第3話 永承の砂浜

――もうどのくらい僕はここにいるのだろうか?


 その記憶は曖昧だった。

 頭の時計は壊れたままで、ずっとここに佇んでいる……ような気がする。

 どこにいたのか思い出そうと記憶の土壌を掘り返してみても、

 つい先ほどまでの自分……

 ここで立ち尽くしてぼんやりとしている自分……

 その姿ばかりが繰り返し浮かんでくる。

 その自分も今の僕のように、

 何かを考えているようで、

 何も考えていなさそうだった。

 自分と同じ姿の者と向き合っているばかりでは、

 脳裏の煙のような思考、独り言の脈絡は怪しくなってくる。

 口からはなぜか数字ばかりが零れ、小声で繰り返されていた。

 この世界は退屈で仕方なかったけれど、

 何も起こらないという点においては極めて安穏な世界だった。

 何も起こらないということは、優しい。

 優しいものは、海、風、砂……

 そして……

 なぜか、自分でも分からなかったけれど、空を仰いでみた。

 太陽の光は眩しくて、思わず視線を落とし、

 目をしかめてしまった。

 足元からの照り返しが眼を透く。

 忘れようとしまい続けてきた『祈りの島』の朝陽、

 同調し始め……

 過去を思い起こさせる光となったとき、

 ……自覚できた。

 ここが夢の世界であるということに。

 夢の中で意識がはっきりと覚醒していることに。


 ググゥは世界を分割する水平線を見つめたまま、飽きることなく砂浜に佇み続けていた。意識を自覚できるようになった今でも、身体は眠ったままのように怠惰で重かった。飛び立つ気にも歩き出す気にもなれなかった。

 おそらくここは昨夜夢で訪れた場所だろう。『祈りの島』の崖が崩れて生まれた砂浜。

 昨夜の夢と違い、囲まれていた砂の隆起は風に削り取られ、よりなだらかになっていた。そのせいもあって、視界は開け、目の前には広大な海が広がっていた。

 足元の砂の粒はきめ細かく真っ白だった。その繊細な砂を撫でるように漣が打ち寄せては引いていく。白波を立てない穏やかな様は、湖の畔に佇んでいるのではと思わせるほどだった。しかし、風は海の匂いを帯び、水平線の彼方から運ばれてくる。空を映した海は、白い砂を透かしたまま視線が霞む先まで続き、群青色に染まっている水平線は、そのまま空へと溶け込んでいた。見渡してみても、他の島や大陸の端くれさえも見当たらなかった。

 この孤島と他の世界が繋がっている手がかりを探し、視線を空へと再び向けた。

 そこにも何もなかった。鳥もいなければ、淡い雲さえも滲んでいない。透明度の高い青空が天蓋を覆い尽くしている。その遥か上空の果てに、真っ白に燃えている太陽がこの世界にも鎮座していた。

 水平線へと視線を戻す。

 余計なことは考えたくはなかった。

 一つ息を吐くと、目を瞑る。再び無限へと向かう数字を呟き始めた。

 数字を数え続けることで意識をこの世界に留まらせ、いつまでも居続けることができるかもしれないと考えたからだ。根拠はない。覚醒したときにはすでに数字を呟いていたのだから。

 変化を求めないのであれば、何も変えないことのほうがよいに決まっている。この世界から引き剥がされ、現実へ連れ戻されることが怖かった。何が目覚めを引き起こすのかは分からない。それならば、心穏やかに、これまでと同じことを繰り返していることが賢明だろう。

 退屈な砂浜に取り残されても、密かに願い、待っていた。消えた妻が砂の中から現れてくれることを。目を再び開いたとき、静かに隣に座ってくれていることを。

 何度も目を瞑っては、数字を呟き、同じことを繰り返してみる。

 しかし、そのような奇跡は起こらなかった。その度に落胆し、視線を足元まで落として妻の横顔を砂浜に映し出した。この報われない作業は、今の自分をさらに苦しめるだけにすぎないことは分かっていたが、どうしても止めることができなかった。苦痛以上に、妻の姿を忘れてしまうことのほうが怖い。忘れるために『祈りの島』を離れて飛び続けてきたはず、なのに。

