第6話 落ちこぼれ天使リリィ

 渡り鳥ググゥが落ちこぼれ天使リリィを初めて見かけたのは、『平和の象徴』の一族が管轄している駅のプラットフォームだった。その駅は、ググゥが墜落したマンションの屋上からでも全景を視界に収めることができた。

 朝の駅の混雑はひどかった。怒号のようなアナウンスが風に乗ってマンションまで届くことも珍しくない。『憂鬱の微笑』を体内に取り込んでから季節は二回りし、ググゥも街の情景に馴染み始めていた。

 季節はというと、春の足音が聞こえ始めた頃だった。夜は幼い花の匂いを帳の裏に隠し、朝陽の微熱とともに緩んだ蕾の芳香が街を包むのは、少し先のことだった。

 季節における匂いの変化は海を渡るかつての暮らしにはなかった。植物の、とりわけ季節ごとの花の香りは、風を失った身に優しく語りかけてくれる声のようでもあり、好きだった。

 二年の静かな月日は、ググゥの心に、安らぎとやつれ、祈りと孤独を絶え間なく投与し続けた。一方、肉体の傷は、望もうが望むまいが、確実に快方へ向かっていた。

 それなりに癒えた身体は、怠惰な時間に溺れている心に希望と苦痛を見せ続けた。明けない夜と暮れない昼が存在しないように。片方だけではなく、必ず交互に訪れるように。

 鳥としてはあり得ないほどに無様な姿と軌道ではあったが、日に一往復程度はマンションと駅を飛ぶことができるまで肉体は回復していた。しかし、背後の『流民の河』を越えて旅を続けるには、背中の翼はまだ重いままだった。

 持て余している時間を役立てようと鳩の一族の仲間に加わろうとしたが、存在自体が異端すぎて叶わなかった。やつれたとはいえ、ググゥの体躯は鳩の倍以上もある。受け入れてもらうには、その巨体が脅威だったのかもしれない。それ故、マンションの屋上を離れ、駅の屋根や線路沿いの看板の上で独り過ごす時間が多くなり、何日も誰とも言葉を交わさない日が続いた。そもそも鳩の女王以外、好意を寄せてくれる鳩もいなかったのだが。

 看板の上で『永承の砂浜』から帰還したときだった。

 佇んだままゆっくりと瞼を開いた。

 空の端はまだ漆黒に縁取られていた。夜明けはまだ先だった。足元の線路は途切れることなく延び、目を凝らしてみても、その先は宵に溶けていて見えなかった。

 視線をプラットフォームへ移したとき、端に一人の女性の姿が目に留まった。

 まだ肌寒い季節だったにもかかわらず、その女性は、裾に花柄の刺繍をあしらった真っ白なワンピースに身を包んでいた。あまりにも軽装すぎでは、と思う。それに乗客にしてはおかしな時間帯でもあった。始発までまだ一時間以上はある。宵闇を背にぽつりと立っている姿からは、綿菓子のような、季節はずれの牡丹雪のような、満開を待たずして散った桜の花びらのような、とにかく儚い印象しか受けなかった。留めておくことのできないほのかな甘さと悲しさ。ググゥの空っぽの胸は、その香りのように目に見えないものをなぜか敏感に感じ取ることができた。

 心を奪われそうになりながらも、もう一つの可能性を考えて目を凝らした。

 背筋に僅かな緊張を感じながら彼女の足元へ視線を移す。

 むき出しの素足の先は白色の可愛らしいミュールに収まっていた。その可能性は否定された。彼女は地面に足をつけている生きものだった。

 これだけでも非日常的なことばかりだったが、観察を続けていくうちに、連鎖的に不思議なところが気になり始めた。

 始発までにはまだ時間がある。それならば夜風をしのげる屋根の下のベンチに座って待てばよいものの、吹きさらしのプラットフォームの端に突っ立っているのだ。そもそも電車を待っているようには見えない。時間を気にしている素振りがないのだ。気ままにコンクリートの島の端で時間と戯れているように映った。彼女は細い両腕をぶらりと垂れ下げたまま口に何かをくわえていたのだから。姿勢を崩すことなく背筋を伸ばしたままで。

