第12話 石膏像の夢

 ググゥとリリィは再び川沿いの道路へ戻り歩き始めた。

 『日陰の囁き』を片目に、更なる上流を目指して。

 さすがにここまで遡行すると、道路も川もその姿を変えることはほとんどなくなった。

 道路と川を挟んでいる両側の小高い山の裾は、手前までせり出すように迫ってきている。山は毛布に包まれたように密度の濃い緑で覆われ、民家の数は急激に減ったように思われた。直接的に影響しているのかは分からないが、閉鎖された商店や営業所が多く目につくようになった。畑の片隅や何かしらの跡地には、最寄りのガソリンスタンドや土着の企業広告、それに名産品や観光地を案内する味気ない看板ばかりが、待ちぼうけしている人のように立っている。

 陽が沈むと急にあたりは暗くなる。以前のように民家や店舗から漏れてくる灯りがほとんどないのだ。また外灯が整備されていない区間も多くなり、会話に気を取られているうちに夜に包まれてしまうこともあった。春の盛りも過ぎて、日照時間は確実に長くなってきているものの、西日は山に阻まれて宵闇は早く訪れるように感じられた。そのせいもあり、歩く距離は伸びなかった。平坦に見えても緩やかな傾斜続きの道程による疲労も、代わり映えのない景色も、無駄に曲がりくねっているように思える道の影響も、少なからずあったのかもしれないが。

 交差点も横断歩道もない一本道が続く。

 歩道すらないところも随分と増えた。陽が落ちてから歩き続けることは危険だった。道路の端を歩いているつもりでもクラクションに何度も警告された。ときには接触してしまいそうになることもあった。

 リリィは大きな音が苦手だったこともあり、無理して歩き続けようという気は起こらなかった。陽が落ちるとすぐに眠りにつくことにした。

 リリィとくっついて眠れる時間は、幸せを実感できる時間でもあったし、そもそも先を急ぐ必要もなかった。この旅路の次の目的はまだ決まっていない。添い寝で満たされる以上の幸せ、その具体的な何かを明確に描くことはまだできていなかった。


 その日、ググゥとリリィは同時に目を覚ました。

 前夜に寝床として選んだのは、役目を終えたと思われるトラクターの車庫だった。雑草ばかりが茂った畑の隅に佇んでいた。施錠はなく、トタンを簡単に組み上げただけの質素な小屋で、埃っぽい感は否めなかったが、目覚めは上々だった。

 眠る時間も早まっていたこともあり、夜明けの、まだ夜の匂いが残っている時分に目を覚ました。この朝においていつもと違うところがあったとしたならば、朝霧が濃くて、土の匂いがより強く立ち込めていたことだろう。

 ふたりは旅路に出て以来、この日初めて寄り道を試みた。もしかしたら言葉にこそならなかったものの、単調な景色に少し飽きていたのかもしれない。しかしその思いつきはあまりにも突然で、用意されていたものではなかった。結論を口にする一分前までは、まさか川沿いの道路から逸れることになろうとは思ってもみなかった。後にリリィに聞いてみたが、返ってきた言葉はググゥと同じものだった。

 車庫を後にした。昨日と変わらない今日があることを疑わずに。

 道路に戻ろうと荒れた畑の土を踏む。おそらくこのときは起きて間もないこともあり、何も考えていなかったと思う。土の匂いだけが記憶に残っている。

 道路に戻り、道なりに大きく左へ弧を描いた直後のことだった。

 工事中を記した看板が現れたのだ。道路の半分はコーンとフェンスで塞がれて交通規制が敷かれていた。

「これじゃ駄目ね」

 フェンス越しに首を伸ばして覗いていたリリィが手を振って教えてくれた。

 ググゥもリリィの肩に飛び乗って、先の様子を確認した。

 工事区間はかなり長いようだ。残された一車線の端を歩いても進めなくはなかったが、できることなら避けたかった。自動車を安全にやり過ごすには縦一列になって歩かなければならないだろう。それではつまらない。そこで迂回する方法を探すことにした。

 頭を働かせる必要はなかった。看板の横には、迂回ルートを記した看板も用意されていたのだった。他の選択肢があるわけでもなさそうだったので、その案内板に従ってみることにした。幸いにして対岸にも道があったのだ。

 すぐ右手の橋を渡り、川を跨ぐ。

 渡り終えてT字にぶつかったところに新たな看板があった。

 左の道を選べば上流へ向かうはずだったが、リリィは足を止めて看板に近寄ったのだった。

 これまで目にしてきた看板の類は、チョココルネを売っていそうにない店舗のものばかりだった。それではリリィの気を引くのは難しい。この一帯がチョココルネを特産にしているはずはなく、これまでにも土地の名産を謳った看板の前でリリィが足を止めてみることはなかった。無類のチョココルネ好きであることは誰の目にも明らかだったのだから、これは意外だった。