 思い返せば、若かりし頃は絶えず未来に怯えていた。未来は新しい何かを与えてくれる白地図ではなく、逃げ切ることを許さない死神のようにつきまとわれるものだった。未来はいつだって失うことを準備して待ち構えている。追いかけて手に入れたものは、後は失うしかない。一番の幸福を感じた時点で、後は降っていくだけだ。しかし世の道理は不条理なもので、その逆は当てはまらない。追いかけたものは必ず手に入れられるわけではないし、待っているだけで訪れてくれることもない。

 それでも人生を重ねて悟ることはある。追いかけなければ手に入れられないものはたくさんあるということ。総てを追いかけるには時間はあまりにも足りなさすぎることも。

 手に入れた幸せの一つが、失った妻だった。妻に対してはいつまでも恋情を抱き続けたかった。特別だと感じたかったし、そうであると知ってもらいたかった。恋情がいつしか当たり前の愛情に成り下がってしまうことが、怖く、許せなかった。その理から放たれてみようと背中の翼に賭けた。

 一族には、愛を誓い合った者は死ぬまでその相手のことだけを愛し続け、生涯を共にしなければならない掟があった。この導というべき『掟』に強い誇りを感じてはいた。しかし見方を変えれば、愛を誓い合った者同士は、『掟』に縛られ、愛し続けることが義務になってしまう。『掟』が総てになる。『掟』に従って愛さなくてはならなくなり、唯一無二の恋情が、ありきたりの感情と同列に括られてしまうことが悲しかった。その『掟』の強力な重力から逃れてみたかった。だから、密かに画策していた。愛した者と一族の群れから抜け出し、世界の果ての小さな離島でふたりだけで暮らしてみることを。そして『掟』から総てが解放された中で、飽きもせずに何度も恋に落ちてみることを。

 また一方では、『掟』に縛られて恋情がありきたりなものに変わってしまうことが、必ずしも悪いことではないことも知っていた。穏やかな愛情とは、高まっていた恋情が昇華され、結晶化して生まれ落ちる宝石のようなものだろう。美しく輝き、そして硬く色褪せることはない。ありがちな独りよがりかもしれなかったが、その誇らしい『掟』に挑戦してみたかった。超えてみせたかった。思い返せば、たったそれだけのことだったのかもしれない。そのためには、どんなに馬鹿げたことでもやり遂げてみせるつもりだった。

 在りし日々のことを思い出し、密かに笑った。

 そのあたりを境に、呟いていた数字の桁が一つ増えた。並べ立てた数字はおかしな記号へ変わり、目に映っていた景色は揺らぎながら黒く消失し始めた。


 ググゥはあまりの胸の苦しさから目を覚ました。

 酸素を求めるように息を吸い込んだとき、何かが気管に絡んだ。

 思わず咳き込む。

 くちばしから吐き出されたものは、固まりかけた黒い血の塊だった。

 『孤独の国』に足をつけてから立て続けに二度の夢と目覚めを経験することになった。一度目と異なるところは、目が覚めたときにはもう陽が大きく傾いていたこと、そして結局別れた妻は夢に現れてくれなかったことだった。

 熱せられたコンクリートに横たわったまま、羽先さえも動かすことができなかった。痛みは翼が折れた背中ばかりではなかった。肺腑までも亀裂が走り、首を少しもたげてみようとするだけでも吐き気が込みあがってきた。

 ここが最期の地になるのかもしれない。それ以外の言葉は浮かばなかった。これが『掟』に疑問を挟み、抜け出そうとした者への報いなのだろうか。だとしたら、この仕打ちはあまりに突然すぎて、まだ何も得ていない身には過酷すぎるように思えた。

