第13話 深層の窓

 ググゥはそのままベンチで眠りに落ちた。


 眠りの世界に迷い込んでしまったことを自覚したのは、脳裏に広がった景色に感情が過敏に反応したときだった。

 夢の入り口はいつも不明瞭だ。水面を乱した波紋が落ち着く様に似ている。音はなく、注意してさえいても、その瞬間を見逃してしまうところは特に。

 脳裏の静まった水面には、砂浜の風景が、引き伸ばされた古いモノクロ写真のように広がっていた。これまで眺めていた……休憩所の見晴らし台からの景色は切り替えられていた。

 新たに広がった景色に触れようとくちばしを伸ばしてみる。

 水面は僅かに震えて応える。

 同心状に広がる波紋。

 波を目で追っているうちに、水面の向こう側、夢の世界に取り込まれていることに気づかされるのだった。

 晩年の画家が好んで描きそうな寂寞とした砂浜に佇んでいる。

 聞こえてくるのは、時間の感覚を削り取っていく漣。そのリズムは抑揚を欠き、退屈で、耳鳴りにもノイズにも聞こえなくもなかった。

 空には、画家の積年の心情を吐露したような曇天が続き、雲の燃えかすを思わせるような黒い灰の雪が彼方まで降っている。うっすらと砂浜に積もり、この寂れた色彩が古い写真を思わせる演出をしていたのかもしれない。

 何度訪れても、この砂浜には生命を感じさせてくれるものはなかった。総てが無機質で冷たく感じられる。しかし、それは感情を乱す要素にもならないため、惑わされることはなく、自分を見失わずに安穏と冷静さを保つことができた。不意に眠りに落ちてしまい、『永承の砂浜』に召喚されたのだった。

 身動きせず、目を瞑ったまま静かに呼吸を繰り返す。

 たったそれだけで、全身の感覚がゆっくりと目醒めてこの世界に順応していく。妙に五感が鋭いところが普通の夢との大きな違いだった。

 足が触れているのは木のベンチではない。僅かに重心を傾けるだけで沈みそうになる細かい砂。匂いはない。新緑の薫る風も、名前の知らない花の匂いも。見晴らし台との感覚の違いを一度脳裏で照合させ、ゆっくりと足に力を入れてみる。

 静かに目を開いてみた。

 足はやはり感覚どおり砂に埋もれている。

 目を細めたまま、漠然と景色を再び捉える。

 やはり脳裏に広がっていた景色と寸分も異なっているところはなかった。ここは夢の中。夢に取り込まれ、夢の中で覚醒している。

 『永承の砂浜』と向き合うとき、いつも張りつめた緊張感に襲われた。胸を締めつけられるような圧迫感に溺れそうになる。それは何度体験してみても変わることはなかった。

 やがてその緊張感が胸から足先へ馴染んで解け始めると、今度は呼吸をゆっくりと繰り返していられるような安らいだ気持ちが広がる。おかしなものだ。居心地が良いのか悪いのか、未だによく分からずにいた。ただ、全身が鉛のように重く感じられて歩き出す気力が奪われることと、海と空が広がっているにもかかわらず、その匂いが失われていく風のことは、どうも好きにはなれなかった。

 身体の自由を奪われ、感覚や感情が鈍化されていくような気がしてならない。それが安らぎを与えてくれる一因でもあるのだが。この地に縛りつけているものは、もしくは縛りつけてくれているものは、かつての想い出に他ならない。そのことは、もうとっくに知っている。

 きっと今、眉間に皺を寄せて険しい表情を張りつけていると思う。この砂浜は境目に存在している世界なのだろう。『緊張』と『安穏』、『陸』と『海』、『現実』と『夢』、『終わり』と『始まり』。本に挟まれた栞のような世界。

 何かを終わらせるために、僕はここに佇み続けているのだろうか。それとも新たな何かを芽吹かせるために、ここで待ち続けているのだろうか。動かずに佇んでいるということは、そのどちらかなのだろう。

 ここは心の奥底に築かれた世界。決して現実の世界なんかではない。そのことはもう充分に納得し、理解できていた。ただ、分からずにいることは、この世界からどうやって自分の意思で抜け出すことができるのかということだ。いや、それは正確に心を映した言葉ではない。何をすれば『希望』へと動き出し、何を誤れば『絶望』へと傾き始めるのかということだった。だから、僕は佇んだまま動けないのだ。そう、ここは間違いなく『絶望』と『希望』の狭間の世界でもあるのだから。


――僕はまだ怯えている?


