第14話 羨望と寓話
ググゥとリリィは揃って山頂の広場に足をつけた。他の登山客の倍以上の時間をかけて。何倍もの言葉と口づけをしては、名前の知らない花の匂いで記憶を染めながら。
ググゥは傾き始めた空を見上げ、仁王立ちのまま深呼吸をした。
遠くの、不確かな目的のみを目指してひたすら歩き続けてきたふたりにとって、この登山は初めて一緒に成し遂げた出来事だった。お互いまだ気がついていなかったが、息を吐き続けても溢れてくる幸福感は、その事実が産み落としたものだった。
落ちた影は長く伸び始めている。山頂からの景色を満喫する前に見つめ合い、厳かな儀式のように長い口づけを交わした。
青空と向かい合いながらチョココルネを頬張ってみせるという目的は果たせなかった。もう少し体力が残っていたのならば、間違いなく幸福感に駆られ、その気持ちを全身で表現するように広場を何周も駆け回っただろう。
ググゥはそのような自分の姿を空に映しては照れた笑みを浮かべ、ゆっくりと広場の端にある見晴らし台まで歩いた。そこで荘厳に広がりそうな気配のある夕焼けを待ってみることにした。
群青色の空に星が瞬き始めた頃には、あたりに人影はなくなっていた。リリィとググゥだけがベンチに座っているだけだった。
今、この広場はふたりだけの広すぎる庭になった。星空の天蓋もふたりのためのプラネタリウムになった。リリィは明るい陽射しの下でも充分に魅力的だったが、総ての輪郭が曖昧になる夜の帳では格別だった。不安を抱えた眼差しも微笑み方も、強さを欠いた立ち振る舞いや仕草も、滑らかな肌も白いワンピースのシルエットも。リリィの魅力は夜の静けさの中で花開く。
ググゥは星を数えながら言葉を漏らした。
「僕たちの渡り鳥の一族には、有名な伝承が二つある。一つ目は、夜に浮かんでいる星の飴を口に含んで溶かすことができた者には、夢から夢へと世界を自由に渡る力を授かるという話」
「そうなの?」
「本当のところは分からないさ。僕はそこまで高く飛べなかったし、無事にたどり着けた者の名前も聞いたことがないから」
夜空にはまだ無数の星が残っている。そのいずれも手に入れることはできない。輝いている星をプレゼントすることができたのならば、これほど素敵な贈り物はない。しかし、海岸で丸く綺麗な石を見つけるようにはいかない。時間をかければ得られるというものではないのだ。
「たぶんこの言い伝えの発祥はこうじゃないかな。死者など永遠に失ったしまった者への再会を願う気持ちが生んだ話だと思う。想い出の中で生きている者とは夢の中でしか会うことができないのだから」
「空にはいつだって羨望が広がっている」
リリィも夜空へと言葉を漏らした。
「そうだね」
ググゥは目を細めて隣のリリィを見やった。柔らかい曲線で作られている肩から二の腕のあたりを。頭上で未だに輝く兆しもみせない天使の環を。本来ならば白くて上品な翼がありそうな背中を。
視線を空へ残したまま、リリィは言葉を続ける。
「何でなのかな、空には何もないはずなのに。広くてただ青いだけなのに。自然と引き寄せられてしまうのよね、恋人みたいに。ん、何かおかしなこと言った?」
ググゥは思わず笑い声を立ててしまった。おかしなことは何一つない。少なくともググゥにとっては。リリィの口ぶりが、まるで鳥の一族のものであるように聞こえたのだ。鳥として生を授かった者ならば、一度は必ず空に恋し、無意味に競い、その広すぎる空間と濁りのない青に生と死を見つめる。思春期の意味不明な上昇気流に駆られる頃は特にそうだ。だから鳥たちには、一族によって細部は異なるにせよ、似通った伝説や寓話が幾つも存在することになる。
「リリィ、何かあったの?」
リリィに向けられたググゥの言葉はこうだった。この直感には、ググゥ自身が身震いしてしまうほどの確信があった。あまりにストレートな質問をしてしまったことを後悔するほどに。鳥と空の間には偽りは許されない。偽りは空を飛ぶ者を墜落させる。
「ないよ」
振り向いたリリィの表情は、誰もが恋に落ちてしまいそうな優しい笑顔だった。
