第4話 鳩の女王
ググゥが『永承の砂浜』から帰還したとき、空気は熱を含んで膨張したままだったが、屋上を吹き抜く風は幾分涼しくなっていた。
風は僅かに『流民の河』の匂いがした。夜空には上弦の月が浮かんでいる。どう目を凝らしてみても、消失した部分を宵闇から救い出してあげることはできなかった。
「あなたのことを見ていると、その昔、同じように傷ついてこの群れに迷い込んできた一羽の鴉のことを思い出してしまいます。あなたのように頭から派手に飛び込んでくるようなことはなかったのですが」
驚くことに鳩の女王が隣に立っていた。背中のコンクリートの匂いは変わらなかったが、場所も移されていた。おそらく群れの目につかないところへと移されたのだろう。招かれていない客人であることは理解していた。だからなおさら、全身の傷が手厚く手当されていることには驚かされた。
「僕はどのくらい……意識を失っていたのですか?」
「あれは一昨日の午前中の出来事でしたから、二日半ほどでしょう」
「そんなにも……」
『永承の砂浜』の景色が思い出された。あの変化の乏しい砂浜にそれほど長く佇んでいたことになる。眠りに落ちると迎え入れる、迎え入れてもらえるあの砂浜は、彼岸の国との国境なのかもしれない。
起き上がってみただけでも痛みが全身を引き裂いた。それでも傷口に溜まっていた熱はかなり引いていた。それに夜では確かめようはないが、視界もほぼ正常に戻っているような気もする。
「手当をしてくださってありがとうございました。この御恩は一生忘れません。何か恩返しをさせていただきたいのですが、群れから抜け出した身であり、御覧のとおり何も持ち合わせはございません」
ググゥは正直な気持ちを口にした。頭をコンクリートに打ちつけて死んでしまったほうが楽だったのかもしれないし、もう飛べない身体になってしまったのならば、気を失っているうちに『流民の河』へ捨ててくれたほうが幸せだったのかもしれない。しかし、と思い留まってみる。こうして高い場所で受ける夜風は確かに気持ちがよかった。何よりも数百日ぶりに誰かに優しく接してもらえたことが嬉しかった。そう捉えている感情は身体の奥深くにまだ残っていた。
「それは当然までの行為……と申し上げたいのですが、私たち一族は、自身の掟に対して厳格に対処します。いささか封建的すぎるほどに」
「そのことは耳にしています」
「このことが同族の他の一団の知れるところとなれば、この一団は小さなものですから、あなたは殺され、私たちもこの地を追われるか、虐殺されてしまうことでしょう」
鳩の女王の言葉は終始月に向かって投げかけられている。
「それに、その翼ではもう二度と満足に空を飛ぶことはできない、かもしれません」
このときだけ、鳩の女王はググゥを見やった。一瞬だけ視線は交わり、その後は静かに視線を夜空へ戻した。
かもしれません、という鳩の女王の言葉は、間違いなく気遣いの類だろう。ググゥ自身、空中で翼が絶望的に砕ける音を聞いた。鳥の翼は神秘的な進化を経て授かった繊細な賜りもの。その骨格が疲労に耐え切れずに悲鳴をあげたのだ。とても自然治癒だけで回復するとは思えなかった。自分の身体であるだけに、そのことはググゥ自身が一番理解できていた。
他の鳥たちも例外ではないだろうが、ググゥのように空と海を渡る一族にとって、道標となる風を受ける翼を失うことは、生活と誇りを同時に奪われるだけではなかった。恋も、その先に続く愛をも、深い闇の奥へと忘却しなければならないことを意味していた。
いかに速く高く、そして遠くまで飛べるかということは、鳥の種族によって異なる部分はあるにせよ、雄鳥にとって己の魅力を誇示するのには最も有効的な表現だった。
誰よりも速く飛べれば、いち早く獲物を狩ることができる。それに愛する者の元へ誰よりも早く帰ってくることもできる。また、誰よりも高く遠くまで飛ぶことができれば、世界を広く深く知ることができる。そうやって愛する者を口説き、愛を語らった後には求愛のダンスを踊る。その素晴らしい時間をもう二度と過ごすことができないのだ。飛べなくなった雄鳥に価値は残されていない。
ググゥはあまりにも有名すぎる『伝説のカモメ』の逸話を思い出した。もう数十年も昔の話らしい。そのジョンソンという名のカモメは、孤高の極みに近づくために一族と決別し、高く、そして速く飛ぶことに生涯をなげうった。しかしあの『伝説のカモメ』も、今の自分と同じように志半ばで翼が折れてしまったのならば、その後はどうしたのだろうか。もがれた翼を酷使して、それでも孤高の果てを目指して飛び続けたのだろうか。それとも、飛ぶことと同じ価値のある別の目的を見出して、果敢に残りの人生を捧げたのだろうか。
