第5話 憂鬱の微笑

 ググゥはそのまま鳩のコロニーに逗留することにした。落下したこのマンションの屋上から移動することができない。そういう現実的な問題からでもあった。満足に歩けるようになるには、まだ時間はかかりそうだった。

 肉体の傷以上に深かったのは心の傷だった。翼の回復も望めなかったが、こちらの回復はさらに見込めなかった。空という白地図に、目的や希望という線や形が浮き上がる日は来るのだろうか。足を地につけたまま何もない空と昼夜向き合うことは、想像していた以上に苦痛だった。

 心を失くしたまま、ぼんやりと空を見上げる日々が続く。

 翼を失った今、新たな生きる価値を見出すことは難しかった。これまでの生き様の総ては翼と空と共にあったのだから。今は冬の土壌で眠っている球根のようなもの。そう思い込ませなければどうにかなってしまいそうだった。辛抱強く絶えざるをえない。いつかは必ず何かが芽吹くと期待して。そう信じて。

 できるだけ鳩の一族、とりわけ鳩の女王に迷惑が及ばないように片隅で時をやり過ごした。

 芽吹かないまま空しく夏は去った。

 秋も深まりを見せ始めていた。

 昼間のほとんどの時間をまどろみの国で過ごし、静まった夜になると、マンションの屋上の端で佇み続けた。繰り返される日々に、こちらと『永承の砂浜』との壁は薄くなっていく。日を重ねるごとに時間の感覚は鈍くなり、昼も夜も、現実も夢も、中庸な灰色へとくすんでいった。

 視線を落とした。

 眼下には、海に落ちた月や星の煌めきに似た街灯が散らばっていた。地上と夜空を交互に眺めては、目を開けていても覆いかぶさってくる巨大な影、夜という己を映す鏡と向き合った。

 無言の対話は夜が明けるまで続く。

 飛べない鳥に堕ちた今、他にすることがない。逃げ出すことも、風に任せて新しい目標を追いかけてみることも叶わなかった。つまりは『憂鬱の影』を追い払う術がなかった。

 変化の乏しい静的な日々は、これまで抱えてきた『憂鬱の影』をより濃密なものへと成長させた。より明確な形をした『憂鬱の微笑』へと。微笑も影も本質に変わりはない。どちらも忘れることができない想い出が産み落としたもの。

 微笑も影と同様に語りかけてくることはなかったが、やっかいなところは、意思のある生きもののような気配を感じさせることだった。臨んでいる夜の向こうから、または息が届きそうなすぐ隣から。不快な距離感と親近感をちらつかせながら、絶えず傍で呼吸を繰り返しているのだ。

 思い返せば、『憂鬱の影』は、水溜りや壁のように目に見えるだけの障害物にすぎなかった。避け続けることが困難にならなければ、呑み込まれてしまうことはない。実際に妻を失ったことで産まれた影を振り払いながらこの地まで飛び続けてきた。大地に足をつけることを避け、視界が影に閉ざされてしまう睡眠を拒みながら。

 しかし、翼を失い、逃避という行動も奪われたことで、『憂鬱の影』に囚われてしまった。

 他の価値観を見出すことが難しい環境下において、睡魔と対峙し続けることは難しい。日中は鳩の一族の冷淡な視線を避けるためにも瞼を重ねざるをえなかったし、陽が落ちて鳩の一族が寝静まった頃には、目を開けていても天蓋を覆った影の海が待ち構えている。

 望んでいなくても、終日『憂鬱の影』と向き合い続けることになる。しかし、そうした日々を重ねたことで、影の本質や正体の一端を垣間見ることができるようにもなった。避けたいと目を背けながらも距離を近くに置いてしまった結果だ。『憂鬱の影』が身にまとっていた曖昧なベール、その裏に隠されていた素顔、微笑を知ることになったのだった。

 あらゆる微笑は直接命令を下すことはしない。唇の端を軽く持ち上げてみせるだけだ。それだけで向き合っている者を惑わし、動かしてみせる。

 この静かな意思表示の方法は、『憂鬱の微笑』も同じだった。ただ微笑まれるだけで動揺を誘われ、気力と体力はすり減らされていく。疲労が蓄積され、感覚が麻痺し始めたところで、より怠惰なほうへ転がされていくことになる。

