第18話 大蛇と天気雨(後)


「ねぇ、この道は嫌だった?」

 気がついて顔を上げたとき、そこにはまだリリィの崩れてしまいそうな疲れた顔があった。不安を煽るほど長く回想に耽っていたのかもしれない。

「いや、そんなことはないさ。歩くことって、一緒に歩き始めるまでずっと不自由なことばかりだと思いこんでいた。でも、想像していたよりも自由なんだな、と思い直していたところさ」

 再び歩き始めた。

 あの長かった雨は、どれほどの想いを地上に降らせたのだろうか。

 雨水は太陽に熱せられて青空へと還っていく。洗い流した想いを再び回収して懐にしまいこむように。誰も抱えた悲しみからは逃れられないのだろうか。総て川へと、そして海へと流してしまえばよいのに。

「そうなの? あの話を気にしているのかと思った」

 間近で覗いてもやはりリリィの顔色は優れていない。

「そんなことはない。それよりも少し休憩する?」

「大丈夫。私はね、きっと、もっと不自由になりたいの。何も考えずに、ただ水の中へ溺れていくように」

 リリィは、こちらの世界に来る直前、夜の色を湛えた湖に飛びこんだという。鴉のフワワを追いかけて。その話を聞かされたときのことはよく憶えている。あれはこの北側の道を選ぶことになった前日のことだった。安全そうな南側の旧道を選ぶことができた日の前日でもある。

 旅の目的は空にはない。綺麗な水に身を任せて泳ぐこと。それに先ほどの長すぎた天気雨。肝心な真実はまだ閉ざされたままだったが、少しはリリィのことを理解できたような気がした。それは必ずしもググゥの心を満たしてくれるようなことではなかったが。

 ググゥが何げなく顔を上げたとき、リリィと目が合った。

 首を傾げてこちらを見つめているリリィの目を、ググゥは真っ直ぐに見つめ返すことができなかった。


――ググゥは唖然と空を見上げたままだった。

 濁った雲があっという間に広がった。真昼だというのに薄暗くなり、雨は空に蓄積された鬱憤を晴らすかのように激しかった。足元に落ちていた影も雨で洗い流されて見えなくなっていた。

 雨音しか聞こえてこない。雑木やアスファルトを激しく叩きつけている。周囲の山がその音を反響させ、さらにくすぶっている不安をかき立ててくる。視界は十メートル先ほどしか届かなかった。打ちつける雨がいたるところで跳ね返り、白く煙っていた。

 リリィもすぐそばで立ち尽くしたままだった。

 ググゥはそっと視線をリリィに向けた。

 僅かに顎を上げ、雨を受け止めているようだった。印象的だったのは、瞬き一つしないで泣いているように空を見つめていることだった。

「雨宿りでもしよう」

「そうね、もうずぶ濡れだけどね」

 ググゥもリリィも笑って頷いた。笑うしかなかった。笑いは曖昧な気持ちを隠してくれる。

 走り始めたとき、空が光った。

 雷が空を割る。

 幸いにも弧を一つ描いた先に、雨宿りができそうな窪みを見つけた。木の根が斜面からせり出し、その下の土がえぐれていた。迷うことなくその中へと駆け込んだ。ふたりが肩を寄せ合って座るには十分な広さだった。雨脚は激しかったが、まだ時間は経っていなく、雨脚の角度も相まって、窪みの土は白っぽく乾いたままだった。

「濡れたままだと、ワンピースを汚してしまいそうだね」

「いいのよ、そんなこと」

 リリィは気にしていないようだった。

 肌を寄せ合う形で座った。触れている部分からお互いの熱が混ざり合う。雨で濡れて体温が下がったのだろうか、リリィは時折震えていた。

 雨脚は強まるばかりだった。山は稜線のあたりを空に残して白く包まれていく。雲は形を崩して巨大な波となって暴れているように見える。目には見えないが、山間では複雑な気流が渦を巻いているらしい。稲光が走ったときだけ視界は鮮明になり、目蓋の裏に写真のように焼きついた。山々が雨に流されてしまうことなくその場にあり続けていることを教えてくれた。

 ググゥはその様子をじっと窪みから眺めていた。この旅に出てから、これほどまでの天気の変容は初めてのことだった。

 時間を持て余していると嗅覚も過敏になってくる。ましてや雨に濡れない場所から空模様を眺めているばかりでは。未知の世界の匂いを知った。普段目にすることのない大樹の根と背中の壁の土の匂いを。

 ふたりはひどく疲れていた。歩き疲れて、その上体温の熱もかなり奪われた。ググゥとリリィはお互いに体を預けながら眠りに落ちた。

 浅い眠りを何度か繰り返して、ふたりは雨が上がっていることに気がついて目を覚ました。直感的に感じ取った静寂は、それほどまでに違和感があったのだ。

 空には軍艦のような入道雲が何隻も集結し、合間からは海を思わせる青空が覗いていた。その海から真っ直ぐに陽射しが地上へと落ちている。目の前のアスファルトにも、ガードレール越しの雑木の葉にも、遠くの濃密な緑が群生している山のあちらこちらにも。雨上がりの景色は、新しい朝の幕開けのように眩しく輝いていて、窪みには生温かく湿った空気がこもり始めていた。

