第2部 「リリィ」編

第9話 リリィの涙

「ねぇ、ググゥ、私が住んでいた世界のこと知ってる? あなたが天使と言う私の仕事のこと知ってる?」

 深い眠りに落ちていく心地だった。または、緩やかな大河の畔に座り、遥か昔から変わらない河面を見つめているような。もしくは、遠くで連なる山々の端を見つめ、悠久の時が積みあげた曲線に思いを馳せているような。知覚できる総てのものが、紅茶の底に沈んだ角砂糖のように脆く、曖昧へと崩れていく瞬間に似ていた。

 やがて大河のせせらぎが耳の奥をくすぐり始め、山々の梢の囀りが空気を震わせて届いてくる。それらの言葉にならない音の集まりは、脳の深いところまで染み、集約され、一つの声として生まれ変わるようだった。

 リリィの言葉は、そのように心に響いた。

 ググゥはベンチの上で思わず天を仰いでしまう。

 天使だから空から来たのだろう、そう考えてしまったからかもしれない。空の青さとは対照的に全身のだるさは抜けきれずにいた。


――季節はリリィと過ごす最初の夏を迎える。

 

『陸の孤島』を後にしてどのくらい歩き続けたのだろうか。周囲は山に囲まれていた。

 立ち止まってぐるりと見回してみても、視界から山の連なりが途切れることはなかった。むらのない青空と濃密な緑が夏に似つかわしい。その景色において落ちてきそうな入道雲の白い塊は一際存在感があった。歩いてきた道……東西に延びる二車線の幹線道路の両側には畑が広がり、ところどころに集落が散らばっている。畑の野菜の種類は分からなかったが、たくましく伸びた茎と葉の緑は力強く、陽射しによく鍛えられていた。

 目の前にバス停が現れた。簡素と言えば聞こえはよいが、バス停と名づけるにはあまりにもみすぼらしすぎた。停留所名と運行の時刻を記したものが忘れ去られた碑のように立っている。時刻表の文字と数字は雨と陽で洗い落とされ、昼間でも近寄らないと満足に読み取ることができない。何度もマジックでなぞられた跡が見て取れた。

 おそらくここがバス停であると知らしめているのは、その脇にベンチが置かれているからだろう。空よりも生々しい水色のペンキで塗り直された木製のベンチ。これがそばになければ、バスも何本かに一本くらいはこの停留所を見過ごしてしまいそうに思われた。

 碑とベンチのセットの他には、灯油缶を加工したゴミ箱が置かれていた。覗き込むと数日分の雨水が張っている。錆びたコーヒーの空き缶とすり潰された煙草のフィルター、それにミネラルウォーターの空のペットボトルが浮いていた。

 ググゥとリリィはベンチを目の前に立ち尽くした。バスに乗るつもりはなかった。休息のためにこのベンチに腰を下ろすかどうかを決めかねていたのだ。ベンチはまだ雨に濡れていて乾いていなかった。

 立ったまま、ふたりは最後のチョココルネを半分に分けて頬張ることにした。

 空腹が満たされるとやはりベンチに腰を下ろしたくなった。先を急ぐ旅ではない。やはり今は身体を休めたかった。

 並んで座り、ふたりは目を閉じた。

 優しく頬を撫でてくれる風。山の風は海の風よりも軽い。遠くからは幻聴ではなく、揺れる木の葉の音が聞こえてくる。その擦れ合う音に紛れて山鳥の若々しい鳴き声も耳に届く。何を喋っているのかは聞き取れなかったが、不機嫌に声を張りあげたり、怒鳴りつけたりしていないことは確かだった。

 リリィは風に身を任せるように、まるで空に語り聞かせるように話し始めた。

 ググゥはその言葉に誘われてリリィを見やった。

 リリィは穏やかに目を閉じたままだった。

 山間の天気は変わりやすい。一時的に強く降った雨はあがり、ググゥの目に映るもの総てがきらきらと輝いていた。成長を続ける畑の野菜の穂先、舗装し直されたアスファルト、その先にある農家の窓のサッシ、軒下に停めてある白い軽自動車。あまりの眩しさに思わずしかめ面になる。

