第10話 流民の河

 鳩の女王に別れを告げたググゥは、空を自由に舞う己の姿を瞼の裏で一度だけ再生させて、そのまま胸にしまった。

 振り返ることなく『陸の孤島』を目指して滑空する。絶えず『憂鬱の微笑』と向き合い『永承の砂浜』を収めてきた眼には、ぽつりと佇んでいるリリィの姿しか映っていなかった。

 リリィはコンクリートのプラットフォームにしっかりと脚をつけていた。

 リリィもググゥを見つけたらしい。夜明けの空に溶け込んでいるその姿を、顎を僅かに上げて見つめている。果てしない夜空の海に臨んでいるようでもあった。

 時間にすれば数える程度にすぎなかっただろう。視界に存在するかしないかという小さな姿を見つけてから、ふたりは息を止めて見つめ合い続けた。無数の星々から名前のない星を探し当てるほどの困難な作業であったにもかかわらず、お互いに見失うことはなかった。固定点となる北極星のようにお互いを世界の中心として捉えていたのだ。世界は変わっても、回っても、その中心は変わらない。

 ググゥはリリィの目の前で急ブレーキをかけるように宙で羽ばたいた。

 プラットフォームを薄く覆っていた埃が静かに呼応する。

 その様子を、リリィは目を細めて見守っている。

 ググゥの細い脚にコンクリートの冷たく硬い感触が伝わった。

 約束どおりにふたりは再会した。

 ググゥはリリィに声をかけたい気持ちを堪えて固く目を瞑る。

 これからはもう離れることはないのだ。

 『祈りの島』を去ってからの日々が思い出される。蓄積され続けた肉体の疲労も、癒されることのなかった気だるさも、今は達成感に似た重さとなって心身に染み込んでいる。

 大きく息を吐いて目を開いたとき、リリィが正面で膝をついていた。

 静かにゆっくりと腕を首に回してくる。

 リリィに引き寄せられ、冷えた彼女の腕はググゥの鼓動と上昇した体温によって温められた。

 ググゥは口を塞がれる前にリリィの言葉を聞いた。

「あなたのことが好きよ」と。


 ググゥとリリィは揃ってプラットフォームを飛び降りた。

 しばらく線路を歩き続けた。

 一駅過ぎたあたりで高架を渡る線路はゆっくりと降っていき、やがて地上と繋がった。そろそろ電車が見えてきてもおかしくない。線路から外れることにした。

 夜明けを待つ住宅街にはまだ人影はなかった。外灯が十字路に灯りを落とし、乱雑に積み上げられたゴミの袋が目についた。

 行き先は決めていなかった。ここでないところであればどこでもよい。結果、迷路のような小路を彷徨うことになったとしても。

 幾つかの曲がり角を線路から遠ざかるように折れて進むと、幹線道路を挟んで小高い土手が現れた。迷うことなく土手に向かって歩く。薄暗い草むらに隠れたコンクリートの階段を見つけた。

「こうしてググゥとあの駅以外から景色を眺めるなんて、不思議な気持ち」

「そうだね、僕はまだ信じられない。手応えのない夢の中で目を覚ましている気分だよ」

 現実と夢の狭間、夜と朝が曖昧な時間帯でもあった。視線の先には河川敷が広がり、緩やかな河が視界を上下に切り分けていた。

 この河はググゥが『流民の河』と名づけ、『諦観の海』から幾百もの夜を渡って着水した場所の近くだった。数年ぶりに近くまで寄ってみたが、水の音は少しも変わっていない。上流から下流へと一定のリズムで流れていく。水草や水面の匂いはまだ春先の季節であるぶん、真夏のあの頃よりも薄くて柔らかかった。

 こうして『流民の河』を再び目の前にすると、この地に定住することになってしまった日の記憶が鮮やかに全身を襲った。墜落したあの日、鼓動が荒くなる。

 あのときはどうしてこの地を選んだのだろうか。一夜明けた朝にはどこを目指そうとしていたのだろうか。呼吸を整えて思い出そうとしてみても、あまりに昔のことのように思えて、客観的な事実というおぼろげな外郭しか浮かんでこなかった。それでも思わず笑ってしまいそうなほどにはっきりとしていることはある。着水した翌日に翼を失うことになろうとは、夢にも思っていなかったということだ。

「ねぇ、もっと河の近くまで行ってもいい?」

 ググゥの返事を待たずにリリィが歩き始めた。ググゥもその後をついていく。

 着水した日には翼があった。しかし行き先は分からなくて、隣には誰もいなかった。今は翼を失って、やはり行き先は分からなくて、しかし隣にはリリィがいる。この符合の組み合わせが可笑しくて笑いが込み上げてきた。共通点は、相変わらず行き先は分からずに河の流れを眺めているということ。違いは、今はリリィがいてくれることで行き先を考えてみるという歓びが生まれたということだった。

 しかし、翼を失ったという事実は、浮き始めた心に依然と重くのしかかってくる。地を這う鳥として生きることへの覚悟はあったが、これが正しい選択であるという確証はもてなかった。翼がなくては異国の地での彷徨い方が分からない。河に身を委ねてみればそのまま海へと導かれるだろうが、隣にいるのは二本の腕と二本の脚があり、翼をもたない落ちこぼれの天使だ。どう考えてみても水に浮かんで流される姿は似つかわしくなかった。

 ググゥは風を求めて天を仰いだ。気持ちだけでも風に導いてもらいたかった。視界の端には、鳩の一族と暮らしたマンションがあった。まだ常夜灯を灯したままだった。こうして地上から見上げてみたことは一度もなかった。