 その新しい朝を迎えた景色を、リリィも背を丸めて膝に顎を乗せながら見つめていた。

「あと、もう少しだけ」

 それだけを言い残して、リリィの長い睫は細かく震えながら伏せられた。

 ググゥは番人のように隣で起き続け、無言の鐘を鳴らし続けた。

 不思議と眠りたくなかった。

 リリィの眠りを静かに守ってあげたかった。

 しばらくして再び雨が降り始めた。

 おかしな雨模様だった。

 空の軍艦は次々と出航していく。青い海は頭上で広がっていく。視界も次第に明るく回復してきた。なのに、雨は静かに降り始めた。風はなかった。いつから凪いでいたのだろうか。記憶には残っていなかった。雨は上品なレースのカーテンのように陽射しを柔らかくする。無数の細く繊細な雨脚が、天と地をつなげるように真っ直ぐに垂れていた。

 その景色は、ググゥに心の奥の風景を呼び起こした。というよりも、むしろその景色に召喚された感覚に近かった。

 暗い室内から明るい窓の外の景色を臨む。外は晴れ渡っていて、豊かな緑の針葉樹林が続いている。その窓辺では白いレースのカーテンが風にそよいでいた。

 リリィの瞳の奥を覗いたときに見せられる幻想の風景だった。

 雨は激しくなる様子も止む気配も感じられなかった。静かに細すぎる絹糸を垂らしたままだった。変わっていくのは空だけ。青空だけが広がっていく。

 不思議なことは他にもある。天気雨にしては長すぎるのだ。そしてその不釣り合いの様は、なぜかひどく悲しく瞳も心も濡らした。

 限りなく控えめな雨。耳を澄ましてみても雨音は聞き取れなかった。地面に吸い込まれていくように無音。目を瞑れば雨の気配を感じられなかった。

 陽光は雨の白糸を透いて瞳孔に届く。

 目を開いていても雨の存在は希薄だった。青空とはあまりにも似つかわしくない情景で、空が無言で泣いているように思えてならなかった。その悲しみは控えめで、青い色に溶け込んでいて気がつかない。もしくは明るさにかき消されて見えていない。しかし消えてしまうことはなく、必ず存在し続けているのだ。雨が降っていない青空にも悲しみがある。そのことに気がついた。この雨の気持ちが、空の気持ちが、なぜか染み入るように心に降り注いでくるのだった。悲しみは痛いほど伝わってくるのだが、どうしてあげることもできない現実が、さらに切なく、心を濡らす。

 本当に静かな時間だった。

 ググゥは想像した。

 まるで誰かの、何かの、心象風景の世界に取り込まれてしまったのではないのだろうか、と。

 それは言わずもがな、隣で眠り続けているリリィの。

 リリィの顔は憔悴し、腕や脚までも蒼白いような気がした。そう感じるのは、壁の土との対比からだろうか。もしくは差し込む陽射しの影響のせいだろうか。高低差のある道を連日歩き続けてきた。疲れが溜まっていて当然。それに備える間もなく大雨に打たれた。そもそもこの道中が醸す陰鬱な雰囲気に生気も奪われていた。今となってこの北側の道は誤りだったと思い知らされた。ただでさえ自動車の往来は乏しいのに、大雨が降り始めてからは一台も目にしていない。交通規制が敷かれたのかもしれない。民家はとうに見かけなくなった。見渡す限りの山には誰も住んでいないだろう。繊細な雨模様と突き抜けている青空。地表は濡れて煌めき、鮮やかな緑の葉はより生き生きとして映る。その幻想的な自然に包まれた景色を、艶めかしいアスファルトが、背を濡らした大蛇のように這いずりながら視界の外へと延びている。目に映る不釣り合いな矛盾の総てが、リリィの抱えている謎めいた部分と結びついている、もしくはそのもののように思えて仕方がなかった。

「リリィ……」

 決して起こすつもりはない。起こさないように呟いてみた。僅かに身体も揺すってみる。

 青い窓を開かせたまま、雨は途切れることなく降り続いている。

 本当に、本当に長く、そして安らかな雨だった。


 いつしかリリィも目を覚ましていて、膝を抱えながらふたりで空を見上げていた。ググゥがリリィの眠るところを見届け、番人として傍らで息を潜めてからすでに数時間は経過していた。

 リリィが目を覚ましてからまだ一言も声をかけていなかった。

 言葉を口にする代わりに、何度もリリィの横顔を覗いてみる。

 やはり空模様と同様に不釣り合いな印象を受けた。真剣な眼差しで空を眺めているのだが、口元や頬には緊張感はなく、どこか無防備さを曝け出しているような隙があった。これまではどこか心の奥を覗かせない緊張したものが多かった。