 陽射しはあっという間に回復し、夏が目の前まで近づいている気配がいたるところから感じられた。植物の青々しい匂い、山と畑の蒸した土の匂い、すぐ背後に流れている川の真水の匂い。それに歩き疲れて汗ばんだリリィのうなじの匂い。総ての匂いが春よりも濃密だった。音、光、匂い、そういう一切のものを記憶に焼きつけながらリリィの話に耳を傾けた。


 リリィは語る。

 他の天使たちはどうだか知らないけどね、と前置きをして。


 こちらの世界に来る前、リリィが住んでいた場所は、鬱蒼と茂った葦に囲まれた小さな島だったらしい。それは本当に小さな島で、湖の中心にぽつりとあり、リリィの家屋以外に建物はなかった。

 その家屋は石造りであったものの廃屋同然に朽ちた姿で、数百年も昔からその場所にあったと思われるほどのひどい有様だった。

 リリィが住み始める以前、そこがパブだったのか、職人の工房だったのか、亡命者の幽閉場所だったのか、面影を残しているものはなかった。屋根は完全にない。壁のほとんども崩れ落ちてしまっている。空からは家屋の見取り図を眺めているように丸見えだった。真逆に考えてみれば、ベッドに寝転がると眼前に満天の星空が広がり、眠りに落ちてしまう寸前まで雄大な天体模様を楽しむことができた。

 屋根がなくても大丈夫だったのか? 問題なかったらしい。天候の心配はなく、雨はおろか雲一つ空を横切ったことはなかった。気候も穏やかなもので、暑くも寒くもなく、絶えずそよ風が小島の総てのものを優しく包んでくれていた。

 こちらの世界ととりわけ変わっているところは、青空が広がっている昼間の時間帯であっても、空には夕暮れを思わせる淡いピンク色の筋が空に滲んでいることと、空気自体が焼きたてのクッキーのような甘い匂いだったことだった。

 その匂いのことをリリィはとても好きだったと懐かしそうに笑う。それほどの甘い匂いに日夜満たされていたら飽きてしまいそうな気もするが、チョココルネばかり食べ続けているリリィのこと、おそらく頭の中では、いろいろな形をしたクッキーが浮かんでいたことだろう。だからかもしれない、リリィはこう付け加えた。この甘い匂いの中で過ごしていると、刺々しい気持ちは穏やかになって眠る前には嫌なことを総て忘れることができるのだと。

 そうそう、あと島を囲んでいる湖も少し変わっていたと説明してくれた。風がそよいでも水面が乱れることはなかった。凛と張ったままだったらしい。舟を漕いで岸と島を往復する時だけ、美しい波紋をどこまでも広げてみせるのだった。湖の色は夜に近い藍色をしていて、覗き込んでみてもリリィの顔を映し返すことはなかった。まるで夜と向き合っているようだった。光は湖底へ吸い込まれているのだろうか。ぼんやりと覗いていたら奥底まで引きずり込まれてしまいそうなところも夜にそっくりだったと言う。


「リリィはその世界からどうやってこっちに来たの?」

「それはまた後で話すわ」


 湖の中心でぽつりと頭を出している小島。廃屋同然の母屋の他には一艘の粗末な小舟が繋留されていた。これを使って毎日岸と島を往復していたとリリィは言う。それだけしか島になかったら寂しくなりそうなものだ。そう聞いてみても、大丈夫だったと答えてくれた。元々賑やかなところが苦手という性分もあるが、島には他にも住人がいたと教えてくれたのだ。

