第19話 節理の畔
結論から述べてしまえば、ググゥとリリィは道に迷ってしまった。入口と出口が決められているはずの一本道を。歯車の軋みに似た不安を抱えながら歩き続けてしまうことになったのは、この北側の新道を選択した時点で決まっていたことなのだろう。
大蛇の背が導こうとしている世界。道という先導に油断してしまったのかもしれない。その隙につけ入るように大蛇の背は様々な景色をふたりにみせた。廃車などこの世への置き土産が散乱している彼岸の国、仙境さながらの谷間を渡る高架橋、それにめまぐるしく進行方向が変わるヘアピンカーブ。
激しい雨が去った後の安らかな天気雨。その空模様は、現世から離れた心象世界の入口だった気がしてならなかった。
踏み込んだその幻想は、この山々が太古から秘めていたものなのか、冬眠から目覚めた大蛇が抱えていたものなのか、憔悴して防備が緩んだリリィのものなのか、今となっては確かめようがなく、覚めても憶えている夢のような手応えしか残っていない。それらいずれにせよ、ググゥとリリィは、自分たちの未来を雨越しに垣間見てしまったように感じた。
そのことについてリリィと話をすることはなかった。夜を重ねてもこびりついたままだった。揺るぎようのない現実だったのか、大蛇が仕掛けたまやかしだったのか、日を重ねるごとに曖昧のまま膠着していった。
しかしふたりの心には未来の形として焼きついたことは確かだった。何もなければ鏡に映らない。心に映ったということには、そう感じさせる要因が必ず内に存在していたからなのである。それに呼応したのだ。ふたりがあの雨宿りのことを後に口にしなかったのは、それを嫌っていたからだった。歩みだけは止めなかったが、歩き続けている目的から目を背け、未来に迷い、そして今を見失っていた。その戸惑いから逃れる方法を、誤魔化し合いながら無意識に探していた。
実は、突破口はいつもすぐ隣にあった。振り返れば当たり前の単純なことだった。しかしながら実際は、行動を起こす直前までその選択肢は首さえももたげなかった。
今を振り切るように、未来を捻じ曲げてしまうように、ふたりは思い切って大蛇の背からの離脱を試みたのである。
ガードレールをくぐり、雑木が茂った斜面を駆け降り、そしてここにたどり着いた。
道からはみ出そうと選択したときには、さすがにふたりは総てにおいて消耗しきっていた。行き先を見失ってからの行程は、足を一歩前に出すだけでも想像以上の疲労が伴った。
窪みから見守り続けた天気雨も上がり、再び歩き始めたが、一向にあの川に近づいている気配は感じられなかった。景色は変わらず、標高は三度高くなっては再び降る。
川のせせらぎが聞こえなくなってどのくらいになるだろうか。とてもあの川に戻れないだろうとググゥが感じ始めたとき、左手の崖の下から水の流れる音が聞こえてきた。
それからは、その音が途絶えないだろうかと慎重に耳を傾けながら歩き続けた。これまでのように川を横目に眺めながら歩けるようになることを祈りながら。つまりはあの頃に戻れるように願いながら。
うんざりとするほどの弧を描いた後、水の音が一際大きくなった。思わずリリィもガードレールから身を乗り出して様子を窺ってしまったほどだった。
眼下は深い雑木に埋もれていて、もどかしいほどに見通しが悪かった。それからまた歩き始める。少しでも下方の景色が変われば、競うように身を乗り出して確認を繰り返した。
やがて雑木林の割れ目から沢が覗いた。陽を受けて白く輝いている。
ググゥもリリィも言葉を発することなく、ただ顔だけを同時に見合わせた。
目と目でお互いの頭の中を理解すると、合図とばかりに大きく頷き、まだ新しくて傷のないガードレールをくぐり、足場を確認した。
幸いに足場は安定していて、傾斜も何とかなりそうな角度で留まってくれていた。少なくとも直角ではなかった。
湿っている落ち葉と枯れ枝が、幾つもの季節を越えて一面に積もっている。それらに足を取られながらも駆け降りていった。勢いがついて一度走り出してしまうと、もはや意図的に止まってみせることは不可能だった。雑木の懐は薄暗い。足元からは腐葉土の匂いが鼻腔をくすぐる。その本当の大地の匂いにもググゥは慣れ、落ち着きさえも感じられるほどに心身は順応していた。