「どうしたの、リリィ?」

「ううん、何でもない。なんだか楽しそうな絵だなと思って」

 なるほど、絵として捉えていたのだ。

 その看板は周囲の地理を記した案内板であったが、正確な尺度をもって作成された地図ではなく、見どころを誇張されたイラストによるものだった。それも子供が描いたような大胆なタッチで。想像の余地を残すには充分すぎるほど大雑把なものでもあった。

「ずいぶんと遠くまで歩いてきたんだね」

 リリィの言葉を受けて地図に目を這わせた。隅々まで力強い緑色の山々に埋め尽くされている。これまで目にしてきた市街地はとうに枠外へ追いやられていた。

「ねぇ、ググゥ、そこを見て」

 たったその言葉だけで、リリィの意図を理解した。

 この地図は周囲の見どころを記しただけではなく、近くの山の頂を目指す登山ルートを案内したものでもあったのだ。まだ夜も明けて間もない。案内板のイラストの景色も、地図と照らし合わせるために見渡した四方の山の景色も、総てが湖底に沈んでいるような蒼さに包まれていた。

 顔を案内板に近づけて登山ルートを目で追ってみる。

 山頂に向かうルートは幾つかあるようだった。このことがリリィの興味をさらに誘ったらしい。

 矢印に沿って、リリィの指が山頂を目指す。

 赤い三角形の現在地からうねりながら登山口まで進み、三つに分岐し、どの道も最後は一箇所に集約されていく。そこが山頂だ。案内板の幼いイラストを頭に留めて周囲をもう一度見渡してみる。目の前の黒々とした山がどことなくイラストの山頂に似ているような気がした。

 同時にふたりは案内板へ視線を戻す。

 分岐している矢印を何度も確認した。

 どちらからの提案でもなかった。また意見を聞いてみるまでもなかった。目と目を合わせて頷き合うと、登山口へと続く道を選んで歩き始めた。

 山頂にたどり着けるのならばどのルートでも構わない。ただ山頂という単語が燦々と頭で輝き、そこを目指して山を登ってみたかった。ふたりで手をつないで登り、達成できたときには、これまで言葉にしていない何かを確かめ合うことができそうな気がした。そこで待っている答えと向き合ってみたかった。

 登山口に立ったとき、東の空は僅かに黄色く染まり始めていた。

 背の高い杉の木々に挟まれ、登山道に陽は届かない。続く道は闇の吹き溜まりのように沈んでいる。空気も肌が粟立つほどに一段と冷たい。そよ風が吹き抜ければ、全身を嘗められたかのような感覚に襲われ、質感も匂いもしっとりと湿っていた。まるで目の前の道は夜へと引き返す秘密の道のように思えた。想像していた以上に陰湿な雰囲気が滲んでいたが、躊躇することなく足を踏み入れた。

 足場はまだ入り口だけあって、コンクリートで舗装されていて歩きやすかった。傾斜をつけて真っ直ぐに伸び、折り返すように切り返しながら少しずつ上がっていく。

 杉の幹に視界は阻まれ、夜明けの林道を歩いているようだった。細長く開いた空から数羽の鴉の鳴き声が降り、周囲で反響し、少し遅れて四方からエコーがかって届く。鳴き声の主を探してみても見つけられなかった。

 道の真ん中で、ググゥは覚めきれていない頭のまま、真上を睨んで突っ立った。

 空の天辺は高くてどこまでも抜けている。足元がふらつき、視界がゆっくりと回り出してしまいそうだった。

「どうしたの?」

 リリィの震えた言葉が聞こえた。

 ずいぶんと先で心配そうに振り返っていた。鴉の声と違って周囲に反響したのではない。何かに怯えているようだった。空を見上げたまま動かなかったことが不安を煽ったのかもしれない。

 リリィの表情は蒼に溶けていて確認できなかったが、その佇まいからは、やはり何かにひどく怯えているようだった。早く駆け寄ってあげないと今にもその場でしゃがみこんでしまいそうなほどに。

「いや、何でもないよ」

 ググゥは馬鹿みたいにいきなり走り始めた。

 リリィを不安な気持ちにさせたくなかった。

 全速力で駆け、リリィの数メートル手前で跳びあがり、勢いよく彼女の肩に飛び乗ってみせた。その瞬間、リリィの表情が柔らかく明るくなったのを感じた。直接顔を覗いたわけではなかったが、手に取るように感じることができた。

