第15話 誓いの青空

 翌朝、ググゥは独り先に目を覚ました。ベンチから少し離れた木の枝に留まり、明けたばかりの空を眺めていた。

 まだ空は寝ぼけている。霞が山間に淡く立ち込めていて、山の緑も雲も薄く引き伸ばされているようだった。山頂で初めて迎えた朝は素朴で飾り気がない。風もまだ夜の冷たさを持て余し、さらりとしているものの適度に水分を含んでいる。

 『祈りの島』で迎える朝はもっと賑やかで華やかだった。視界を遮るものはなく、見渡す限り海が広がっていた。山の緑は朝陽を静かに吸収して陽を和らげているのに対し、海の青は太陽を全身で表現するかのように煌めいていた。

 寝起きには、その宝石のような朝陽がいつも眩しかった。目を細めて慣れるのを待ったものだ。その間は波の音に耳を傾ける。そう、『祈りの島』の朝には波の音があった。そこも大きな違いだった。それに波は遠くの海原の匂いも運んでくれた。山の風ほど夜の名残を感じられない。呼吸を繰り返しているうちに夜の気だるさを洗い流してくれて好きだったが、囁き声のような山の朝の微風も心地よい。鎮静作用があり、夜の情念を洗い流すのではなく、そっと胸の奥へと沈めてくれる。不思議な例えになるが、海の風よりも空の匂いがするような気がした。それは、海よりも空に近いからなのだろうか。

 このような気持ちにさせられるのは、昨夜あのような形でリリィと抱き合ったことも影響しているに違いない。『祈りの島』での孤独な日々、リリィと出会ってからの出来事。総てのことが濁流となって心に押し寄せた。そのまま溢れ続け、天蓋まで駆け上がって夜を覆い尽くした。

 鎮静作用を伴った山の風を大きく吸い込んだ。

 しばらく息を止め、身体と心の内に溶かす。昨夜の疲労が残る肉体の重さを感じながら、登頂したときのリリィの言葉を反芻している自分がいることを改めて認識した。


「空にはいつだって羨望が広がっている」


 その言葉に隠された真意を探る術はあるのだろうか。言葉として紡ぎ出されなかった思い。リリィは、確かに、何かを、伝えようとしていた。声にならなかった声を探すことは、裏返しにされたままでジグソーパズルを完成させるようなものだ。表の絵こそ見えないものの、ピースは総て目の前に広げられている。一つ一つの形は目に映っているのだ。絵を確認しなくても与えられた条件の中で注意深く組み合わせていけば、完成させられるはずなのである。

 もし完成させることができたのならば、表にひっくり返してみたとき、どのような絵や景色が現れるのだろうか。


「空にはいつだって羨望が広がっている」


――そう、僕たちはいつだってその羨望の影に怯えている。


 かつて愛した妻は東の空の彼方へと消えていった。

 妻は見つけたのだという。

 空を支配している金色の龍を。

 そして心を奪われ、金色の龍に人生の総てを捧げることを決めたのだという。

 思い悩んだ末の決断だったらしい。それは一族の掟に背くことになり、これまでの総てを敵に回すことが分かっていたとしても。

 胸の内を打ち明けられたとき、妻を無理に引き留めようとはしなかった。軽く目を瞑り、途切れがちに続ける妻の言葉を、ただ黙って聞いていた。悔しいことに、反対しなかったのは、その気持ちを充分すぎるほどに理解することができたからだった。

 最愛の者が、ウミガメやトビウオであったとしても、ましてや動くことさえしないハイビスカスであったとしても、ググゥは、命が果てるまで大切な者を守って愛し続けると固く誓っていた。太陽に、青空に、雲に、嵐に、夜に、星に、月に、珍しい形の岩に。それに、二つとて同じものがない砕ける白波に、芽吹いたばかりの岩間の名のない草にも。毎年迎える春に、夏に、秋に、冬にも。言葉を話さない総てのものに。祝福や賛同なんて要らなかった。誓いを黙って聞いてもらえるだけでよかった。ただ、妻が選んだ相手が、金色の龍という伝説にしか登場しない存在だったことが、胸をひどく締めつけた。

 金色の龍は空を渡る鳥の一族の誰もが憧れる存在。現存している渡り鳥で見つけたという話は聞いたことがない。勝ち目のあるような相手でもなかった。何よりも、張り合おうと競うことすら叶いそうもなかった。

 別れる前夜、妻は一晩中つき添ってくれた。痛々しい時間を、三角定規と分度器を使って正確に二等分に切り分け、ふたりで分かち合えるように。妻は、あなたがこのような悲しみを背負う必要はないと言ってくれたが、この痛みをふたりで均等に刻みつけることが必要に思えてならなかった。もし別れた者と再会できる可能性が残されているのならば、痛みの重さを同じだけ感じて、同じ量の涙を流した者だけに許されるのだろう。なぜか直感的にそう感じ、その直感に従うことに決めた。それが再会を導く正しい答えはおろか、方向性さえ合っているかどうかの確信もなかったが。紅茶に沈んでいる角砂糖よりもはるかに脆い可能性に賭けたかった。