 口の何か……たぶん、それは、おそらく、チョココルネと思われた。

 線路を挟んだ看板の上からでは、彼女の表情を正面から捉えることはできなかった。時折吹く風に髪がそよぎ、鼻筋が覗く程度にしか窺えなかった。彼女はチョココルネをくわえたまま、少し顎を上げて、ずっとどこか先を眺めているようだった。

 時間が経つにつれ、彼女の口から飛び出している三角形の尻尾は、上下に振られながら短くなっていく。しまいには全く見えなくなった。彼女は器用に手を使わないで平らげてしまったのだ。

 考えてみる。しかし、夜空を見上げながらチョココルネを頬張る生きものの考えていることなど、想像もできなかった。

 世間からはみ出している彼女に興味を抱かずにはいられなかった。後に振り返ってみれば、このときに彼女とならば共有できそうな何かをすでに感じていたのだろう。当時はその余裕はなく、ただただ風変わりな彼女への好奇心が勝っていた。

 彼女を眺め続けてしまったことには他にも理由があった。

 視界の中心に収まった彼女への印象は少しも変わらない。留まることを許されないような儚さ。生きているのか死んでいるのかさえ分からないほどに生命力は希薄だった。だから思わず彼女の足元を確かめてしまったほどだ。幸いにも脚はあった。となると、残された不可解な問題は彼女の頭になる。背中で揺れている柔らかそうな髪。その赤く染められた頭の上には、天使の環のような訝しげなものが、重力に縛られることなく浮かんでいたのだった。

 その環の存在に気がついたときは混乱した。まだ『永承の砂浜』から目覚めていないのだろうか、と何度も瞬きを繰り返してみた。これは想像すらできない『永承の砂浜』の新たな展開ではないのか、と。しかし悩ましいことに、環は消えてくれなかった。

 再び固く瞑って、鼓動を数え、さらに深呼吸をしてから瞼を開いてみる。

 やはり彼女の姿は何ら変わることはなかった。二本の脚で佇んでいる。というよりも大地と繋がれている。やはりここは現実の世界で、彼女は天使の環を浮かべたままの姿で視界に収まっていた。

 それでも疑い、目を凝らして夜空へ彼女の姿を一度消し、胸に溜まっていた息を吐き尽くしてみた。

 勢いよく、白い吐息が宙を泳ぐ。

 その様を確認し、ようやくこれが紛れもなく現実の世界の出来事であると自分を納得させることができた。

 環はあっても、彼女は物語によく登場する天使の姿とは少しばかり異なっていた。まだ宵という時間帯であるにもかかわらず、天使の環は神々しく輝いていないのだ。不能になった蛍光灯のように黒ずんでさえ見える。もっと近寄って覗き込んでみれば、うっすらと埃が積もっている様を確認できそうな気もした。それほどに神秘さとかけ離れていた。

 そうはいっても、浮かんでいる環を天使の環と見做し、彼女が天使であると仮定するならば、もう一つ大きな問題を対処しなければならなくなる。天使の最大の特徴ともいえる立派な翼は、天使の環以上に目を凝らしてみても見つけることができなかったのだ。実は着脱可能なのかもしれない。彼女の足元やベンチに置かれていないだろうかと想像を膨らませてみたが、それらしきものはどこにも見当たらなかった。

 『孤独の国』に流れ着いてから心穏やかに過ごせたのは、鳩の女王と語り明かした一夜を除いて、これが二度目のことだった。

 妻を失ったことと翼を失ったことばかりが頭に居座り、早二年以上の月日が経った。鳩の女王と話をしていたときは、感傷の色を帯びながらも『伝説のカモメ』に憧れた蒼い時代の思い出に逃げ込むことができた。今は過去に縛られることなく、目の前の彼女について自由に想像を巡らせている。心は過去に囚われることなく軽かった。

 彼女に対する想像は、数歩さらに進み、一つの結論にたどり着いた。

 天使もお腹が減る生きものなのかもしれないし、頭の環もときどき手入れをしなければならないのかもしれない。それに、鳥さえも羨むような美しい翼は、誰しもがもっているものではないのかもしれない。

 彼女は空を飛んで移動することができないから、だからこうして電車を待っているのだろうか。

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