。総てを振り払い、捨て去ることができそうだった。

 心が軽い。かつての妻との想い出も地上の冷凍庫にしまったままで構わなかった。そのことが心の軽さにつながっていた。今の自分には、もはや捨てるものもぶら提げておきたいものも情けないほどに残されていないことに気づかされた。

 身体が少しずつ上昇していく。それに合わせて真っ黒な腕も露わになっていく。肘が覗き、やがて肩が姿を現す。それ以外は分からなかった。頭部や胴体は、蓑虫のように黒い灰をまとった塊。人間の姿のようにも見えたが、ただの芋虫のようにも見えた。

 空へと曝された黒い塊は、これ以上暴れることはなくおとなしくなった。かといって、ググゥの足から手を放して地中へ帰っていく勇気もなさそうだった。足枷のようにぶらさがっているだけだった。

 もはやググゥの飛翔を邪魔する者はない。

 加速をつけて金色の龍を追いかける。


 視界に飛び込んでくるものは金色の龍の後ろ姿だけだった。

 ググゥはジェット機のように、いや、斜めに打ち出された花火玉のように空を割って突き進んだ。高尚なカラクリを搭載したジェット機のような力強さと安定感はない。空気を鳴かせ、片道分の推進力しか与えられなかった不器用な火の玉。ググゥの飛翔は、まさにいつ破裂するか分からない危険をはらんだ花火玉そのものだった。

 金色の龍との距離は確実に狭まっていく。夕焼けを舞う小さな蛇だったようなその姿も、今では尾根を這う道路を連想させるような長い姿として視界に収まっている。

しかし、あの黒々と艶めかしい道路と同様、長い背の先……頭部はまだ見えない。空を支配している金色の龍は、今まで目にしてきたいかなる生きものとも比類できない巨大さだった。まさに空に現れた一本の道だった。

 あの龍に追いつきたい。

 それ以外に浮かぶ言葉はなかった。追いついて何がしたいのか、その先は考えられなかった。口や喉の渇きも気にならない、むしろ忘れていたほどだ。眼球は微動もせずに龍の背一点を見据え、全身の神経は昂りながらも気流を読み解いていく。そして、その情報を筋肉の細部にまで漏らすことなく伝え、最短となる気流の道筋を導き出す。

 脳裏は真っ白だった。肉体よりも先に燃え尽きてしまったのかもしれない。今ならば、あの伝説の龍よりも速く、そして高く飛ぶことができる。その確かな手応えがあった。

 近づけば近づくほど金色の龍は巨大で眩く、その美しさに目を奪われた。想像を一番凌駕していたのはその美しさだった。全身の鱗は総て幾何学に形が整っていて、汚れているものや欠けているものは一枚もない。それだけではなく、絶えず金粉のような粉を撒きながら周囲をほのかに煌めかせている。蕩ける夕焼けの赤い陽を浴びても灯篭のように輝いて見えたのはこのせいだったのだろう。胴も太くてたくましかった。その気になれば小さな島くらいは巻きつけて海中へと沈めることができそうだ。

 とにかく必死だった。

 さすがにそろそろ息もあがってくる。

 死んでも構わない。

 自制の枷が外れ、死にもの狂いだった。

 鼓動は鳴り止まず、針は総てのメーターを振り切っていた。肉体は制御盤が壊れたらしく上気して加熱し続ける。もはや心も身体も後戻りできないところまで達していた。おかしなことに、おかしくもないのに、今、真剣であったにもかかわらず、自分が不敵にも笑ったように感じた。


 ググゥは、

 思いっきり妻の、

 その名前を、

 叫んだ。


 夕焼けの熱は空へと溶け出し、遠くの大気は熱せられた硝子のように揺らめいている。はっきりとは見えなかったが、金色の龍のそばを、一羽の白い渡り鳥が飛んでいる姿を見つけたような気がした。いや、確かに金色に煌めいている光の粉に紛れて、白い姿が見え隠れしていた。

 頬は夕焼けの熱を感じて熱い。気がつけば、もう視界に黒い雪は降っておらず、雲はすでに眼下に広がっていた。陽を浴びた赤黒い雲海は大海原にしか見えなかった。

 少しでも早く追いつかなければならない。空気の抵抗を大きくしないように首を伸ばしたまま、そっと上空を仰いだ。

 濁りも淀みもない。群青色の天蓋に包まれ、いくつもの星がありのままの姿で輝いている。初めて体験する世界だった。空は無を感じさせる宇宙のようで、晴れ渡った日のものでも、嵐が去って大気の塵が洗われた後のものでも、真冬の凛と張った硝子を思わせる空とも異なる。眼下には赤く染まった雲の海が広がり、上空には海洋を思わせる深い青が果てまで満たしている。空と海が逆転してしまったような不思議な感覚に眩暈を起こしてしまいそうだった。

 どこまでも静謐だった。空気を割いて突き進む翼の僅かな音しか聞こえてこない。翼を動かさずに寝転がるように漂うことができたのならば、あまりの静寂に耳鳴りを起こしていただろう。空を遮っているものはなく、このまま宇宙へと繋がっている。金色の龍の背を追って、どこまでも上昇していけそうな気がした。そう感じられるほど、空との間に立ち塞がっている壁は何もなかった。

 あと一歩のところだった。

 視界が沈んだ。

 もう一度妻の名前を叫ぼうとした。

 その時だった。

 大きく息を吸い込んだとき、突如全身の力が抜けてしまったのだ。翼のゼンマイが切れた。瞼も重たくなり、それさえも支えることができそうになかった。

 細くなる視界、雲の海が金色の龍の姿を隠していく。

 再び黒い雪が降り始める。

 失速し、重力に包まれて墜落していった。

 このときになって、両足にしがみついている黒い塊の違和感がよみがえった。握りしめられている足が、ぶらさがっているだけの黒い塊が、鉛以上の質量に感じられたのだ。まるでそいつが心の油断を待ち構え、地上への帰還を狙っていたかのように。

 空気の抵抗が最大に達したとき、耳鳴りが脳裏まで侵し、意識を失いそうになった。闇と無に呑み込まれてはいけない。懸命に眼を見開いてみる。けれども視界は白くぼやけていく。

 完全に白く消失してしまう直前、かつての妻が優しく微笑んでいる顔が大きく広がった。脳裏いっぱいに、もしくは空いっぱいに。今では埃を被った肖像画に閉じ込められた微笑みだ。その存在を遠くから眺めているばかりだったのに。一瞬だけ波紋のように咲いた鮮やかな像は、すぐ隣に座ってくれているような温もりまで届けてくれた。記憶の奥底にしまわれた懐かしい匂いも微かに漂わせて。鼻孔をくすぐった匂いは甘く感じられ、なぜか真っ白なケーキの空箱を連想させられた。

 なぜケーキの箱なのだろう?

 最後に浮かんだ疑問。その答えを見つける力も時間も残されていなかった。


――ケーキの箱には、いつだって楽しいことや幸せが詰まっている。


 連想させられた白い箱は空箱だった。甘い匂いは、その姿から創られただけのまやかしなのだろうか。

「白い箱の世界……」

 掠れた声が漏れる。

 その空っぽの箱の中を、僕は延々と飛び続けていたのだろうか。だから気がつかないうちに内側の壁にぶつかって、落下する羽目になったのかもしれない。となると、金色の龍は、遥かな空の果て……絶対に手の届かない箱の外に存在していたことになる。


――そういうことなのだろうか?


 水しぶきが高くあがった。

 ググゥは花火となって散ることなく、天地を結んだ鉄砲玉となって海中へと沈んでいった。

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