 島全体を覆った草むらには、愉快でたまらないといった表情を浮かべた老人と静かに目を伏せた婦人、今にも駆け出してしまいそうなほどに躍動感のある子供が二人いた。彼らの関係は謎だったらしい。立派な大樹が母屋のそばに一本だけあって、花を咲かさないその樹の枝には、繊細な羽をもった十匹の蝶が一列に並んで羽を休めていた。他にも、船を繋留している水辺には、南国風の奇抜な頭をした鳥が終日対岸を睨んでいた。彼らはときどきリリィの話の聞き役になってくれた。しかし、リリィの心を動かしたり、感情を揺さぶったりするようなことはしなかったそうだ。なぜなら、彼らは全員、精巧に作られた真っ白な石膏像だったのだから。

 リリィには与えられた仕事があった。こちらの世界でいうところの郵便屋さんだった。朝起きると、ベッドの脇のテーブルに手紙がいっぱい詰まった麻の袋とミネラルウォーターが必ず置かれていた。誰がどうやってここまで運んでくるのかはリリィも知らないらしい。

 手櫛で髪を梳かしてミネラルウォーターを一口飲むことからリリィの朝は始まる。それから麻袋を担いで舟に乗り込むのだった。アーチ状の正門の跡を潜っていくと遠回りになるからと、いつもトイレの壁を跨いで近道をしていたらしい。家屋の大半の壁は膝にも満たない高さまで崩れ消えていた。


「郵便配達の仕事と石膏像のお友達だけでは寂しくなかった?」

 ググゥはもう一度聞く。リリィが寂しくないわけがない。先ほどは強がって大丈夫と答えたに決まっている。

「だからね、鴉と一緒に暮らそうと思ったの」


 リリィが配達する手紙もまた変わっていた。手紙なのに宛名が書かれているものは一通もなかった。差出人の名前が書かれているものは僅かにあったけれども、宛名がないものだから誰に届けてよいのかが分からない。ではどうやって届けていたのだろうか? リリィが手紙を読んで配達先を決めていたというのだ。

 手紙の内容には、近況報告や消息など具体的な連絡を記した類のものはなかった。総て具体性に欠けている。曖昧な独り言のようなものばかりだった。夢と夢を繋ぐ生者から死者への祈りのようなものもあれば、埋没した記憶を呼び覚ますような単語の羅列だけの暗号めいたものまであった。

 この手紙は何となくこの人へといった感覚で配達していたらしい。忘れていたことを不意に思い出したり、失くしていた物を偶然に見つけたり、突然夜中に人恋しい気持ちにさせられるのは私のせい、とリリィは懐かしそうに笑いながら教えてくれた。

 ときどき配達先を間違えてしまうこともあるらしかった。その場合は先ほどと逆の現象、度忘れを引き起こしてしまったり、何となくムカつくといった感情に襲われたりしてしまうらしい。

 一番難しいのは恋文の類で、配達先を間違えてしまうことが大半だった。つまり、こちらの世界では結ばれなかったという結果になるわけだ。ほとんどの手紙が、片想いで終わっても納得してしまいそうな一方的な内容や、表現が抽象的すぎて恋文だと理解してもらえないものだった。しかも肝心な届け先が分からない。しかし宛名を書かないことがこれらの手紙の約束事なのかもしれない、リリィは寂しそうにそう呟いた。成就させてあげたい恋の仕事を失敗したときはひどく落ち込んでしまうらしかった。

 そして配達の報酬の総てをチョココルネに換えていた。


 ググゥとリリィはベンチから立ちあがると、さらに上流を目指して歩き始めた。

 その頃にはもうアスファルトの水溜りも乾き始めていた。空からは蝉の鳴き声が降ってくる。真夏の威勢と比べればまだまだおとなしい。雨の季節が終わり、本格的な夏の知らせのようで、風に騒ぐ木立の音に替わって響き始めていた。