「そこの赤い眼をした異国の鳥よ、あなたは何者なのですか?」

 太陽を背に、鳥の形をした黒いシルエットが斜陽を遮った。一羽の鳩が足元に転がっている渡り鳥を見下ろしていた。

 ググゥは眼だけを何とか動かした。その声の主の姿を確認しようとしてみたものの、頭を激しく打ちつけてしまったせいか、視界には光の届かない黒い空洞が生まれ、その姿を満足に捉えることはできなかった。残された視野もプリズム状に歪んでいる。視界はほとんど機能してくれなかった。

 吐き気を堪えながら恐る恐る深呼吸を繰り返し、周囲の状況をかろうじて確認できるようになった頃には、薄暮に沈む中、何羽もの鳩に囲まれていた。

 ググゥに声をかけたと思われる鳩は、一際ふくよかな体躯で毛並みも物腰も優雅だった。おそらくこの一羽がこの一団を総べている長、女王なのだろう。

「この地域ではあなたのような鳥は見かけません。皆の者がひどく怯えています。あなたが調和を乱す不吉をもたらすのではないのか、と」

 ググゥは起き上がろうとしたが、全身はどこかしこもいうことをきいてくれなかった。

「あなたは何者なのですか?」

 これまでよりも強い口調だった。

 どうにか喋る程度の力はググゥにもまだ残されていた。

「勝手に縄張りを侵してしまった非礼を許してください。『平和の象徴』の方々。どうか安心してください。僕は『凶兆の眼差し』の一族の者ではございません。恐れるに足らない『愚か者』の一族の者です」

 『愚か者』という言葉を聞いて、周囲の鳩がざわめきだったことをググゥは聞き逃さなかった。しかし、眼とくちばしだけしか動かせない状況ではどうすることもできない。

 『平和の象徴』と誉れ高い鳩の一族と海洋をさすらう渡り鳥の一族とでは、鳥社会における身分の違いは天と地ほどの開きがあった。封建的でとりわけ戒律に厳しい鳩社会の掟に従えば、このまま殺されるか、どこかへと捨てられるかが妥当なところだろう。その二択を免れることができたとしても、このまま飢え死になるまで放置しておくという対処を選ぶに違いない。総てを見なかったことにして。史実に汚点を残さない事実を作るために。

 鳩の女王は静かに眼だけを動かした。うろたえていた者たちは一堂に静まった。女王の次の言葉を待っているようだった。

 周囲は緊張と沈黙に包まれ、ググゥも重くなり始めた瞼を支えることができなかった。再び眠りの世界へと落ちていった。


 またあの砂浜だった。

 ググゥは相変わらず立ち尽くしたまま、顎を上げて空を眺めていた。大空に座した太陽は少しも傾くことなく、ググゥが諦めて立ち去ることと根競べをしているようでもあった。

 眠りに落ちてしまえば、どうやらここに連れ去られてしまうらしい。三度同じ地を訪れれば、ここが夢の世界であることは容易に認識ができるようになる。その利点は気持ちのゆとりに表れた。置かれている環境を理解することができることで、冷静に思索してみる余裕が生まれた。

 変化の乏しいこの世界に不満はないが、新たな可能性を考えてみる。ここが自分の夢の世界であるのならば、自分が何かを願えば、世界を自由に作り変えられるのではなかろうか。創造主のように望むままに。それこそ念願の楽園を築けるのかもしれない。


 これまでの未来に対する漠然とした恐怖を取り払ってくれたのが、妻との出会いだった。その妻となる一羽の渡り鳥を見染めたとき、お互いの年齢はもうそれほど若くはなかった。出会うまでの歳月について多くを語り合うことはしなかったが、様々な恋を重ねて、その結果不本意ながらもこうして独り身でいる者同士であることを、お互いに感じ取っていた。おそらく似たような時間の重ね方をしてきたからこそ、そのあたりは敏感だった。聞けば、妻となる渡り鳥も、このまま独り身で生涯の幕を下ろす準備に取り掛かろうとしていたとのことだった。そしてその覚悟がついたのならば、幸せそうに暮らしているこの一族の群れから抜け出すつもりでいたとも笑いながら教えてくれた。