 歩いていくうちに、コンクリートの足場は土や石に変わっていた。木の根が階段を築くように這っているところもあれば、進路を妨げるように張り出しているところもあった。そういう場合には、踏みならされた足場が近くに築かれていた。

 ググゥが思いつきでリリィの肩に飛び乗ってみせたことが、登山の雰囲気を決定づけた。

 不気味さが抜けきらない夜明けの山道を、狭いと分かりながらもふたりは無理してでも並んで歩いてみせた。石を積み上げた不安定な足場ではしばしば手を取り合った。『陸の孤島』を抜け出して以来、常にふたりはそうやってここまで歩いてきたのだ。半ば意地でもあった。荒れくれた道なんかに負けて堪るものか、と。しかしながら、さすがに今回ばかりは難しかった。登山道なのである。幅が極端に狭い場合は、「重いよ」とググゥは怒られながらもリリィの肩や頭に飛び乗った。決して離れることをしなかった。おかげで何倍もゆったりとした工程になってしまった。しかし、暗く沈んだ山の陰気さに呑まれてしまうことはなかった。ふたりしかいない世界の中で、楽しい時間を疑わずに戯れながら過ごすことができた。

 けれども、登山道は手強かった。もどかしいほどの折り返しを重ねながら、少しずつ空を削るようにして頂を目指していく。ふたりは相当の距離を歩いてきたつもりだった。それが実感できるほどに足は疲れていたし、陽も高くなっていた。しかし緑の合間から覗く景色の変化は期待していたほどにはみられなかった。実際、標高にしてみれば二百メートルほどしか変わっていなかった。それでも僅かな空気の違いを楽しんだ。

 景色の開けたところでは、休憩を兼ねて腕や羽根を広げて肺いっぱいに空気を吸い込んだ。そして息を止め、お互いの口に広がった空気を確かめ合うように目を瞑り、口を重ねて時を止めてみせた。徐々に登山客は増え始めている。彼らの目を忍んでは、ふたりは一対の石膏像になり、一秒を千秒の夢に変えるように時間の摂理から抜け出した。

「石膏像の夢……」

 長い口づけの後、ググゥの口から零れ落ちた言葉だった。それは意図したものではなかった。

「どういう意味?」

 そうリリィに聞かれても返答に窮するだけだった。慌てて反芻してみる。記憶の湖に沈んでいる思念はまだ浮かんでこなかったが、その言葉の存在を確かに知っているような気がしてならなかった。

「たぶん、いや、何となくそんな気がしただけさ」

 記憶の湖から引き揚げてはならないような気がした。石膏像の夢という言葉から希望の類の印象は感じられなかった。おそらく積年の重みによって沈め囚われた濃密な何かに違いない。光の届かない湖底の暗闇のイメージが脳裏に拡散した。その中心で、触れることのできない懐かしい影が微笑んだように思えた。

 ググゥはもう一度口づけを求めた。

 驚いたリリィは唇を半開きのまま受け入れてくれた。

 リリィの柔らかい感触に救われる思いだった。

 何も考えずに、ググゥはしばらくこうしていたかった。


 ググゥにとって、この山で見かけたほとんどの植物が初めて目にする種のものだった。葉の形も南の暖かい海辺のものと比較すると複雑かつ繊細なものが多く、種類も豊富だった。どのような進化を繰り返したら、このような風変わりな形にたどり着けるのだろうか。不思議に思えてならなかった。足を止めて覗き込んでみれば、幹に寄生しているように茎や葉を這わせているものや、どこからどこまでが個体になっているのか分からないものまである。生態系そのものが謎めいてみえた。

 山という植物の棲み処に踏み入れたことで知り得たことは多かった。緑という色の数は、植物群の種類と同じ数だけ存在することを知った。かつて空を渡って暮らしていた頃、緑は一色で、それ以上の意味をもたらしてくれなかった。一方で、海と空を渡る生活には無数の青が存在し、それぞれに名前と意味があったことを思い出した。山を縄張りにしている一族には、同様に無数の緑の名前があるのだろう。

 春を迎えたというのに、まだ山の懐の空気は冷えているのか、花を咲かしている植物は見聞きし想像していたよりも少なかった。そのことをリリィに聞いてみた。彼女は教えてくれた。花は必ずしも冬を越えて春に咲くものばかりじゃないのよ、と。夏や冬に咲く花もあるらしい。それに南国のように華やかなものばかりでないとも。それでも幾つかの種は春の空気を全身で表現し、鮮やかな花弁と可愛らしい立ち振る舞いで楽しませてくれた。