道路から見下ろして想像していたよりも雑木の背は高かった。その先には青い空が宝石のように細かく散らばっていた。淀みも濁りもない。不純のない青は無表情そのもので、空は遠い存在のままとして見下ろしている。ただ、その濃縮された青空を模っている枝葉の造形と、逆光を受けて黒く沈んだ色彩のコントラストは、完璧なまでに美しかった。
空を見上げながら駆け降りてみると目が眩んだ。上空へと吸い込まれてしまいそうになる。遠くの枝先に焦点が合い、鮮明に目に飛び込んでくる。空は間違いなく高く、そして深いところで広がっていた。
これまでならば、お互いの手を取り合いながら慎重に斜面を降ったに違いなかった。足場の状況を一つ一つ確かめ、怪我をしないように。山頂を目指した登山のときはそうだった。今のように先を急ぎ、転がっても構わないというような無茶な行動はしなかった。
ググゥとリリィは、くすぐったい浮遊感に似た手応えのない世界に身を投じていた。お互いの頭で描いていたものは違っていたのかもしれなかったが、そのことは口にしなかった。今はただ、雑木の薄闇を抜けた先の景色を、輝いている沢にたどり着くことだけを純粋に楽しみたかった。
笑い声が誰にも見向きもされない雑木林に響く。
リリィは声を上げて笑っていた。
ググゥもつられるように声を上げて笑った。
ふたりとも酩酊したようにより低い位置の幹にぶつかってはもたれ、弾かれながら水の音が大きくなるほうへと駆けていく。足を休めることはしなかった。
やがてググゥとリリィは、薄暗い木陰から夏の陽射しに溢れている川原を視界に捉えた。
いつしか足場は腐葉土から岩場と変わっていた。
岩を選んでは飛び移り、水へと近づいていく。
ふたりともほぼ同時に日向の大きな岩を選んで飛び乗った。
木陰から飛び出し、眩しくて思わずしかめ面になる。
その岩は、ふたりで両腕を広げて寝そべってみても充分すぎるほどに広かった。これ以上、岩を飛び移る必要はなかった。
揃って岩の端まで歩くと、空の青と自分たちの影が落ちている川面を覗き込んだ。息を切らせながらもまだ笑いは治まらなかった。そのことを水面に映った自分たちの姿で改めて確認した。
呼吸が落ち着くと、ようやくふたりは引き合わされるように視線を重ねた。
口元から笑みが消え、抱き合う。そのまま寝転がって、身体を押しつけ合って口づけをした。
背中の岩は太陽を浴びて熱いくらいだったが、それでもその熱は心地よかった。
水の跳ねる音が背中の岩越しに聞こえてくる。無数に弾けている水の音が、転がっている岩や山の斜面に反射し、優しい波長となって包み込んでくれる。薄く淡く、目に見えない膜となって。これまでの過酷な行程だった大蛇の背から隔離してくれた。
ググゥはゆっくりと目を開いた。
逆光で隠れたリリィの瞳があった。空から吹き降ろしてくる風は、リリィの汗ばんだ匂いを連れてググゥの羽を静かに揺らした。
ググゥは首だけを伸ばして、目を瞑ってリリィの唇をもう一度求めた。
今まで数えきれないほど口づけを交わしてきた。しかしこのときほど目を瞑る瞬間、視界が閉ざされていく瞬間、そして暗転していく世界を意識したことはなかった。柔らかい感触を確かめつつも、意識は別のところで浮遊していた。
閉ざされた視界の闇の向こうにあるものに触れてみたかった。抱き合ったまま手探りで探していた。この闇のベールを抜けた先にある答えに触れて確かめたかった。まだ旅の続きはあるのだろうか、ここが終着になるのだろうか。それとも、ここから新しい何かが始まるのだろうか、と。
ひとまずここで終わりになるのだろう。
触れることができたものはなかった。
未来は何も見えてこなかった。
「ねぇ、ググゥ」
ググゥは首筋を撫でられて目を覚ました。
「見て」
ググゥは身体を休めたまま首を起こした。
頭が少し痛い。いつの間にか眠りに落ちてしまったらしい。視界は空に馴染み、リリィは隣で膝を抱えて座っていた。
