第16話 指先が繋ぐもの
リリィは目覚めてから二十分近くはたいてい動かない。二言三言呟くばかりで、じっと横になったまま。このことはググゥにとって一日のうちで貴重な時間だった。もっとも静かに過ごせる時間でもあった。他のことを何もかも頭から追い出して、リリィを見つめているだけで時間は過ぎていく。
頭を空っぽにしていても、『憂鬱の微笑』が首をもたげることもなかった。柔らかい幸せに包まれたまま、ぼんやりと時間に身を任せていられる。そうしていると、朝を迎えた場所にもよるが、活動を再開させ始めた生きものの営み、人間が生み出した機械の駆動など、遠くから言葉にならないざわめきも、ありのままの形で耳に入ってくる。音楽の才能の欠片さえももち合せていなかったが、これら不揃いな音でも心地よく感じられる鈍感こそが、音に対する唯一の才能であるのかもしれなかった。
姿こそまだ見えないものの、緑に覆われた山道からは男女の声が聞こえてくる。山頂の広場の時計は午前九時を指そうとしているところだった。一夜を過ごしたベンチに座っているググゥとリリィの耳にも、それらの声は言葉となってはっきりと届くようになった。今朝の、今日一番の登山客だろう。
その声を気にも留めず、リリィの指が西の空を指した。その指先には北から南にかけて稜線がなだらかに延びている。
ググゥはつられてリリィのやや細められた視線、僅かに反り返った指先を丁寧に追ってみた。
これまでの稜線と特に変わったところはない。具体的にどこを示しているのかが分からなかった。目印になりそうな建物があるわけでもないし、花を咲かせている一群があるわけでもない。リリィの透明な視線は、羨望が広がっている空よりも低く、緑の濃い山の中腹に墜落していくようだった。
リリィは無言のままだった。
あの暗い緑が広がっている山の懐に何があるのだろうか。目を凝らしてみても、想像を巡らせてみても、やはり何も見つけられなかった。聞いてみようにも、言葉は出口を阻まれて生まれてくることを許されなかった。ふたりの頬は膨らみ、チョココルネが窮屈に押し込まれていたのだから。
ググゥは、今朝眠っているリリィの姿を思い出した。
閉じられた二枚貝のような瞼の線。僅かに開かれている唇の隆起も、うなじから背中にかけて丸まった姿勢で眠る姿も、普段はゆっくりと見つめることがないつま先の形さえも、リリィを模る総てが、途切れることのない滑らかな線で描かれていた。そのいかなる植物よりも美しい線で世界から切り取られた肌には、昨夜の戯れの痕が生々しく残っていた。熟れた果実の鮮やかさを思わせる痕もあれば、宵に馴染んだ夏草の葉に似た艶めかしい痕もあった。
昨夜、自分たちに何が起こったのだろうか。そう不思議に思う一方、未だに消えていない痕は、昨夜の出来事が、隣に座っているリリィが、『永承の砂浜』の出来事でも住人でもなく、チョココルネを頬張ることに忙しい世界の住人であることを強く実感させてくれた。何度もリリィと夜を過ごしてきたが、今朝ほど特別に感じた朝はなかった。生きていると、何度かは心に深く刻まれる最良の朝を迎えることがあるだろう。今朝は間違いなく、その数少ない朝のうちの一つに違いなかった。
「リリィ、痕は痛くない?」
リリィは首をすくめてみせてくれただけで、答えてくれなかった。やがて喉を鳴らしてチョココルネを呑み込んだ。
「ねぇ、それよりも見て。あの山の向こうで私は育ったの」
それは天使になる前の話のことなのだろうか。それとも天使になった後、『陸の孤島』で佇むようになる前のことなのだろうか。突然の展開に思考は追いついてくれなかった。
それはともかく、リリィが指差したのは稜線の向こう側だったのだ。当然ながら、ここからでは山の向こう側の景色を知ることはできない。生きた翼が背中にあったのならば、すぐにでも舞い上がってみせて、その景色を両眼に収めて報告することができただろうに。それが叶わなく想像できたことは、この山道に似たどこかで産声をあげているリリィの姿だけだった。
「リリィは故郷に帰りたい?」
「そんなことないよ」
「リリィが育ったところはどんなところだった?」
「四方とも山に囲まれた田舎町。北から南にかけて、山のところどころに銀色の鉄塔が建っていたの。その中でも北側の一本はすぐそばまで近づくことができて、そこが一番のお気に入りの場所だったわ。寝転がれるくらいの緑地がなぜかぽっかりとあったの。寝そべって空を見あげてみると、鉄塔が視界の端に入ってね、その真っ直ぐなラインが空へと続く階段のようだった。いろいろと想像を巡らせて時間を過ごしていたな」
ふたりの口の中には、甘いチョココルネの匂いが残っていた。
「ねぇ、ググゥが育ったところはどんなところだった?」
「海に囲まれた小さな島さ。岩肌の無骨な島で、切り立った崖ばかりだったけど、南側には弧状の小さな砂浜があった。島の中央には狭いけれど木々が密集していて、夏には花を咲かせている植物もあった。どこから見渡してみても海と空以外には何も見えなかったな。今でも太陽と月と星ばかりの景色をよく思い出すよ。僕の一族は海と空を渡って暮らしていたから、その島は故郷であるけれども、宿営地みたいな感じでもあったよ」
言葉を繋ぎ合わせながらかつての景色を回想した。今ではもう『祈りの島』のことを思い出すことはなくなっていた。故郷はすでに『永承の砂浜』と化していた。あの夢を境に。崖も草も砂へと姿を変え、面影を残すことなく消えた。砂浜ばかりが延々と広がり、穏やかな波が打ち寄せるばかり。その様変わりした南の島の景色も、次第に濃くなってきた灰の雪によって閉ざされようとしている。
