第11話 言の葉の季節

 ググゥとリリィは『流民の河』沿いを歩き続けた。土手の舗装されたコンクリートを、少し柔らかくなった春の土を、朝露で濡れている芝を、陽射しで温まった砂利を、素朴な公園のブランコの脇を、できるだけ河から離れないように。

 それでも河沿いから逸れてしまうこともあった。

 河を跨ぐ幹線道路や鉄道の鉄橋に阻まれるときだ。その場合はひどく迂回することになるとしても横断歩道や歩道橋を探した。直線的に道路を横断するような危険な真似はしなかった。理由は語らなかったけれども、リリィが首を激しく振って嫌がるのだ。鉄橋以外にも巨大な敷地……工場や団地とぶつかってしまうこともあった。根気よく敷地の外周をなぞるように歩いて迂回できればよいが、ときには敷地に迷い込んでしまい、饐えた臭いがこもっている木々の間を突き抜けることもあった。

 いかなる困難に見舞われても並んで歩いている間、リリィは一度もググゥの翼の先を握ったまま放すことはなかった。ベンチで休憩しているときはお互いに身体をすり寄せて、身体のどこかは必ず触れ合っていた。

 チョココルネを買いに行くときだけは寄り道をした。

 リリィは店員が目を丸くするほどチョココルネばかりを買った。お腹が減るとそればかりを頬張った。美味しいパン屋と巡り合えたときには、「もう来ないと思うけれども」と呟きながら、手首にボールペンでお店の名前とチョココルネの絵を残していた。その文字は書いた本人しか読めないような書体だった。カタツムリを連想させるような、アゲハチョウの模様を模したような。絵の方は上手だった。さすがに食べ続けてきたことだけのことはある。しかしこれは描いた本人さえも区別がつかないだろう。総てが同じ形をしていた。

 可能な限り河沿いを歩いていたし、逸れるときも視線の端には河の姿があった。進路を見失うことも誤ってしまうこともなかった。それでもクネクネと迂回し川沿いに戻ったとき、進むべき方向が分からなくなることがあった。そのときは葉っぱを川面に落とせば答えが出る。遠ざかっていく方向の逆へ歩き出せばよいのだ。

 似たような景色だと思いながら歩き続けていても、立ち止まって振り返ってみると景色が変わっていることに気づかされる。

 河川の幅も狭くなり、視界の端々には濃い緑が目立つようになる。川面を見下ろすマンションの数も少なくなった。代わりに、進行方向の先には大地と空を二分するように稜線が現れがちになる。包んでいる景色そのものがどことなく静かで穏やかに感じられた。もちろん風の音はそのままだし、川のせせらぎも変わらないような気がする。それに歩き始めてからずっと川に沿って国道も並行していることもあり、自動車のエンジンの音が途絶えることはなかった。

 背筋を伸ばして驚いて立ち止まってしまうときもあった。大型のトラックに背後から追い越されるときだ。バリバリと空気を割る音だけではなく、地響きを伴って足元も震わせる。

 民家が窮屈に並んでいる一帯では、垣根や塀越しにテレビの音が漏れてくるし、窓を開け放っているアパートの二階からは母親を呼ぶ幼子の切羽詰まった声が聞こえてきた。

 音は必ずしも囲まれている景色から伝わってくるものばかりではなかった。リリィの足音も、ときどき咳き込む音も、洟を啜る音も聞こえてくる。しかし下流の雑多に塗れた騒音とは異なる。少し想像を膨らませてみるだけで、一つ一つの音の所在や情景を思い浮かべることができた。それはなかなか楽しいひとり遊びだった。

 数年暮らした『陸の孤島』界隈の喧騒はここにはない。あの街の音は工業地帯の空のように濁っていた。もしくは昼間のアスファルトの熱がこもったままの真夏の夜のように澱んでいた。今歩いていて、届いてくる音の所在がはっきりと感じられることが嬉しかった。疲れをも忘れさせてくれる。