「あなたもあの『伝説のカモメ』に倣って旅をしている者ですか?」
ググゥは思わず耳を疑ってしまった。心を読まれたような気恥ずかしさにも襲われた。それ以上に『伝説のカモメ』という言葉が、鳩の女王から発せられたことが意外だった。あの逸話は、一族の尊厳と伝統という掟に背き、裏切り者となって活躍する話。封建的な『平和の象徴』の一族の間では、間違いなく禁本の類に括られているはずだった。
ググゥは宵に溶けたおぼろげな鳩の女王の横顔を窺った。
「いえ、僕は彼と比較されるような立派な鳥ではございません。自分の『憂鬱の影』から逃げ回って飛び続けただけの、ただの『愚か者』です」
『祈りの島』に別れを告げて、幾百日もの夜を休まずに飛び続けた。赤道直下の暑さに眩暈を起こす昼も、大雨に見舞われて翼が何倍にも重くなった夜もあった。嵐に揉まれて方向感覚を失っても飛び続けた。
これらの飛行は、まさに自分の影から逃れるための逃避行そのものだった。高く飛べば落ちた自分の影は薄く見えなくなり、着地や着水を許してしまえば影とくっついてしまう。足を影に掴まれてもう二度と飛べなくなるような気がして怖かった。影と向き合うことは、今の惨めさをみせつけられてしまうようで辛かった。
睡眠を拒み続けたことも同じ理由によるものだった。瞼を閉じれば視界は暗く閉ざされる。瞬きだけでは閉じられた視界に影を感じることはないが、眠りに落ちてしまえば、必ず救いようのない夢に囚われてしまう。瞼の裏に広がった果てしない影の海に溺れてしまうのだった。
このことはこれまでの経験からも容易に予想できた。だから、『祈りの島』を飛び去るとき、充分に覚悟をしているつもりだった。しかし、それなのに、『流民の河』に着水し、眠りを許してしまった。自覚されないまま心が飛ぶことに対して耐えられないほどに押し潰されていたのかもしれない。または、酷使し続けてきた身体が孤独に耐えられなくなっていたのかもしれない。ここまで飛び続ければもう忘れることができるだろう、という甘い憶測を残したまま。もしくは、河という大地の涙と枯れ果てたと思っていた胸の奥底の涙がお互いに引き合ったせいなのだろうか。
いずれにしても、予想されたとおりの結果となった。逃げ続けてきた影に足首を掴まれ、そのまま眠りの世界で『憂鬱の影』に囚われながら過去と対峙させられることになった。
そして目覚めた後は、最悪の出来事へと繋がることになる。束の間の休息を与えられた肉体は、一晩で錆びつき、翼を失った。『祈りの島』を去ってから幾百日ぶりに見た夢は、甘いひとときとは程遠い結果を周到に準備していた。
『祈りの島』からの逃避行は、まずググゥを不眠に陥らせた。身体はいくら飛び続けても疲労を知ることはなかった。そもそも一族は長距離飛行に長けていた。しかし夜を迎えても、夜が何事もなく明けても眠気には襲われなかった。
最初の夜が明けたとき、このような日があと数日は続くのだろうかと覚悟していたが、それはほんの一歩目にすぎなかった。本能が眠ることを拒絶し続けた。それほどに瞼の裏の世界は内なる本質に肉薄していた。残酷すぎるほどに生々しく、両眼を開いて映る悲しみの錯覚の世界のほうが怠惰で、まだ優しかった。
「あなたのような地位の方の口から、『伝説のカモメ』の言葉を耳にすることになろうとは思ってもいませんでした。問題はないのですか?」
ググゥは慌てて話題を戻した。悪寒が背中を撫でたのだ。『憂鬱の影』は夜と相性がよい。しかも飛べなくなって動けないのであればなおさらだ。ふとその厄介な影に忍び寄られたような気配を感じた。
「一族の尊厳と伝統に背を向ける話ですからね。平和の象徴を背負わされた私たち一族にとっては、掟に疑問を挟むことさえ許されることではありません。そのことはおそらくあなたも御存知でしょう。あのとき、あなたの命を奪わなかったことで、もう禁忌を犯してしまいました。今さら『伝説のカモメ』を口にすることなど些細なことにすぎません。それに、今は私とあなた以外の者は眠りについています」
鳩の女王はいくらか警戒を解いてくれたらしい。詳しい理由は分からないままだったが。しかし噂に違わず、『平和の象徴』の自身の掟に対する姿勢は厳格だった。鳩の女王の立場を考えると、容易にお礼の言葉を述べることさえも憚られた。
「あなたはまだ若い」