「あっち」
リリィの声に合わせて身体を起こした。
旅の目的地として定めようとしている世界は美しかった。自然が産み落とした造形美に驚かずにはいられなかった。
川は急傾斜の山間に挟まれ、崩れ落ちたと思われる巨岩がいたるところに計算されたように配置されている。この足場の岩もそのうちの一つだった。これらの岩が川の基本的な流れを定め、大小様々な岩がさらに水流の細部を演出し、いくら眺めても飽きない表情をみせてくれていた。
リリィと並んで眺めた『流民の河』のことが思い出された。河の変化はほとんどなく、どこを眺めても同じ表情として心に残った。流れ者である自分を無言で受け入れてくれているように感じられ、その他人行儀の様に救われたのだ。
ここには二つとて同じ表情はなかった。これほど無秩序に……けれどもどこか統制のとれた……自然の摂理に則った景色は、生きものの勝手な営みでは生み出せないだろう。自分たちも無秩序なはみ出し者として遡行し、ここまで歩いてきたと考えてきたが、実は自然の摂理の名のもとに、この地に呼び寄せられただけなのかもしれない。
ふと、ググゥは川に空を見つけた。
川の中央部は穏やかだった。おそらく水深が深いのだろう。鮮やかな青が深くほのかな光を放っているように川底に溜まっていた。閉じ込められた空のようで、水の中にも空があった。
「ねぇ、あっち」
リリィは膝を抱えたまま全身を前後に揺すり、顎を突き出して意中の方向を示していた。
つられてその方向へと視線を向けてみたが、具体的に示しているものを見つけられなかった。山頂からリリィが同じように指差したときは、目印が何もなくて分からなかったが、今回は目印になりそうなものが多すぎて選び取ることができなかった。
それでもすぐに聞き返すようなことはせず、息を深く吸ってリリィがみせたいものを探してみた。
見渡せば見渡すほどに絶景だった。リリィが指差しているものは何なのだろうか。川を挟んだ両側の傾斜の一部は切り立った岩肌で、僅かなすき間からは木が生えていた。窓から腕を伸ばして風を掴もうとしているように。谷間に転がっている岩の形も多様だった。風化して下部が蝋燭のように細くなっているものや、膨らみ始めた四角い焼き餅のような形をしているものもあった。山のどこかには歩いてきた道路が這っているはずだったが、せり出している緑に阻まれてガードレールの一部さえも見えなかった。
「違う、違う、耳を澄ませてみて」
リリィは大げさに手のひらを耳の後ろに当ててみせる。
「ね?」
ググゥはリリィに連れられて岩を降りた。
再び歩き始める。上流の方へ、リリィが顎で示した方へと。
遠くでぼやけるように聞こえていた音が、よりはっきりと聞こえてきた。次第に音も大きくなる。水の砕ける音。それはまた波の砕ける音とも違った。リズムはなく、途切れることがない。どうやらその音を目指して歩いているらしい。川原をこうして歩くことは久しぶりだった。昔の記憶が蘇って嬉しかった。記憶は休んでいただけで死んでいなかったのだ。転ばないように慎重に足場を選ぶ。その作業一つ一つも楽しい。
川は大きく右へと曲がる。視界を遮っていた大ぶりな枝の下をくぐり抜ける。
「ほら、ここ。ここがきっと上の道路を歩いていたとき、下から聞こえてきた水の大きな音じゃないかしら。ググゥが眠っている間に、ちょっとだけ先回りしちゃった」
先ほどまでの川の表情とはまた違っていた。
山が崩れたのだろうか、散らばった岩によって水流は遮断されている。堰き止められて川幅は広がり、ばらばらに向いた滑り台のような滝と、滝未満の急流がいくつも築かれていた。その先の上流はここからでは確認できなかった。川幅は再び狭くなり、ここと似たような岩の陰に隠れている。
雑木を駆け降りていたときには、このような景色が待ち構えていようとは思いもしなかった。時折強く吹き抜ける風が、この水の音をさらい、大蛇の背まで運んでいたのだろう。
「私、水の音って好きだな」
「どうして?」