 リリィの仕事ぶりはどうだったのだろうか。リリィのことだから、ときどき風に吹かれるままに道草を食ったり、焼きたてのチョココルネを買うために並んでみたりしていたに違いない。配達に気乗りしない日もあったことだろう。そういう日は、チーズ屋の飼い犬を散歩に連れ出してみたのだろうか。決して不真面目ではなかっただろうけど、マイペースであったように思う。必死になって働いている姿はどの角度から想像を膨らませてみても浮かばなかった。このことは口にすると怒られそうなので胸の内に留めておこう。それに深い悲しみに押し潰されそうな日には、教会から漏れてくる讃美歌に誘われて窓越しに耳を傾けてみたり、屋根裏に忍び込んでは窓から落ちる陽だまりにうずくまって気持ちを落ち着かせたりしていたのだろう。

 もうこの頃には分かっていた。隣でときどき無口になり、けれども盛んに目を動かして、濃く色づき始めた葉の形や小さな花の姿さえも必死に記憶に留めようとしている不思議な生きもの……落ちこぼれ天使のリリィは、寂しがりで、泣き虫で、少し頑固なところがあるけれども脆くて、自身が疲れてしまうほどに優しい心をしていることに。

 ググゥは突然リリィの手をくちばしでつついた。そして立ち止まった。

 不意に歩みを止められて、リリィが驚いた顔で振り向いた。先ほどまでの好奇心に満ちて動いていた目は不思議そうに見開かれ、背をかがめてググゥの乾いた目の奥を覗き込んできた。

 戸惑うことになったのは、間近で向き合ったググゥの番だった。

 美しい虹彩のリリィの瞳に吸い込まれそうになる。

 リリィの瞳はゆっくりと潤み始め、両頬は陶器の人形のように硬くなっていく。どこか不安を抱えているいつもの表情に戻った。

 リリィの目元はいくら夜を重ねても悲しそうに疲れた翳を落としていた。ググゥはその目を静かに見つめることが好きだった。リリィの瞳には、この地からさらに遠くの幻想へと誘う力があった。単音を丁寧になぞるピアノの旋律のようなもの悲しさを連れて。

 その調べに耳を傾けていると、いかなる感情も沈めてくれるのだった。時間がゆっくりと引き伸ばされていくような感じだった。時間を忘れて魅入られていても、リリィの瞳は語りかけてきたり、何かを訴えてきたりするようなことはなかった。ただただ静けさに浸っていられる。だから直接言葉を重ねなくても向き合っているだけで安らぎを得ることができた。

 旋律を追いかけるにつれて、周囲の景色はぼやけ、脳の中心のあたりが痺れてくる。

 リリィの瞳に吸い込まれていく。

 瞳孔が水面に垂らしたインクのように眼前いっぱいに広がると、一瞬だけ我に返って気づかされるのだ。リリィの幻覚の世界に取り込まれてしまったのだ、と。

 そこはいつも同じ景色だった。外の世界の影響を受けない。季節も時間の変化も感じられなかった。だからこそ、この世界に長く居続けることで、リリィの深淵を覗けるような気がしていた。

 まず目に映るのは光だった。

 暗闇の中を、白い光を放っている縦長の長方形の列が奥へ向かって並んでいる。その光に注意を奪われているうちに、次第に様々なオブジェが輪郭光によって模られる。

 長方形の白い光の正体は窓からの強い陽射しだった。左手に長方形の細長い窓が並んでいる。レースのカーテンが手前で風になびき、床に陽だまりを落としている。それらを確認し、今自分がいるのは室内であると認識し始めると、次に部屋の様子が浮かんでくる。内壁はコンクリートの打ちっぱなしの無機質な作りだった。天井は高い。窓からの陽射しが強いのだろう、相対的に室内は薄暗く感じられ、照明の類が何もないことに気づかされる。

 室内のディティールが構築されると、今自分が柔らかいソファに身を沈めていることを思い出される。目の前には縦長の黒檀のテーブルが置かれていた。適度に磨かれ、気に障らない程度に室内を映し返している。長さは十五メートルくらいだろうか、視線を這わせた先に、背を向けているリリィの姿があった。