 広がった景色は描かれただけの風景ではなく、個々の存在が際立って目と心に映る。自分とリリィが確かに存在しているこの現実を、強く実感させてくれるのだ。これは絵空事ではないのだ、と。だから目を瞑ることも眠りに落ちてしまうことも怖くはなかった。『永承の砂浜』は彼岸の国であり、目を開けると必ずこちらへ帰還することができる。この認識がもたらす安心感は計り知れなかった。

 歩くにつれてゆっくりと迫ってくる稜線。決して途切れることのない川の緩やかな曲線。もはや天と地を分ける稜線が視界から姿を消すことはなくなった。その物言わぬ雄大な存在を眺めながら一歩ずつ近づいていくという行為は、これまでの渡り鳥の生活にはないものだった。これが空を選べずに地を這う者の視点なのだろうか。だとすれば、やはり今の自分にはふさわしいように思える。独りで歩み続けるには、山々の存在はあまりに巨大で恐ろしさを感じずにはいられないが、隣にはリリィがいてくれる。触れている身体の一部から伝わってくる体温は、頭で理解している以上の大きな支えになってくれた。リリィが一緒にいてくれるのであれば、地の果てまで歩いていけそうな気がした。翼なんかがなくても。それこそリリィが言ってくれたように、たとえ水の中であったとしても。


 天候の恵まれたある朝のことだった。

 リリィは川のほとりの適当な岩に腰をかけ、気持ちよさそうに足を洗っていた。その隣の岩には、ややくたびれた白いミュールがハの字で放り出されている。そのリラックスしきったミュールの気の抜けた姿は、心行くまで与えられた休息を満喫しているように思えて微笑ましかった。どうか今しばらくはそのまま休んでいて欲しい。まだまだ旅は続くのだから。

 『流民の河』に合流してくる支流を見かけなくなって久しい。川幅も急速に狭まると、その後は少し退屈すぎるほどに変化は乏しくなった。

 一本の筋が気だるく大地をなぞっているようだった。川岸は一部舗装されてコンクリートの堤防のように築かれているところもあったが、それももうかなり下流のことで、しばらくは大小様々な岩が川辺に転がっているのどかな景色が続いている。川そのものの色や匂いや音もより澄んだものとなり、ピアノで奏でるような『日陰の囁き』にその姿を変えていた。

 そのイメージはどことなくリリィの印象とも重なった。ググゥは身体を休めながらときどき目を瞑って調べに耳を傾けた。すると、はっきりと浮かんでこないものの、リリィの後ろ姿が手の届かない少し先で蜃気楼のように揺らめいた。

 これまでググゥは川というものにここまで深く付き合ったことはなかった。これほどまでに落ち着かせてくれて、心の奥まで抵抗なく馴染むものだとは考えたこともなかった。それに、流れに沿って進路を取り続ける限り、迷うこともなく行き先を示してくれる。それは気流に身を任せて空を渡ることとさほど変わらないように思えた。

 上流から流された過去の断片はやがて海で一つになる。海流に乗って七海洋を巡ることになるのだろう。それから先はどうなるのだろうか。楽しかった想い出も塩分に腐食されて、忘却されていくように海底へ沈んでいくのだろうか。それとも辛かった記憶も天に召されるように昇華し、白い雲となって空に浮かぶのだろうか。心と体に刻み込まれた記憶を洗い流すために無垢な水の源泉を求めて目指すことが、『諦観の海』を越えて飛び続けたことの原動力だったのかもしれない。もしくは抗うことのできない運命の一端。世界中の源泉から涙を落とせば、この無限とも思える果てしない旅路に終止符を打つことができるのだろうか。今はその運命に導かれるまま、まだたどり着いていない上流の、さらに澄んだ水で泳ごうとしている。