 ググゥも同じ考えだった。その胸のうちを明かしたときから急速に打ち解け始めた。ふたりでよく夕焼けの空を飛び回っては語り合い、この巡り合わせの奇跡への感謝の言葉を視界に映る総てのものに投げかけた。ググゥの求婚の言葉は「いつかふたりでこの島を出よう」だった。

 ふたりはその夜、はにかみ合いながら求愛のダンスを踊った。

 ググゥは寝静まった同族のコロニーを抜け出すと、北はずれの切り立った崖の窪みへと妻となる渡り鳥を連れ出した。そこは満潮時には波に覆われ、この島で最も目につかない場所の一つでもあった。一族の習わしとして、求愛のダンスは皆の前で祝福されながら披露することが常だったが、ググゥ自身そういうことが苦手だったし、妻もどこか気乗りしない様子だったこともあり、眠っている彼女をそっと起こして連れ出すことにしたのだった。

 ふたりきりで月影のみが射し込む秘密の場所へと姿を消した。もしかしたら、妻には一族の前で祝福されることを受け入れてもらえない過去があったのかもしれない。そう疑ってみたことも確かにあった。仮にそうであったとしても、そういう経緯があったからこそ巡り合うことができたのである。気に留める必要はなかった。それに失った今となっては、その真意を知りたくても確かめようがない。

「君はすごく素敵な匂いがする」

「そお?」

 ググゥは妻となった渡り鳥と翼を広げて合わせたまま、彼女の首に自分の首を絡ませた。

「愛する者の匂いを好きになるということは、すごく大切なことかもしれない。これからはふたりの名前を、ありとあらゆるものに刻んでいかないといけないのだから。何より、何もしなくてもこういうふうにいつまでもくっついていたいという気持ちになれる」

「あなたはおかしなことばかり言う。だけど嬉しい。でも歳をとっていけば、きっと変な匂いに変わるわよ」

 ググゥは強く抱きしめた。

「それもすごく楽しみなことの一つ。そういう変化をそばで感じられることは嬉しい限りさ。君のその素敵な匂いを一度覚えてしまえば、これから何十年先も、無数の渡り鳥の中から君を、誰よりも先に見つけることができる」


 ググゥは、二羽の渡り鳥の懐かしい会話を耳の奥で聞いていた。

 これは夢の中での再生。夢の世界にいる自分が、さらに彼方、目を瞑って妻のことを思い起こしている中での会話であることを感覚的に理解できた。絶望に塗れた現実とはあまりにも彼岸の出来事であったのだから。これでは現実と錯覚しようがない。たとえ遠い感覚での再生であったとしても、妻と再会できたことはやはり嬉しかった。切ない感情まで引き出されることになってしまったとしても。

 もはや無邪気に夢の中で会うことも叶わない。夢の中で目を覚まし、さらにその地で瞑想を重ね、もう一つ遠くの夢へと飛翔しなくてはならない。目に見えない薄い膜越しでないと妻を感じることができなくなってしまったことを悟った。

 コンクリートに横たわっている世界では、妻はおそらく地球の反対側にいることだろう。しかし、この『孤独の国』からでも妻の匂いをたどって、彼女の元まで空を渡ることへの自信はあった。が、今では翼の負傷がなかったのならば、という条件が足されてしまったけれども。

 この白い砂浜に佇んでいるググゥの隣には誰もいなかった。

 妻は一昔前と感じられるあの夢の中で砂へと消えた。

 そのまま姿を現してくれることはなかった。

 妻の存在は僅かずつではあるけれども、確実に遠く希薄になっていく。

 眼を開いた。

 目の前に広がっている海を眺めながら思う。

 この海は『祈りの島』の海へと繋がっているのだろうか、と。

 果てしない先まで妄想を膨らませたとき、海も空もどこか色褪せたように瞳に映った。

 見上げた空からは黒い灰のような粉雪が舞い始めていた。

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