 今回の『永承の砂浜』への飛翔は自らの意志ではなかった。予兆もなく召喚されたのはいつ以来になるのだろうか。リリィと『陸の孤島』に別れを告げてからは初めてのような気がする。足の裏から伝わってくる砂の感触もどこか懐かしく思えてくる。

 この涸れた井戸のような世界でも、以前と比較してみると変化している箇所があった。心境の変化が影響を及ぼしているのか、それともこの世界独自の時間の流れによる現象なのだろうか。

 天候が崩れていた。この世界にべったりとした曇天が広がるとは、初めて連れられたときには想像もできなかった。微かに降り注いでいた灰の雪は、濃く練炭のような色に染まり、姿も牡丹雪のように肥大している。うっすらと降り積もることで、白かった砂浜の隆起に輪郭と奥行きが鮮明に生まれた。

 青い空と白い砂浜に彩られていたかつての南国の景色はもうない。今では終末の荒野を思わせる不気味さを醸している。雪が濃くなり、エッジの効いた陰影が、晩年の画家が描いたような印象を抱かせたのかもしれない。チューブから直接ひねり出された絵具に似た濃密な雲が空に漂い、余白を許すことなく視界の果てまで塗り潰しながら続いている。陽を遮られた海は彩度を落とし、暗くくすんでいた。

 音を立てずに積もっていく雪は、何かを告げるかのように目の高さで舞う。

 そのメッセージは汲み取ることができないものの、全身の筋肉は何かが起こりそうな予感を感じ取っていた。身体は気だるく重たいままだったが、舞う雪を見つめるたびに身体の節々は収縮して身構えていた。

 空を見上げた。

 灰の雪の一片を目で追ってみる。

 高い空から降りてきて、空気の抵抗を受け、身を揺さぶりながら視界を落下していく。

 やがて消え入るように右の翼のあたりで姿を消した。

 雪とググゥの翼の色の違いを見分けることは難しかった。

 共通点は色だけではなかった。どちらも元々は存在していないものだった。『祈りの島』で暮らしていた頃にも羽に黒い色は混じっていたが、今のように漆黒一色ではなかった。どちらかというと、濃い灰色に近くてまばらだった。灰の雪にいたっては、最愛の妻が砂へと拡散したときには存在さえしていなかった。空模様も晴天そのものだった。粉雪から牡丹雪へと姿も変え、着実に降り積もっている。

 『永承の砂浜』がこの漆黒の雪に埋没し、全身の羽も鴉より深く染まったとき、何か新しい局面を迎えるのだろうか。ただひたすらに闇へと消失していくだけで、明けない闇の世界を迷走し続けることになるのだろうか。

 腰を上げた。

 錆びついたような関節の痛みを感じ、それが無意識の動作であったことを知った。

 羽を一度伸ばして後ろを振り返ってみる。期待はしていなかった。もし『希望』というものが転がっているのならば、それは目の前ではなく、忘れ物のように後ろに落ちているような気がしたからだ。思い返せば、かつて一度だけ再会を果たした妻も後ろにいた。

 しかし、何かは、確かに後ろにあった。

 砂丘と黒い雪のノイズのカーテンが延々と続く景色の中、二つの四角いオブジェが、寂寞とした虚無に呑み込まれることなく砂の海に浮かんでいた。

 ここからでは具体的にそれらが何なのかは判別がつかない。砂のなだらかな隆起を乱すように、二つの硬質なエッジが宙に浮かんでいるのだ。

 この世界に似つかわしくないそれらに向かって歩き始めた。

 足を沈める灰の雪は砂よりも柔らかい。冷たくも熱くもなかった。寒くも暑くもない。空調が完備された人工の空間で、人工の砂と雪の上を歩いているようだった。久しぶりに身体を動かしてみたことで、今まで意識されなかった感覚に神経が反応を示した。