 『憂鬱の微笑』は、決して培ってきた感情や価値観を逆なでしたり、否定したりすることはしなかった。無言でいつも許してくれる。疲れたら休めばよい、と。逃げたくなったら逃げ出したらよい、と。捨てたくなったら捨てればよい、と。地面が傾くものなら無理して立ち続ける必要はない、と。転がれば楽になれる、それが自然だ、と。そして翼がなければ飛ぶ必要はない、とも。何もかも許してくれるのだが、背中を押されるように励ましてくれることもなかった。ただ許してくれるだけ。時間を重ねるたびにより怠惰なほうへと誘われるだけだった。

 そうなると、周囲への関心は希薄になり、身体の奥底には動かすことのできない安らかな鉄球が生まれる。その鉄球の重力に引かれるように心も身体も動かなくなり、空はより高いものとして心に映るようになる。

 ググゥにとっての安らかな鉄球、それは『永承の砂浜』だった。『憂鬱の微笑』は、こちらのほうが心地よいと微笑みかけてくるのだ。誘われるままにこの砂浜で永久に過ごしたいと思うときもあれば、二度と呑まれたくないと嫌悪を感じるときもあった。近づきたくなったり、離れたくなったりする。いずれにしても世界の中心は『永承の砂浜』であり、この衛星軌道から逃れることはできなくなっていた。つまり、近づきたくなったり離れたくなったりすることはあっても、決して捨てることができないのだった。

 飛ぶことが叶わず、『憂鬱の影』から成長した『憂鬱の微笑』と向き合い続けたことで、眠りに落ちると間違いなく『永承の砂浜』へ誘い出されることを確信した。逆手に捉えてみれば、確実に『永承の砂浜』へたどり着ける手段を会得したことでもあったのだった。

 いつも見慣れた砂浜で意識が覚醒していることに気がつくのだ。

 この世界へ導かれる仕組みも方法も理解していた。しかし、その逆は分からなかった。砂浜から自分の意志で帰還することができない。

 そして、目覚めは予期せずに訪れる。砂浜で立ち尽くしながらときどき思うことがあった。いつかは二度と帰れなくなる日が訪れるのではないのか、と。それは不安でもあるが安らぎでもあった。『永承の砂浜』に心は静かに染められていた。

 帰還方法……それはこの内なる世界の殻を自らの力で突き破ってみせることに他ならなかった。『永承の砂浜』の空の高みを目指して飛翔し続ければ、やがて天の壁にぶつかるだろう。その壁を打ち破ってみせることで、外の世界へと自分の意志で帰還を果たすことができるのかもしれない。

 しかし、砂浜に取り残され、空を見上げるたびに思い知らされるのだった。たとえ夢の世界であると認識していながらも、淡い青色を滲ませている空に傷をつけてみせることなど不可能なのだ、と。妻を失い、自分の胸にナイフを突き立てられなかったことと似ていた。天の壁を打ち破ってみせるには、まだ何かが足りないのだ。その逡巡さえも見透かしているのだろう、夜の闇に紛れた『憂鬱の微笑』は、そっと微笑んでくる。


 ググゥは砂浜に立ち尽くし、海面と空が混ざり合う境目を眺めていた。ときどき目を凝らしながら。

 黒い粉雪が僅かに視界を邪魔する。この世界を訪れるたびに黒い雪は増えていた。雪の量と反比例するように、空や海からは青みが少しずつ抜かれているように感じられた。

 今、ググゥの胸の奥底には残っていた。この世界の外へと挑戦しようとしている気持ちが。あとどれくらい維持できるか自信はないが、まだ冷めておらず温かいままだった。その熱は『憂鬱の微笑』に抵抗している心の灯かりでもあった。

 この世界が現実とは陸続きではない彼岸の世界であるのならば、延々と飛び続けることができるのかもしれない。海や空の果てまでたどり着き、その先は何も存在しない真っ白な景色が広がっているだけだとしても。たとえ際限のない白の闇を迷走する羽目になったとしても。これまでは安らかな鉄球に心の熱までも次第に引き寄せられてしまい、試してみたことはなかった。