 新しい花を見つけては足を止め、リリィにその名前を聞いてみた。

 リリィの答えはいつも明快だった。

「私もその花の名前を知らないよ」と。

 その後決まって、リリィは少し困ったような表情を浮かべるのだが、質問してもきちんと付き合ってくれた。その後、彼女の顔へと顔を近づけてみる。彼女の表情を少しも気に留めない素振りで。花の名前は分からなくても構わなかった。花の匂いを確かめては、一つずつ記憶していった。

「もう、さっきからどうしたの?」

 花を見かけては立ち止まり、同じことばかり繰り返しているググゥのことがリリィには不思議に映ったらしい。最初こそ瞬きをして戸惑っていたようだったが、そのうち呆れたような表情に変わり、しかしその緩んだ目や口元からは、穏やかな優しさが伝わってきた。

 思い立った登山という寄り道を楽しんでもらえていることが、リリィには嬉しかったのかもしれない。その憶測は正しく、楽しくて仕方がなかった。またリリィが少し呆れた表情を見せてくれたことも大きな喜びだった。リリィの新たな一面を知ることはいつだって大歓迎だった。

「ねぇ、私もやってみていい?」

 ググゥの楽しさと歓びに満たされた気持ちが伝わったのかもしれない。リリィも真似するようになった。花の匂いを確かめては、お互いに顔を近づけてみるものだから、自然と目を瞑るようになり、口を重ねる形へと落ち着いていく。まるでふたりの姿は水辺で戯れている二羽の渡り鳥のようだった。

 ググゥはリリィの傍らで密かに探し続けていた。一番素敵で、なおかつリリィと同じ匂いのする花と出会えることを。どんなに素朴であっても、どんなに風変わりな色や形であっても、リリィと名づけようと。だから花を見かけてはその匂いを憶え、その後は必ずリリィの首筋に顔を寄せた。リリィと同じ匂いをもつ花を探し求め、確かめながら少しずつ空へと登っていったのだった。


 急に視界が開けたところで、山道は途絶えた。

 何合目かは分からなかったが、休憩所のようだった。自動販売機や売店などがあり、見晴らし台には何台もベンチが並んでいる。

 そのうちの一台に腰を下ろしたとき、背後の背の高い時計は正午を指していた。当初の予定では正午に山頂でチョココルネを頬張ることにしていた。その目標は達成できなかった。身体を休めながら思う。いったいどうやってそのいい加減な時間を弾き出したのだろうか、と。

 これまで平坦な川沿いの道を歩いてきただけに、傾斜がきつく折り返しが当たり前の山道はさすがに堪えた。ググゥも歩くことにはずいぶんと慣れてそれなりの自信をもって臨んだつもりでいたが、勾配のある道では使う筋肉が違うらしかった。

 それはリリィも同じようだった。ベンチに座るとまずミュールを脱ぎ捨てた。脚を露わに陽射しの下に曝す。しばらく筋肉をほぐすように前後に振ると、両手でふくらはぎを包むようにマッサージを始めた。

 ググゥもベンチの上で翼をたたんで座ると、新たに広がった景色を脳裏に流しながら休憩を取ることにした。

 透明に近い青の空気を挟んで、遠くには新たな稜線が重なっていた。この様子だと、視界の届かない先もまだまだ山は続いているだろう。

 山も絨毯のような植物群と同じで、どこからどこまでが一つなのか判然としなかった。手前の稜線は、登山前に川沿いの案内板から見上げたよりも低い位置にあるような気がするが、ググゥたちの視線よりはまだ高い位置にあった。あの山の内側に入れば、この山と同じように花を咲かしている植物を見つけることができるだろう。しかし、ここから遠目で眺めている限り、視界に映る山々はぼやけた濃淡を散らした緑一色で塗られている。新たな発見はないのかもしれない。

 ググゥは軽い気持ちで言葉を口にした。

「広がっている植物たちが一斉に花を咲かせたのなら、景色は何色に変わるのかな?」

 リリィは慌てた様子で振り向いた。困ったように首を傾げて笑って答えてくれた。

「そんなの駄目よ。花粉は悪魔の溜息なんだから」

 ググゥにはその言葉の意味が分からなかった。しかし例えの語彙が新鮮で面白かった。また、リリィが笑いながらもそれだけは本当に駄目という真剣な眼差しも見え隠れし、それが楽しくてこれまでの疲れを吹き飛ばすように笑った。リリィもおかしそうに一緒に笑ってくれた。

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