ググゥには分かっていた。目が合ったその穏やかな笑顔は、自分のことを気遣ってくれていて、その裏の何かを隠しながら微笑んでくれていることを。そのことを責めてみることも問うてみる気も起らなかった。それくらいの過去は抱えているだろうと感じていたし、お互いに無邪気でい続けるには歳をとりすぎている。今は、この気遣いから伝わってくる優しさが嬉しかった。また、この優しさが、力の抜けた素敵すぎるほどの微笑みを生むことができるのだとも初めて知った。この発見と嬉しさのほうが、隠された真実を探り当てるよりも何倍も価値があった。今、この瞬間にリリィに触れたかった。少しだけ悲しかったことは、翼を精いっぱい広げてみても僅かに届かなかったということだ。
「そしてもう一つの言い伝え」
「なぁに?」
「この空の海のどこかには、金色の龍が棲んでいるという伝承。その龍は気高くて、絶えず金色の光の粉を撒きながら空を泳いでいるらしい。他者を寄せつけることはなく、常に孤高の存在。もしその龍の鱗に触れることができたのなら、その者は一族の長になることを許され、さらに口づけができた者は永遠の幸せを得ることができるのだという。でも、それは決して簡単なことじゃないんだ。幸運にもその姿を見つけることができて、そっと近づけたとしても、龍と目が合った瞬間、その者は空を飛ぶ力を奪われてしまうのさ。そのまま落下し、運よく命を落とさなかったとしても、その子孫は末代まで空を飛ぶことができなくなる呪いを背負わされてしまうことになる。つまり、空から見放されてしまうわけさ。もしこの世界に空を飛ぶことができない鳥の一族がいるとすれば、おそらくその末裔に違いないだろうね。ゆえに金色の龍は絶対的な魅力をもちながらも畏れられ、天の支配者として拝められてもいるのさ」
ググゥはかつての仲間たちからの言葉を紡いで語り聞かせた。なぜ今さら金色の龍の伝承をリリィに聞かせようと思ったのだろうか。謎だった。星空を眺めていたら言葉が自然と流れ出した。そしてこのような力のない言葉で話を結び、視線も地上へと流れ落ちた。
「僕にはもう空へと舞い上がる力はないよ」
胸を詰まらせたような歪な笑顔も連れて。
それでもリリィは真っ直ぐに見つめてくれていた。
急に照れくさくなった。心の奥底を見透かされてしまっているようにも感じた。そして少し怯えながらリリィの言葉を待った。
「いいのよ、そんなこと。空を飛べないから、だから私はあなたのことを好きになったのよ。いつまでもそばにいてくれる?」
ググゥは慌てて返す言葉を探し始めた。何かしらの言葉の一端を手で掴んで渡そうとしたときには、リリィの唇で言葉の出口を塞がれてしまっていた。何もできないまま、背中に腕をまわされて押し倒された。
その夜、ググゥとリリィは激しく求め合った。
リリィの肌が妖しく映える月影を浴びて。撒かれた夜にググゥの漆黒の翼が溶け込む宵闇の中で。ググゥはリリィの白い肌の確かな温もりと優しさを求め、リリィは無言の夜のように全身を包み込んでくれる闇の深さを求めた。
太陽の下ではあれほど言葉を交わしたふたりだったが、この夜はお互いに言葉は少なかった。重ねた肌を求めることに必死だった。言葉は、気持ちを伝えたり、お互いの存在を確かめて心に宿したりするには必要だった。しかし存在そのものを手に入れようとするには、物足りなさが残る。舌を絡ませて、溶かし合って、ぶつかり合う。お互いの境界を失くしてどこまで一つになれるかということが、この瞬間には大切だった。
リリィはググゥの首筋に噛みついた。ググゥはリリィの乳房や腕に爪を立て、あえて血が滲むほどに引っ掻いた。退屈な砂時計を何度も置き換えるように繰り返し、身体が動かなくなった後には、抱き合った形のまま眠りについた。
お互いの身体の奥に根づく何かを壊し合い、または自分自身で壊し、燃やし尽くし、その灰を底知れない夜の膨大な空間に撒き散らした。そして廃墟のように他の一切の存在が感じられなくなったとき、瞬きを惜しむほどに見つめ合った。最後に憶えていることは、お互いの背中に自分の名前をそっとなぞり合ったことだった。
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