 自信に満ちた佇まいに驚かされた。重厚な建物は恐れを知らず、周囲の街並みを部下のように携えてそびえている。その屋上には鳩の女王がいるはずだった。当然ながら下からでは、この角度からではその姿は見えなかった。

――恋はきっとあなたに再び飛翔する力を授けてくれます。

 鳩の女王との別れ際の言葉が耳の奥で繰り返された。

 目を細め、ググゥは姿の見えない鳩の女王に改めて別れの挨拶をした。

 今のググゥとリリィは世界でふたりきりだった。安住の地もなければ、困っているときに手を差し伸べてくれる仲間もいない。不安はあるけれども、絶望といった暗い気持ちはなかった。リリィと一緒にいられることへの歓びがいつだって根底に流れている。

 空は、静寂だ。

 鳩の女王の別れの言葉は、最低限の生活の保障という前提の上での話であるように思えた。将来の欠片さえも見えていない者にとって、恋で飛翔するには、空は手に負えないほどに広くて圧倒されるだけの存在として目に映る。広いゆえに、何もないゆえに、怖いのだ。この圧倒的な存在感に割って入り、飛翔し続けることができる者は、顧みることを必要としない若さという力をもつ者だけだろう。今の自分には青春を謳歌するような無邪気さも体力も残されていない。また墜落してしまったことによって、空は見かけよりもはるかに重くて厚くて、硬いことも知っている。

 また一方では、鳩の女王が今の自分が背負った真実を射ているようにも思えた。失うものがないからこそ、捨てられない荷物がないからこそ、軽くなって飛ぶことができるのだと。それは片道分の燃料しか積むことが許されなかった末期の戦闘機のように危ういものかもしれない。それではあまりにも悲壮感の塊すぎるか。

 いずれにせよ、再び飛翔できるようになったのならば、今度はリリィと一緒でなければならない。翼をもたないリリィの手を引いて? もしくは抱えながら。この小さい翼ではそれは無理だろう。おとぎ話の挿絵以上の現実感は浮かばなかった。想像の範疇を超えていた。

 ついつい思考は空への帰還を果たそうとしてしまう。地を這わなければならない現実にそぐわないこの隔たりこそが、空の重さでもあった。恋で飛翔してリリィとともに希望に溢れた未来を見出すことは限りなく不可能に近い。

 ググゥは数歩先を歩いているリリィの後ろ姿を見つめた。

 ともかく、これからふたりはどこへ向かえばよい?


「リリィと僕は空を飛べるはずなんだけれど、空を飛ぶことができない」

 リリィは天使の端くれなのだから、本来は空を飛ぶことができるはずなのである。

「そうね、私たちは姿こそ違うものの、似た者同士なのかもしれないね」

 水面には朝焼けが美しく落ちている。あと数時間も経てば、背後の土手や幹線道路は人や自動車で騒がしくなる。その様子はマンションの屋上から見下ろすことで知っていた。

 ふたりは引き返し、土手から河川敷へ降りる階段に腰をかけた。リリィが数段下に座り、ググゥと視線の高さは同じだった。言葉少なく河を見やりながら時間を過ごした。

 そろそろ新しい行き先を決めないといけない。かつて渡りの生活で目にした景色が浮かんだが、それらは今では夢よりも遠い世界のものばかりだった。どれも空を越えていかなければたどり着けない。気がつけば、視線は自然と海へと繋がる下流ばかりを眺めていた。そして大海を翔る姿を思い浮かべてしまっては、懐かしい記憶の断片拾い集めてしまっている。

 空から見渡してきた限り、いずれの川も海へと合流し、水は世界を一つに結びつけていた。積もった想い出や記憶を刻み、いたるところの川の源泉から流してみたところで、海で再び一つになってしまうことだろう。なぜか、そのような果てしない旅路が蜃気楼のように頭に浮かんだ。

 リリィの瞳にはこの川の流れはどのように映っているのだろうか。

 聞いてみようと口を開こうとしたとき、リリィの唇のほうが僅かに早く動いた。

「私は水が好きなの。こうやって、ただ眺めているだけでも好き。このまま河沿いを歩いて上流を目指してみない? もっと綺麗な水になるはずだわ」

 ググゥは言葉が紡ぎ出されるリリィの唇ばかりを見つめていた。次の言葉を投げかけられたところでリリィが振り向いた。

「ねぇ、そこで泳がない?」

「え?」

 ググゥはリリィの瞳へと焦点を滑らせた。

「それはいいね」

 リリィの一言で、ふたりの向うべき先が決まった。

 リリィはググゥと真逆の方向、上流をじっと眺めていたのだ。ググゥにとって緑が濃くなる上流は未開の地だったが、新しい一歩を踏み出そうとしている今、海から離れていく選択はふさわしいように思えた。この河の先には何があるのか、それを見てみるのも楽しそうだ。

 そしてまた、これまで『飛ぶ』ことばかりにこだわり続けてきたググゥにとって、『泳ぐ』という言葉も新鮮で魅力的に響いた。もちろん渡り鳥であるゆえ、何度も泳いだことはある。ただ、思い返してみても、『泳ぐ』ことそのものが人生の目的になったことは一度もなかった。

 『泳ぐ』という目的。泳ぐことが飛ぶことと同じ意味合いをもたらしてくれるかどうかは、まだどうにも実感がわかなかったが。

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