 リリィはピアノを弾いていた。瞳を覗くことで聞こえてくる調べはここから奏でられていたのだ。彼女はほとんど背中を揺らすことなく鍵盤を撫でている。声をかけることは憚られ、その姿をじっと見つめてしまうのだった。

 音色は室内で反響されて深みが帯びる。旋律は物悲しくて、その後ろ姿からリリィが不吉なものに憑りつかれてしまったような魔の力を感じることもあった。一緒に幸せを求めているはずなのに。そこはかとなく広がっている不幸の世界に身を投じようとしているようにも、もしくは閉じ籠ろうとしているようにも思え、肌が粟立つような不安を覚えることも多々あった。ピアノと向き合ったリリィの後ろ姿は透明な悲しみに溢れていた。

 リリィの瞳が誘うどこか不吉な幻影をも、ググゥは愛していた。自分も身体の奥底に『憂鬱の微笑』を飼い、『永承の砂浜』という閉ざされた荒野を宿している。リリィの悲しみと根底で繋がっているのではないか、という安心感に似た親しみが感じられるのだ。

 ときにはリリィの奏でる調べの悲しみに耐え切れず、そっと視線を眩しい窓に移して物思いに耽ることもあった。この悲しみの世界からリリィを救い出すことは自分にできるのだろうか、と。また、そうすることが彼女の幸せに繋がるのだろうか、とも。

 レースのカーテンが揺れ、窓の外の世界は眩しい陽射しに溢れている。針葉樹の美しい林がどこまでも続いていた。


「ねぇ、私はどうやってこっちの世界へ来られたのだと思う?」

 リリィの言葉によって幻影は解かれた。陽射しの強さは変わらなかったが、ピアノの旋律は途絶え、代わりに鮮やかな夏の匂いが鼻孔を刺激する。

「どうしてなのかな。湖はこの川と繋がっていて、舟を漕いで、そのままあの駅の近くまで流れ着いたとか。僕は空からあの河へ導かれ、偶然だろうけど、僕はあの河……この川の下流を『流民の河』と呼んでいた」

 おそらく不正解だろう。辻褄は合っていそうだけれど、ありきたりのつまらない発想しか浮かばなかった。

 再び歩き始めた。

 ガードレールの向こうではムクゲの花が咲いていた。夏に似合うその大きな花は、鬱蒼と茂りがちな草木の中では目立っていた。花弁はリリィのワンピースのように柔らかく、そよ風にも揺れる。力強い印象のある夏の花において、薄い赤みを帯びた色彩といい、どこか儚げにググゥの目には映った。

「違うの」

 リリィも同じ花の一群の花を見ていた。

「じゃあ、時刻表に載っていない深夜特急があって、その秘密の電車でいくつもの夜を越えてあの駅にたどり着いた」

「それも違うの。そういう素敵な電車があったら乗ってみたいけれど。ほら、さっき鴉と一緒に暮らそうと思ったって言ったでしょう? でも、鴉はあの小島へ来ることができなかったの」

「どうして?」

 ググゥは、なぜか鴉があの小島に来られなかったことに強い興味を覚えた。新たな動物の登場がこの話に何をもたらすのか。リリィと知り合ってからまだ月日は浅いが、数多くの言葉を重ねてきた。それでもまだ知らないことはたくさんあることだろう。ここにリリィの深淵を知る手掛かりが潜んでいるような気がしてならなかった。鴉は今の自分と同じ黒い姿をしている。それにリリィは鴉のことが好きだと言い、鴉がやって来ることをあの駅で待ち続けていた。

「フワワという名前だったんだけれどね、その鴉。小汚かったけれど、可愛い鴉だったの。小学校の焼却炉の屋根に住んでいて、よく煙突の上で独り空を眺めていたわ。ときどき立ち寄っては話し相手になってくれて。初めて口説いた相手でもあったな、一緒に住もうって」