 次第に四角いオブジェは大きくなる。

 二百メートルほど歩いただろうか、ようやくたどり着いた。

 関連性が分からない。

 全く予想外の組み合わせだった。

 オブジェは、2ドアのぽってりとした形のレトロな冷蔵庫と、古めかしい洋館に使用されていそうな木製の枠付きのドアだった。ドアは片開き式で、冷蔵庫から後方に少し離れた位置にある。右肩を下げた案山子のように突き刺さっている姿が印象的でもあった。

 記憶を漁っても見当たらない、初めて目にする冷蔵庫だった。白いボディは薄汚れていて、当然のことながらコンセントは挿されていなさそうだった。なのに、耳を寄せてみると、内部からコンデンサーらしき駆動の振動が伝わってくる。記憶になくても、色合い、フォルム、音の総てから懐かしさが感じられた。

 思わず冷凍庫の取っ手に触れてしまったが、そのまま開けてみることはなかった。突然、ひどく躊躇われたのだ。落ち着いた心からの警告はこうだった。

――保管されているものは、あれ、なのだろう。

 取っ手に触れた刹那、鋭い閃光が脳裏を照射したのだ。像が浮かび、瞬く間に真っ白に燃えて消失した。もう一度呼び起そうとしても、脳裏は真っ白の壁以外、何も生まれてこなかった。

 全身の力が一気に抜けた。頭を冷蔵庫に押しつける形でうな垂れてしまった。

 冷凍庫の中には、捨てきれずに封印した最愛の妻との想い出が眠っている。幾つにも束ね、茶紙に包んでは解けないように麻紐で何重にも縛りつけた形で。

 それらかつての宝物も、リリィと出会えたことで不要になるはずだった。実際にそうだった。しかし実際は、しまわれた想い出は凍りついたまま熱からも時間からも忘却され、劣化してしまうことなく保管され続けていた。冷凍庫という最適な保存場所を与えられ、当時の有りのままの形を保ったまま。

 再び手にして包みを広げてみれば、少しも色褪せていない昔の状態のままで対面することができるだろう。そうすれば、この寒々しい『永承の砂浜』に新しい変化をもたらすに違いない。世界を一変させてしまうほどのエネルギーをもっていることは確かだった。青空を従えた太陽が再び顔を出し、南国の姿に蘇る。陽射しを受けて大地には植物が芽吹き、鮮やかな花を咲かせる。海では色とりどりの魚が跳ね、空を旅する渡り鳥の群れがときどき陽を翳すのだろう。

 再び取っ手に触れた。

 虚構と納得している『永承の砂浜』の世界に、変化を求めてはいなかった。南国の景色はいらなかったが、それよりも、最後にもう一度だけ妻との想い出を手に取ってみたかった。

 想い出を残像のように網膜に焼きつけたかったのか、手に取ってその重みの感触だけを確かめたかっただけなのか、この衝動を冷静に分析してみることはできなかった。妻とは確かな日々を過ごしてきた。それでも今では思い出せる場面は少なくなってきている。

 実際に手に取り、自分はどうするつもりなのだろうか。腐食させるために海へと投げ捨ててしまうのだろうか。二度と目の前に姿を出さないように砂の奥へ埋葬させるつもりなのだろうか。たった一歩先の自分の姿さえも描けなかった。

 けれども、たった一つだけ胸の奥から強く直感に訴えかけてくるものがあった。

 この冷凍庫のドアを開けてみることができるのは、試してみる価値があるのは、今この瞬間にしか許されていないということだった。想い出そのものをいつまでも腰にぶら提げたいのではない。その決意はあった。あとは覚悟だった。


 金色の光り輝く粉を撒きながら薄らいでいく、かつての妻。

 汗ばんでいても優しい芳香を漂わせている、今のリリィ。

 大切なのは?

 リリィは妻の再来?

 それとも全く別の存在?