 明け方、まだ夜の色を残した東の空を目指して妻は飛び立った。

 次第に小さくなっていく後ろ姿に、一族の誰もが金切り声と翼をはためかせて非難を浴びせた。総ての者がググゥの味方だった。その様子を北はずれの崖から見つめ、さらにやりきれない気持ちにさせられた。この一族において、妻のことを本当に理解することができたのは自分だけだと今さらながら思い知らされ、なぜ最後まで守ってあげられなかったのかと後悔した。もし妻と同じ立場であったのならば、迷わずに同じ選択をしただろう。ただ深く愛したのは同じ渡り鳥の一羽で、妻が恋したのは伝説の金色の龍だった。たったそれだけの違いだった。妻も当たり前の大切な感情を、偽ることなく真っ直ぐにぶつけたにすぎなかった。

 その日の夕方、ググゥも一族の群れからの離脱を決意し、西の空へと飛び立った。一族は寝たふりという無言の見送りで、ググゥが一族から離れることを許した。

 妻は夜の名残が滲む東の空を、潮風に逆らいながら遥か上空を目指して羽ばたいた。

 ググゥは夜が広がり始めた西の空を、潮風に身を任せて水平に滑空した。


「金色の龍と仲良く暮らしているのなら、そのうち風の便りでもください」

「ええ、楽しくやっているかは分からないけれど。あなたとは十年後に出会えていたら本当に良かった。もしくは何も知らなかった十年前に」

「何かあったときは必ず迎えに行くよ」

「ありがとう」


――最後の言葉は、確かこんな感じだった。


 空にはいつだって羨望が広がっている。

 青空は、二度と手を離すまいと掴まえていた者までも無言で連れ去ってしまう。その影を追う者にとっては、空は息苦しいだけの無色透明な壁に変わる。

 ググゥは青空に浮かぶ月を見つけた。

 あの半透明の美しい形をした三日月。あの蒼白い幻影のように浮かんでいる月の裏側で、かつての妻は今でも金色の龍と仲良く暮らしているのだろうか。存在感の希薄な朝の月は、冗談でも笑えないほどに遠く、そして高いところから見下ろしている。そこは、おそらく幾百もの夜を飛び越えてもたどり着けない、果てよりも先の世界なのだろう。


「月の裏側のクレーターの真ん中に、ふたりだけの終の棲家を建てよう。二階建ての四角い小さな家で、屋根には立派なアンテナをつけるんだ」

「じゃあ、広すぎる庭にはふかふかなソファを置きたいわ」

「いいね、アンテナで地球からいろんな音楽をキャッチして、口ずさみながら踊ろう。疲れたらソファに並んで座って、無数の星を眺めながら眠ろう」

――そんな馬鹿げたことを話した夜もあったような。


 風が吹き上がってきた。留まっている枝が不安定に揺れ、バランスを取り直して足元を見つめた。

 枝と葉の間からは僅かに小さくなった地面が覗いている。朝起きて、壊れた機械のような羽音を立てながら何とかこの高さまで飛んでみた。昔は風を利用しなくても楽に高く、もっと遠くまで鋭く風を切ることができた。飛ぶ力を失い、飛び方そのものさえも忘れてしまうと、鳥が自由に空を渡る生きものだということが、かつての自分がそうであったことが、不思議で、懐かしく思えてくる。

 視線を上げて、今の自分の姿を淡い空のスクリーンへと投影させた。

 苦々しい笑みを浮かべずにはいられなかった。その笑みの意味は分かるようで、分からないようで、やはり分かるような気がした。

 飛べなくなったことで、隣にはリリィがいてくれる。

 枝葉が視界を遮り、ここからではベンチで眠っているリリィの姿は見えなかった。

目を覚ましたとき、リリィは抱きついたまま広げた羽を枕にして眠っていた。まだ夜風は冷えていたが、少しも寒がっている様子はなかった。いつも白いワンピース姿だ。不思議といえば不思議だが、毛皮を着込んでいる天使をいうのは見たことも聞いたこともない。このこともリリィが天使の端くれであるということの、ささやかすぎる特徴なのかもしれない。洟を啜り、疲れた目元をしていることが多いけれども。まだ冷え込みが漂う季節に白いワンピース、それにどこか悲しげな表情をしていることが、後光を放っている気高い天使よりも深く馴染み、心地よかった。慈愛に満ちた瞳で見つめられるよりも、そこはかとなく広がっている悲しみを宿した瞳と向き合っているほうが。毎朝リリィよりも早く目を覚ますようにしていた。それは今朝も例外ではない。

 そろそろリリィのところに戻ろう。目を覚ますときには、いつだってそばにいてあげたい。

 風が凪ぐのを待った。

 足場が安定すると、ふわりと宙へ身を投げた。

 翼を水平に広げて真っ直ぐにリリィが眠っている元へと目指す。できるだけ滑らかな曲線を描くように。降り立つときには、白い頬に風が優しく撫でるように。

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