 その表情の隙間を見つけた瞬間、ググゥは思わず息を止めてしまった。

 そうやって少しでも時を止めてみせようとしなければ、このあまりにも絵画的な神秘さが、リリィの内側から霧散してしまうように感じられたからだ。この奇跡に近い表情をいつまでも見つめていたかった。普段ならば、何も考えずにそうしていたことだろう。そしてその不自然な視線を悟られてか、リリィに呆れられるのだ。しかし、今は無心で眺めていたい願望よりも、さらに心を突き動かされる衝動に駆られていた。今ならリリィの心の奥底まで飛び込んでいけそうな気がしてならなかった。知ることができなかったリリィの深遠。その底で息を潜めているものに触れてみたかった。この世の総ての営みを乱すことなく、静かに優しく、そして冷静さを保ち続けたままで。

 リリィの肩を抱き寄せようとしたとき、リリィの唇が動いた。

「このまま、雨はこのまま世界の終末まで降り続くのかな。水没してしまうのかしら。ねぇ、ググゥ、もしそうなってしまったら、あなたならどうする?」

「最後の瞬間までリリィと一緒にいるさ」

 雨を降らし続けているこの青空には、どのような羨望が広がっているのだろうか。ググゥは、今自分が何を望んでいるのかが分からなかった。絵空事に近い幼稚な願望であったとしても。

「でもググゥ、あなたの背中には翼があるわ。それに私だって天使の端くれなんでしょ? 突然立派な翼を授かるかもしれない」

 何が言いたいのだろうか、ググゥは聞き返そうと思ったが、言葉を呑み込んだ。受け流すように視線を空へ戻した。

 青空をいっぱいに広げてみせながらも空は泣いている。もしこの世界が頬をつねっても醒めない世界で、しかも誰かの心象風景……リリィの心象風景であるのならば、世界の中心で膝を抱えているリリィは、今、本物の言葉を紡ぎ出しているに違いなかった。感情が景色を創り、音となって聞こえてくるのは、リリィの本当の言葉。

「僕の翼はもう使い物にならない」

 そしてこの雨はリリィの心の涙。

 実は、いつも流していた?

 僕が気づいていなかっただけ?

 青空にはいつも涙があったのだ。

 リリィの顔を見ることができなかった。そうであるならば、この涙は何に、誰に向けて流しているものなのだろうか。

「でも……命に係わるような状況に追い込まれたら、飛べるようになるかもしれないわ。必要に迫られて種族は進化を繰り返してきたのだから」

「だったら、リリィを連れて、もっと高い山の頂まで逃げ延びてみせるさ」

 言葉は小さな舌の裏に用意されていた。ググゥには準備されていた言葉を手際よく取り出してみせたような気がしてならなかった。それが不快で堪らなかった。語調は力強くリリィの耳に届いたのかもしれない。しかし揺るぎないものとして心には響かなかっただろう。リリィが淡々と聞かせてくれた言葉のようには。言葉を選びきれなかった、生まれてこなかったことが苛立たしかった。リリィは本物の言葉で話している、なのに。

「気持ちは嬉しいけど、それは無理よ。あなたの翼は一人用、とても私を連れて飛ぶことなんてできない」

「リリィ、」

 リリィの言葉は冗談で茶化せないほどに真っ直ぐで、現実的な問題を突きつけていた。とっさにリリィの名前を口にし、自衛してみせるだけで精いっぱいだった。出口を見失った言葉未満の煙のような思考は、向けられたリリィの潤んでいる瞳に絡み取られていった。

「私に翼が生えたらどうするんだろう? もちろんググゥと一緒にいる選択をするだろうけど、こんな気持ちにはならなかったんだろうな」

 リリィの丸まった背中を、ググゥは優しくさすってあげた。

「翼って自由をもたらしてくれるものだと思っていたけれど、ときには不自由を強いられることもありそうね」

 ググゥにはリリィの言葉の意味するところを理解できなかった。その意味を聞いてみようと思ったが、声に変わる直前で拒まれた。

 戸惑っている気持ちが落ち着く間もなく、リリィが優しく微笑んでくれたのだ。触れている髪と同じくらいに柔らかく、いつもみせてくれる表情で。

「この雨、止まなければいいのに」

 その声も飾り気がなく優しくて、大好きだった。

「いや、間もなく止むさ」

 リリィがいつもの表情で微笑んでくれたことで、この雨は上がる予感がした。たとえリリィの顔が蒼白いままで、憔悴しきっていたとしても。

 ググゥは声にならずにリリィの微笑みに霧散してしまった言葉を集めて再生させた。

 リリィは飛ぶことを怖れている?

 空を怖れている?

 リリィの瞳の奥がみせるあの幻想の景色がその疑問に呼応した。

 薄暗い部屋。レースのカーテンがなびく窓の外には眩い陽射しで溢れ、先には美しい針葉樹林が広がっていた。

 リリィはその景色を見ようとはせず、薄暗い部屋でピアノを弾き続けていた。

 リリィは自分が幸せになることを拒んでいる。

 近づききれないリリィの存在が少しだけ遠くに感じられた。

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