 そう言って、リリィは空に笑みを投げた。

「ある日仕事を終えると、ふたりで街の中心にあった噴水から繋留していた舟のところまで競争したの。フワワははしゃいじゃって、本当に楽しそうだった。高いところを飛んでみせたり、私の頭の上に飛び乗ってきたりして、余裕をみせてね。それから舟に乗り込んで小島へ向かったんだけれど、途中、いきなり船頭から羽ばたくと、ものすごい勢いで空を旋回し始めて、そのまま垂直に湖へ突っ込んでいったの。驚いたけれど、落下したって感じじゃなかった。自分の意志で潜っていったように思えたから、だから心配もしなかった。それまで本当に楽しそうにしていたのよ。そのうち頭を出すだろうと舟を漕ぎ続けたのだけれど、フワワは頭を出すことはなかった。それからもう二度と会えなかったの。どうしてフワワはそんなことをしたんだろう?」


 その後、藍色の湖は何事もなかったかのように静まり返った。硝子のように凛と張ったいつもの姿に戻ったという。リリィは夜明け近くまで舟で待った。何が起こったのか理解できなくて、そのうちフワワが楽しそうな顔をして頭を出すことを疑わなかったらしい。もうそれは叶わないことなのだと諦めがついたとき、仕方なく小島へと舟を漕ぎ始めた。

 それから短すぎる睡眠を経てベッドで目を覚ますと、これまでと何も変わらない朝を迎えた。テーブルの上には手紙の詰まった麻の袋とミネラルウォーターが置かれていた。その水はタールのように喉にまとわりつき、袋は鉛を担いでいるように重く肩に食い込んだ。その朝以降、その重さが少しも軽くなることはなかった。


「私はね、それから思ったの。あの舟から飛び降りて湖に飛び込んでみたらどうなるんだろうって」

 ムクゲの一群はかなり後ろに遠ざかっていた。ググゥは黙ったまま、リリィの話に耳を傾けていた。

「それから先のことはほとんど覚えていないな。湖の底にはたどり着けなかったような気がする。湖の中は不思議と息苦しくなくて、果てしない夜を独りで膝を抱えながら漂っているような気持ちだったわ。フワワを見つけることはできなかった」

 やはり、リリィはいくら夜を重ねてみても悲しそうに疲れた目元をしている。リリィにとってこちらの世界は、悲しみの夜を越えた先に広がっている世界なのかもしれない。それはちょうどググゥにとっての『永承の砂浜』であるかのように。

 毎日はほんの少しだけ形を変えて目の前に現れる。ふと、そのような言葉が頭を過った。毎日とは紛れもない現実のことなのだろうか、それとも記憶に残らない夢のように書き換えられてしまうものなのだろうか。それとも『悲しみ』のように錯覚として映る眩暈のようなものなのだろうか。現実、夢、錯覚……

 ググゥは再び立ち止まってみた。

 不思議がって、リリィも立ち止まってくれた。

「なあに、ググゥ?」

「リリィ……」

 明日も同じように立ち止まってみせれば、リリィも同じように立ち止まってくれるのだろうか。

 リリィはしゃがんでくれていた。

 首を傾げ、頷いているようだった。

 自然と目が合う。

 リリィは少しだけ泣いていた。

 リリィのどこか幸せを拒んでいるような目は、やはり失った妻のものとよく似ていた。

 ググゥはそっとリリィを引き寄せると、そのまま肩を抱いた。

 首筋からは花の蜜と草原の緑を連想させる匂いが確かに伝わってくる。


 その夜、ググゥはリリィを抱いた。

 触れ合っている肌の感覚でしかお互いを確かめ合うことのできない、藍色の夜の底で。

 触れて感じ合える総てを零してしまわないように。

 目の前のたった一つの大切な存在を永遠に得るために、重ねてきた大切なもの総てを失ってしまうかもしれないという覚悟をもって。


 大蛇の背を思わせる道……陰鬱に茂った山を這っている道はすぐそこだった。この夜の帳の裏で息を潜めていた。

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