ググゥは足場の岩を見つめたまま聞き返した。この岩は長らくこの場にあり続けたのだろう。水に浸かっているところには苔が息を潜めていた。
ときどきリリィは渡り鳥のような言葉を口にする。今ググゥが立っている場所は、昼前でも陰になっているせいもあり、涼しかった。空気も水の匂いがする。海のものでもなく、下流の穏やかな河のものでもなく。岩に砕け続ける水の匂いは、なぜか白色を連想させられた。
「遠くから微かに聞こえてくる水の音は、目を閉じて耳を澄ませば、水のある景色が広がってくる。辛いときには密かな逃げ場所になってくれる。大きな音は、周りの世界を遮断してくれて、何も悩まないでいられるから」
リリィはググゥよりも数歩先、岩の端に立って腕を伸ばしている。垂直に落ちてくる水を手のひらで受けていた。
ググゥはリリィの足元まで移動して目を閉じた。
「この水は、歩いてきた川を降って、ゆっくりと海に注がれていく。同じように他の大陸からの水と合流して、海流という大きな川になって世界を巡るんだろうね。歩きながらずっとそんなことばかりを考えていた」
「素敵ね、私もそういう想像が好き」
水の打つ音に集中してみる。無心の頭に思い出されたのは、雑木を駆け抜けて岩に飛び乗った後にリリィと口づけをしたときのことだった。ほのかな温かさを伴って柔らかい感触が再生された。息を吸い、さらに求めようとしたとき、その感触は粉砂糖のように消えてしまった。脳裏は何も蘇らずに閉ざされていく。手の届かないもどかしさだけを残して。闇の、その奥の何かを手にすることはやはりできなかった。
「水は世界を放浪し、旅に疲れたら蒸発して空まで昇り、雲の戯れとなって、やがて雨という涙となって山に戻ってくる」
自然の摂理として正しいのかはわからなかった。閉ざされた脳裏に水の打つ音だけが響いている。途切れることのない水の音がもたらした想像は、『再会』を連想させる言葉で静かに結ばれた。
「そっか、水も空を飛べるんだね」
「そうなるんだろうね。あの窪みで雨宿りをしながら眺めた雨。あの雨はすごかった。まるで空が深い悲しみにおののき、戸惑って、そして癒されない心を持て余しているようだった。今思えば迷子になっている子供にも似ていたかな」
ググゥは緩慢に瞼を持ちあげた。川面で無邪気に乱反射している光が眩しかった。
「あのときは、誰かの……リリィの心象世界へ迷い込んでしまったようにも感じた」
静かな告白。
「ググゥは変なことばかり言うのね」
「そんなことはないさ」
後ろからふわりと抱きしめられた。
「それにね、さっきの言葉と今の言葉、すごく私の心の深いところまで届いた」
リリィの濡れた腕の冷たさが首に伝わる。その刺激も治まる頃には温もりが沁みるように広がっていた。さらに少し遅れて春先を思い出させる花の柔らかい匂いも。大好きな匂いだった。結局、その匂いをもった花を見つけることはできなかったけれども。
「私はずっと失敗ばかりを繰り返してきた。誰かを幸せにしたり、楽しい気持ちにさせてあげたりすることができなかった」
「それは僕も同じさ。きっと不幸にも似た者同士なんだよ」
このとき、ググゥはなぜか思った。こうして抱きしめられながら目の前の川の流れを一瞬でも止めることができたのならば、世界中のありとあらゆる摂理を覆してみせることができるのだろう、と。
「ググゥ、私はあなたのことが好き」
「分かってる、痛いくらいに」
この川の流れと同じように、きっと溢れ出す涙も止めることはできないのだ。
そっとリリィの腕から抜け出して振り返った。
「そろそろ泳ごうか」
川の流れを止めてみせることができなかった以上、すでに回り始めた運命の歯車も止めることはできない。この川に飛び込んで泳ぐことになれば、ここが『陸の孤島』でリリィと出会ってから歩き始めた旅路の終着地として刻まれることになる。長いようで短かった、短いようで長かった旅の。川はまだまだ上流へと続いている、けれども。
ググゥはリリィの目元を優しく拭ってあげた。
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