「いえ、もう向こう見ずに突き進むには歳をとり過ぎてしまいました。今は、両眼に映る世界がそのまま真実であるとは信じられません。景色は絶えず変化して心に映ります。錯覚に囚われ、惑わされ、迷走ばかりを繰り返してしまいます」
このとき、ググゥは鳩の女王が宵に紛れて密かに笑うのを見た。
確か、この一族は微笑むことすら禁止されているはずだった。微笑みは解釈の誤解を招いてしまう。確かそのような理由だったように記憶している。
「そう、あなたは自分の影に怯えるほどの経験を積んでいます。それに不幸にも翼を失ってしまいました。若さ。もしあなたが輝かしい希望ばかりに満ち溢れている若い鳥ならば、迷わずにあなたのことを殺していたことでしょう」
妻と翼を失ったことで、ここでは生を得ることができた。それに久方ぶりの会話も。運命とは不思議なものだと思う。望むことも望まないことも予期できることは何もない。いつも突然の繰り返し。
妻を失ったことで、人生の幕を下ろすことに恐れはなかった。しかし自らの意志でナイフを胸に突き立ててみせるには、何かに対する憎しみが足りなかった。だから摩耗して力尽きることを望むような飛び方を続けてきた。翼を失った今でもその気持ちは変わらなかった。だから、思う。だから、まだ生きているのだ、と。
「私たちのような『平和の象徴』と呼ばれている者が、他者を殺めるなんて意外と思われたことでしょう。私たちに課せられた『平和の象徴』とは、勧善懲悪のような整然とした秩序のことなのです。世界はまだまだ成熟できないまま混迷しています。混沌と平和を結びつけることが苦手なのです。それこそが平和の扉を開ける鍵であるというのに。だから掟という言葉を絆とし、外部から社会を閉ざそうとしてしまいます。疑問を相容れないものとしてしか処理できないのです」
正義と加虐は、大義という栞を挟んで紙一重に存在しているということなのだろうか。
「私たちは『平和の象徴』ともてはやされていますが、作られた『永劫のブリキ』の一族でもあるのです。あなたは『愚か者』の一族であるのかもしれません。しかし、私はあなた方の一族のことを、『恋情』の一族であるとも思っています。『平和の象徴』としての私たちは、容易に個々の取り替えを行うことができますが、『恋情』の一族として生きるあなた方は、個々の取り替えがきかない。この女王の座にしても、女王たる資格のある者が就くのではなく、その席が空いているから誰かが就き、与えられた役目を振る舞うだけなのです。私も運命の輪から解き放たれる日がくるのならば、次はあなたの一族として生を授かりたいものです」
「しかし、恋愛に別離はつきものです。楽しいことばかりではございません。ときには生き地獄のような日々を繰り返すことがあります。別離を迎えた日には、朝と夜が混ざり合った果てしなく怠惰な世界を彷徨うことになります」
「それさえ私たちにしてみれば彼岸の国の話のようなもの。その向こう岸の世界へと深く険しい海峡を渡ることを、夢見た日もありましたよ」
ググゥは鳩の女王の思いもよらない告白に驚いた。
隣には年老いてはいるが、一団を統べる鳩の女王としての誇り高い顔があった。おそらくその昔、周囲の空気さえも変えてしまうほどの美しい一羽の鳩だったに違いない。若かりし頃の美貌の面影が、今は気品として残っている。
彼女が一団の長をしているということは、最大の理解者でもある夫はすでに他界しているのだろう。愛する者に、その年老いていく姿を、皺を一つ一つ刻んでいく様を片時も離れずに見守ってもらえなかったことは、あまりに不幸で悲しすぎる。
「もうじき夜が明けます。この話はどうか忘れてください。居心地が悪いと感じられるかもしれませんが、あなたさえよろしければ、あなたが望むまでここに留まってもかまいません」
一羽の鳩から象徴としての鳩の口調に戻ったとき、鳩の女王は陽が昇る空を静かに見据えていた。
ググゥは鳩の女王の言葉を聞きながらその横顔を見ていた。瞳に宿っている感情の色までは読み取れなかった。
「忘れはしません。『恋情』の一族として愛した妻のことを。そして時々思い出します。ここであなたと語り合ったこの夜のことを」
鳩の女王は僅かに目を細め、まだ幼い朝陽にさえも溶けてしまいそうなほどの小声で呟いた。
「ありがとう」と。
ググゥも明けていく空を眺めていた。鳩の女王の言葉を聞かなかった振りをして。そっと彼女の最後の声を胸の奥へと眠らせた。
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