「ググゥ、見て」

 沈下していくベクトルの向きを変えてくれたのは、遠くからのリリィの明るい声だった。

 ググゥは判然としない川面に映っている自分の顔を見やってから、声が聞こえた下流へ振り向いた。

 リリィは手を大きく振っていた。指先は濡れて輝き、一本の艶やかな黒い羽根があった。

 それは紛れもなくググゥのものだった。リリィよりも二十メートルほど上流で水に浸かり、羽をはためかせて水浴びをしていた。その黒い羽根は身体から抜け落ち、水流に揉まれながら下り、海にたどり着く前にリリィに拾われたものだった。

 ググゥは気づかされた。歩いて旅をしながら、無意識に川へと過去の断片を流し続けていたことに。そしてリリィの指先の羽根を目にし、上流から流した想い出が必ずしも海までたどり着けないことも知った。この羽根のように途中で誰かに拾われて、意図しないどこか別の場所へ運ばれることだってあることだろう。今、自分の身体から離れた一部がリリィに拾われたことは、言葉にできないほど嬉しかった。たった二十メートルほどしか離れていなかったとしても。

 リリィは黒い羽根を目の高さまで下ろすと指先で回し始めた。まだ柔らかい羽根は勢いよく水滴を弾き飛ばす。それからくすぐるように首筋や頬を撫でて遊び始めた。

 その様子を、ググゥは陽の当たっている河原で身体を乾かしながら眺めていた。独り遊びに興じているリリィの姿を斜め後ろから捉えながら。

 リリィのワンピースの裾が水に浸かっていて、川の流れに引っ張られるようになびいている。リリィはそのことに気がついていない様子だった。自分でもなぜか分からなかったが、揺らめいているワンピースの様子に気を取られていた。

 もう一度呼ばれる形で、リリィの元へと歩くことになった。途中、武骨な岩の陰で咲いている小さな花を見つけた。ググゥの爪ほどの大きさだったが、花弁は均整のとれた星状で、薄青色と薄紅色の花を二つ咲かせていた。細い茎も丸い形をした葉も、透きとおるような淡い緑色だった。

 岩の陰で強まる陽射しと風から身を守るようにして育っている姿は健気で、やはりその花を摘み取ることはできなかった。

 代わりの花を見つけよう。

 立ち止まって見渡した。意識して花を探してみると、他種の花はあちこちに咲いていた。

 リリィは二つの花を嬉しそうに受け取ってくれた。

「今日二つ目のプレゼントだね」と声を弾ませながら。

 リリィは器用に茎の部分を編み合わせると、膝の上に置いていた黒い羽根の根元に結びつけた。素朴な髪飾りだったが、艶のある黒い羽根と若草色の茎と小さな二つの花びらの組み合わせは可憐だった。

 しかし、ググゥは思う。リリィのワンピースは白なのだから、白い羽根だったらもっと似合っていたはずなのにと。

「あなたのことが好きよ」

 リリィはそう答えてくれた。ググゥの物思いを気に留めることなく。そっと髪飾りを耳の後ろに挿しながら。

 ググゥはもたれかかられるように抱きしめられた。

 突然の出来事に返す仕草も言葉も見つからなかった。本当はもっと珍しい薄青と薄紅の対の花を贈るつもりだったのに。

 抱きしめられているうちに、そのことを伝えたい気持ちも、羽根の色が白だったらよかったと感じた気持ちはどうでもよくなった。そのことを伝えたとしても、リリィの気持ちは変わらないだろう。健気な花を摘み取らなかったことを喜んでくれたに違いない。鴉のような黒い羽根が好みと笑ってくれるはずだ。

 リリィの肌を滑った透明な清らかな匂い。リリィがもたらす温かな匂い。腕の中で、ググゥはゆっくりと呼吸を繰り返すことしかできなかった。こうも強く抱きしめられていては、リリィの表情を覗くことも叶わない。代わりに柔らかい耳を数回噛んで応えた。