 心に宿っているのは……


 ただ、僕はそれを確かめたいだけなのだろうか。

 手に感じる重さを比較してみることで……

 天秤のように気持ちは揺れ動き、定まらない。

 吊り合わせて答えを定めようとしている自分もいたし、答えが出ないように揺らし続けている自分もいた。


――凍りついた想い出の紐を解いてみよう。


 この息苦しさから逃れたかった。

 自分の行動の答えがすでに用意されているのならば、ここで躊躇っていても仕方がない。ドアだけでも開けてみよう。

 雪で煤けた冷凍庫の取っ手に力を入れた。

 僅かな負荷がかかる。その重みが生々しく何倍にも引き伸ばされて、ゆっくりと背中まで伝わってくる。ドアの隙間から冷気が漏れ、翼を這い、頬まで忍び寄ってきた。

 思わず目を見開いた。

 覗き込んだ冷凍庫の奥は、想像を遥かに超えていた。

 冷凍庫は、さらに奥の異国へと繋がっている新しい窓にすぎなかったのだ。

 確信していた想い出の小包はどこにも見当たらなかった。仕切られた四角い空間には何もない。奥の面は鮮やかにくり貫かれていた。

 窓の向こう側に広がっている景色は、この見慣れた砂浜の世界のものではなかった。かつての南国のものでもなかった。南国以上に澄み渡った青空と、陽光を鋭く反射している氷海の世界だった。眩い光に溢れ、モノクロに閉ざされようとしているこちらの砂浜とは対照的だった。直視することができず、目も心もしかめてしまうほどに強烈な印象だった。


――あの世界はどこだ?


 冷凍庫の窓からでは視野は限られている。しかし、それだけでも雄大な氷海と青空を想像させる空間の広がりが感じられた。他に注意を引くものは何もない。山脈もなければ雲もない。建物もなければ鳥や魚など生きものの姿もない。そもそも氷だけの世界で生きていける者はいないだろう。時折顔を包む冷気は、窓の奥から迷い込んでくるものだった。


――この氷の世界のどこかに、最愛だった妻との想い出が眠っている。


 このような言葉が次第に脳裏で確信へと変わった。大切にしすぎてしまった記憶は、自分さえも驚きを隠せないほど想像を超えた先にしまわれていたのだ。冷蔵庫でも冷凍庫でも生ぬるい。永遠に溶けることのない氷の番人に守られながら。そして誰もたどり着けそうにない世界の果ての懐に抱かれながら。

 思わず深い溜息をついた。あまりに途方もない世界を目の前に突きつけられてしまっては、内側に溜まっていた空気を逃がしてあげることしかできなかった。溜息は諦めだけではなく、安堵にも似た静かなものでもあった。

 そっと冷凍庫のドアを閉めた。

 視線は、おのずと近くにあるもう一方のオブジェ、ドアに吸い寄せられた。

 そうか、先ほど脳裏で固まった言葉の根拠はこれだったのだ。このドアを開けば、冷凍庫の窓から覗いた世界の果てへと連れて行ってくれるのだろう。しかしそこまで試してみる勇気はわいてこなかった。

 しばらく砂浜を歩き回っては気持ちを整理してみる。時間を費やしてみても、踏み入れる決意は失敗作のゼリーのように固まることはなかった。

 一度あの氷海の世界へ踏み入れたのならば、思い出の小包を見つけ出すのにも何年何十年……何百年かかるのか、想像ができなかった。見つけられるイメージが浮かばない以上、永遠に見つからない可能性だって充分にあり得る。仮に見つけられたとしても、氷の中から取り出すことはできるのだろうか。ドアを見失い、戻って来られなくなる可能性もある。想い出を真剣に探せば探すほど氷海の世界に深入りし、生還できなくなる可能性は高まる。

 どうしてここまで二の足を踏むのだろう。

 違和感に戸惑った。『祈りの島』を飛び出した頃ならば、『孤独の国』にたどり着いて翼を失って迷走を繰り返していた頃ならば、迷わずにこのドアの向こうに生きる糧を求めたに違いない。後先のことを考えることもせず。無事に帰還することなど少しも気にしなかっただろう。帰還することを、踏み入れることを思い留まらせてくれたのが、リリィの存在だった。


 リリィのそばにいたい。

 いつまでもリリィのそばにいてあげたい。


 ググゥは可能な限りの速さで瞼を開いた。

 視線の先には、ググゥの寝顔を覗き込んでいるリリィのどこか淋しげな瞳があった。


「僕はもう二度と失いたくない」

「ええ、私もよ」

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