「何だか対照的なところだね、僕とリリィが育った世界」
「そうね、私はほとんど街を出ることなく育ったけど、ググゥはその島以外で過ごした時間のほうが長いみたい。それに私は山に囲まれていて、ググゥは海に囲まれていた。きっと共通しているのは、途切れることなく続いている空だけかしら」
そう言って、リリィは空を指差した。
共通しているのは空だけではないはずだ。山に川があるならば、空だけではなく水だって世界を一周することができる。山の源泉から湧き出した水は、小川となって縫うように山を降り、大きな河と合流して湾を目指す。やがて海へと注がれ、海流を捉えて北半球ばかりではなく南半球まで巡ることがあるのかもしれない。
言葉で繋いでみせることは簡単だった。しかし具体的な工程を思い浮かべてみるには、さらに幾つもの想像のステップを踏まなくてはならない。しかも再び同じ源泉まで帰るとなると、それは不可能に近いようにも思われた。
リリィの故郷の近くで生まれた水は、無事に南の島の海岸までたどり着き、蒸発して空へと昇り、再び故郷の山まで運ばれる必要がある。途方もない。そのサイクルを満たすには、数えきれないほどの失敗を繰り返しているはずだ。実はまだ一滴さえも成功に達していないのかもしれない。
その分子レベルの旅路と比較すると、空には遮るものは何もない。地球を丸く包んでいるだけだ。空さえ繋がっていれば、風に乗って、ときには逆らうことになっても、目的の地まで飛び続けていくことができる。
やはりググゥにはこちらのほうがしっくりときた。思い返せば、空を飛べることで、『平和の象徴』の一族のコロニーからリリィが佇んでいた『陸の孤島』まで自分の意思で会いに行くことができた。
「きっと、空だけは繋がってくれていたんだ。だから僕たちは会うことができたんだ」
自分にも言い聞かせるように言葉を選んだ。羨望の溜息ばかりが蓄積された空にも、限りなく薄められた希望が滲んでいる。それは目に見えないほど淡い筋雲のようなものだろうか。手ですくって口に運ぶことができたとしても、味も匂いもしないほどに希薄であることに違いないだろう。この世界の空とすら遮断されている『永承の砂浜』では、幾ら飛び回れたとしてもこちらの世界にはたどり着けない。それにあの砂浜に佇んでいたままでは、リリィと出会うことはやはりなかったはずだ。
「ねぇ、リリィ……」
「なぁに、ググゥ……」
ググゥは名前の続きを紡げなかった。
昨夜のことが頭を過ったのだ。続きへと繋がる言葉を、胸の内に残っている何かが邪魔をしたのかもしれなかった。
昨夜、お互いにお互いを、もしくは自分で自分自身を、心の中にしまわれたままの何かを壊そうとした。その後、お互いの名前を心の最も深い場所に刻もうとした。壊そうとしたとき、しまわれたものを掘り起こさなくてはならなかった。もう一度対面せざるを得なかったのだ。その苦痛を和らげるために、麻痺させるために、お互いの肉体を動けなくなるまで傷つけ合う必要があった。
ググゥは思う。
そして、きっとリリィもそう思っている、とも思う。
僕らはこうやってよくお互いの名前を呼び合っている。
トランプ遊びのように。
手持ちのカードが少なくなり始めたババ抜きのように。
ジョーカーを避けながら。
もしくは遊びが終わらないように、あえてジョーカーを引き合いながら。
何度もお互いの目の奥を覗き込んでは、独り言のようにお互いの名前を呟いた。
ググゥには、『再生』を願う奇蹟の魔法を詠唱しているような気がしてならなかった。
ググゥとリリィは、そのまま下山することにした。
道中、リリィからチョココルネがいかに稀有な食べ物であるかということを教えてもらった。形の愛らしさから、「コルネ」と「コロネ」という名称の違いの由来まで。また、頭から食べるのと、お尻から食べるのとでは味わい方が異なるということも。どちらが頭でどちらがお尻であるのかは分からなかったが。リリィが、同族の鳥は皆同じ顔で同じ模様で、同じ鳴き声をしているのに、どうして最愛のパートナーと新しい季節に再会できるのかと訝った。なかなか鋭い視点だった。だから胸を張って教えてあげた。
「一番大切なのは匂いなのさ」
「匂い?」
「そう。いつまでも一緒にくっついていたいと思える匂いをもつ一羽こそが、最愛の妻になる」
「私の匂いは好き?」
「好きさ、もちろん」
「どんな匂いがするの?」
「ほのかに甘くて優しい花の匂いがする。実はこの山で同じ匂いがする花を探してみたけど、見つからなかった」
「それは無理ないわね。だって私は、ベタベタになった口の周りのチョココルネの匂いだもの。でも嬉しいわ」
リリィはいつもの表情で微笑んでくれた。
「その笑い方も好きだ」
リリィにはこの言葉の意味は分かっていないようだった。曖昧な表情を浮かべて首を傾げていた。
山を降り、終えて再び川沿いに戻って歩き始めた。変わらず上流を目指して。
振り返り、昼前まで山頂にいた山の全景を視界に収めることができた頃には、もう太陽は稜線の向こう側へと沈もうとしているところだった。
ググゥは疲労が重くのしかかった身体で、静かに四方を見渡してみた。
リリィとは知り合ってから、まだそれほど多くの時間を共に過ごしていない。それでも足りない時間を補うように膨大な量の言葉を紡いできた。自分たちには、この山々のように自ら競り上がりながら空へと近づこうとする力強さはないな、と思った。
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