 その日は終日この川原で過ごすことに決めた。

 天気は快晴だった。陽射しは正午を回るとかなり強くなった。まだ春の只中であるにもかかわらず、岩や水面を照り返す光は眩しく、日向を歩き回れば汗ばんだ。

 再度の水浴びも終え、ググゥたちは川縁から少し奥まった木陰へと場所を移していた。

 背後の山の影にすっぽりと包まれ、山肌を撫でて降りてくる風は涼しい。適度に湿気を含んでいることも優しくて嬉しかった。山の合間を流れる『日陰の囁き』と名づけた川は日向の囁きに変わってしまったが、せせらぎは起伏の少ない短調のような調べを奏で続けている。照らされた景色を眺めてもググゥの耳と心には、『日陰の囁き』として届いた。

 過去に崖崩れでも起きたのだろうか。木陰の中にも大きな岩が山肌から崩れたままの形で転がっていた。リリィはそのうちの四角い岩の上で両手をつき、足を気ままに投げ出している。

 揺れる白くて華奢な脚と微動もしない岩の物質的な対比が面白かった。比べること自体おかしな話だが、リリィをどの角度から捉えてみても、この岩がもっている強さも硬さも感じられない。

 ググゥはその様子を隣の岩から眺めていた。足を身体に隠して翼を行儀よく胴体にくっつけながら。いつもなら、歩き疲れて、そして水浴びをして気持ちよくなってしまったものなら、寄り添いながらそのまま眠りの扉を叩いてしまうところだった。しかし今日は瞼を重ねる時間をも惜しんで見つめ合った。言葉を重ね合った。見上げれば広がっている新緑の梢のように。幾重にも淡い層を作り、陽をちらりちらりと透明な緑色に染めるように。


「私も知らないわ」

 ググゥは口を開いた。自分の口から声を発するよりも先に聞こえてきたリリィの言葉。

 ググゥは振り向いた。

 リリィは独り言のように顎を少し上げて木漏れ日に言葉を溶かしていた。

 リリィの横顔にくぎ付けだった。胸が苦しくなって呼吸を忘れていたことに初めて気づかされた。それくらいにリリィの短い言葉は、ググゥにとって衝撃的なものだった。

 強い核心に突き動かされて、迷わずリリィの透明な視線の先を追いかける。その先にあるものを見つけたところで、自然と息が漏れた。

 目を瞑り、大きく息を吸い込む。

 今度は意識的に呼吸を再開させた。

 ググゥとリリィは同じものを、同じところから、同じ角度で見つめていたのだった。

 視線の先には花を咲かせている一本の植物があった。馴染みの薄い風変わりな姿であったにもかかわらず、存在感は極めて希薄だった。

 ググゥたちが腰かけている岩の後ろには大樹があり、頭上を掴むように掌の形をした太い幹が背中越しに延びている。そのこげ茶色の幹はよく見ると、ところどころに苔が生していて、風変わりな植物は蔦のように幹や枝に絡まりながら生息していた。弱々しかった。少しでも陽に当たる場所を求めて空へ近づこうとしているようにしか思えなかった。その健気な姿が印象深かったのだ。

 ググゥはこの植物の名前を知らなかった。

 だから、リリィにその植物の名前を聞いてみようと思った。

 しかしながら、リリィが聞かれる前に答えたのだった。

「私も知らないわ」と。

 まず、ふたりはお互いの姿を適度に冷えた木陰の空気に溶かした。

 次に言葉を、交互に重ねながら空気に溶かした。

 視界に映るものを、同じところから、同じ角度から空気に溶かしてみせた。

 弱々しい風変わりな植物をも空気に溶かして、

 そして、

 お互いに考えていることさえも、口にしないまま空気に溶かしていた。

 ググゥとリリィは振り向き合い、

 同時に世界で一番優しい笑みを浮かべた。

 溶かしてきた総ての空気をしゃぼん玉でそっと包むように。


 囁き合う。


「あなたのことが好きよ」

「君のことが好きだ」

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