 挑戦を促す最大の要因は背中の軽さだった。痛みなど違和感がない。この世界において、翼は失われていないのではないか。これまでは、心が肉体を縛り、動けずにいただけなのかもしれない。

 しかしこうして覚悟を固めているうちにも、決意を蝕む他の意志の胎動を胸の奥底から感じていた。巣食っている『憂鬱の微笑』……そのものの感情であるかは判断できなかったが。『憂鬱の微笑』が脳裏で唇の片端を吊り上げてみせたことは確かだった。

 熱をもったままだった決意は、急速に冷却されていく。

 この『永承の砂浜』は、最愛の妻が砂へと消えてしまったことで生まれた世界。妻の姿こそなくなってしまったものの、彼女が残してくれた海も空も太陽もある。景色は変わっても慣れ親しんだ『祈りの島』の面影を感じることができる。妻と別れた直後は、これら親しんだものが総て届かない果てまで飛んでやろうという気持ちが勝っていた。その覚悟をもって一族に別れを告げて旅立った。逃げ出すという空っぽの目的のみを携えて。

 その目的は、翼をもがれてコンクリートの島に墜落したことで達成することができた。鳩のコロニーには海も潮風もない。埃っぽい匂いを連れて風は舞う。後ろ向きの目標の達成と引き換えに、空を渡る力と鳥としての誇りを同時に失った。それはあまりにも大きすぎる代償だった。

 空が遠く離れてしまった現実に身を委ねている今、『永承の砂浜』の空を突き破ってみせることに価値はあるのだろうか。

 殻の外の世界……現実の世界だけで潔く生き抜くことを選んだのならば、幸せが準備されているのだろうか。そのようなことはないだろう。では、せめて誰かが褒めてくれるのだろうか。それもない。重い翼を背負って生き続けるしかないのだ。想像するだけで眩暈が起きそうだった。空を飛べない鳥に価値はない。不能者であることを意味しているのだから。今ではこの『永承の砂浜』のほうが心に馴染み、愛着さえ感じ始めている。つまりは失うことを恐れているのだ。そう考えることは間違いではなく、正常な判断であることにも自信があった。もし夢の世界だけで生き続けることができるのならば、こちらが現実へと取って代わる。

 こう結論づけたとき、頬に懐かしい風が撫でた。

 ほのかに温かくて、甘くくすぐる微かな匂い。

 南国の果実と潮風を連想させられる稀有な芳香は、間違いなく失った妻のものだった。

 その風は目の前の海から渡ってきたものではない。一度も振り返ろうとしなかった背後から流れてきていた。

 胸の鼓動が激しく高鳴った。

 息苦しさと眩暈に視界は揺らぐ。

 そのような奇跡は起こらない、絶対に。

 胸の高鳴りを抑えつつ、ゆっくりと身体を後ろへ捻った。

 僅か数メートル離れたところ、最愛の妻は翼をたたんで眠っていた。

 この砂浜へ来て初めて足を動かすと、気持ちの向うまま転がるように妻の元へと駆け寄った。その安らいだ表情は、少しずつ記憶から褪せていく妻のものに間違いなかった。


 ググゥは初めて妻の寝顔を眺めて夜を明かしたときのことを思い出していた。

 求愛のダンスを踊って迎えた夜のことだ。踊った後、ふたりは抱き合う形でそのまま横になった。緊張していて疲れていたはずなのに、ググゥは眠ることができなかった。見染めて声をかけたときから先ほど踊っていたことまでのことが、洪水のように頭を巡るのだ。

 急流に身を任せていると、その一つ一つが、偶然と奇跡という見えない石で積み上げられた塔のように思えた。どれか一つでも欠けていたのならば、塔は建っていなかった。石の形が異なっていても崩れていただろう。こうして幸せな夜を迎えることはなかった。お互いに出会う前のことでも、出会った後のことであっても。塔はそれほど絶妙なバランスの上に築かれていた。

 そう考えると、眠る時間さえ惜しくなった。だから、寝ないことにした。

 夜風で身体を冷やさないように翼を広げて妻を覆うと、これまでの自分の人生までも振り返った。

 太陽が昇り、そろそろ妻が目を覚ます頃になると、さすがに眠たくなった。半ば意地だった。ここまで起きたのだから、妻が目を覚ますその瞬間まで見届けてやろう、と。

 なかなか目を覚ましてくれなかった。

 波の音が次第に大きくなる。満潮が迫ってきていた。少しじれったくなり、羽先で妻の顎の裏をくすぐってみた。

 妻は微笑みながらうっすらと目を開いた。

「僕は昨日の夜、とても大きな恋を見つけたよ。抱いているときの君の顔と眠っているときの顔を見て、これから先も大きな恋を君にするんだろうなって確信した」

「眠っていないんでしょう? 顔が昨日と同じで疲れたままよ。だからそんな変なことを思いついたのでしょう?」

 確かにググゥは眠たくて仕方がなかった。それこそ油断したら瞼が長くくっついてしまいそうなほどに。しかし、眠気に負けてぼんやりと霞んでしまわないうちに伝えないといけない言葉を見つけていた。文字にして記しておけばその言葉は永遠に残るかもしれないが、捕まえたての魚のように鮮度は急速に失われていく。

「僕は年老いた君を性懲りもなく抱き続けるだろう。いつまでもキスしたり、機会を見つけては口説いてみたりと。そのうち君は呆れてしまうに違いない。微笑んだまま軽く流されしまうんだろうな、きっと」

「またそんなことを言って。私はまだまだ若いつもりよ」

 妻は首を傾げ、いつものように微笑みながら見上げていた。朝陽が眩しいのか、僅かに目を細めた表情で。

「でもね、それでいいと思うんだ。君が笑ったときの皺や、疲れがちな表情をして眠っている素顔を見ていたら、そういう未来がはっきりと見えたんだ」

 ググゥも首を傾げて妻を見つめた。

 朝陽を受けて輝いている妻の瞳が眼前に広がった刹那、そのまま深く澄んだ瞳孔の奥へと吸い寄せられた。


 ググゥは起き上がると、ありったけの声を絞り出して叫んでいた。空の端へと傾いた下弦の月を背に。

 『憂鬱の微笑』に魅せられて狂ってしまったのではなかった。また、『永承の砂浜』の殻を突き破ることに成功したわけでもなかった。ただ限界だった。これ以上行き場のない気持ちを心に飼い馴らしておくことができなかった。

 このままでは身体と心が二つに引き裂かれてしまいそうだった。現実と彼岸の世界。かけ離れた世界だったが、どちらも肯定も否定もできなかった。行き場の失ったエネルギーは、慟哭となって口から天を目指して吐き出された。

 ググゥは東の夜空を睨んだ。

 確かにあった。

 空の端が白み始めた夜空に、唇だけがぽっかりと浮かんでいたのだ。

 その唇は、ゆっくりと口角を持ち上げる。

 『憂鬱の微笑』は確かにググゥに向かって微笑んでいた。唇以外の表情は宵に曖昧に溶けていて窺い知れない。生々しく、不気味で、ググゥの足をすくませる。

 動くことができなかった。

 ググゥは大きく口を広げると思いっきり息を吸い込んだ。

 『憂鬱の微笑』は吸い寄せられていく。

 そのまま、『憂鬱の微笑』をありのままの形で、ググゥは食べてしまった!

 どうしてそのような突拍子もない行動に出てしまったのか、自分でも分からなかった。とにかく『憂鬱の微笑』という存在を目の前から消してしまいたかった。しかしその方法が分からなかった。目の前に現れたものだから、身体の奥へと隠してしまいたかった。想い出の『祈りの島』から逃げ続けたことで産まれた『憂鬱の微笑』。その惰性に身を委ねることも決別することもできなかった結果だ。絶えずその厄介な存在を内に感じることになるにせよ、捨てることも殺すこともできないのならば共に生きてやろう、と無意識に判断を下したのだ。

 閉じ込められた『憂鬱の微笑』……その微笑がもたらす『永承の砂浜』は、文字どおりググゥの中で永承されることになった。

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