第7話 無限のチョココルネ
「鳩は大嫌い」
渡り鳥ググゥが初めて天使の環を浮かべた彼女の声を聞いたのは、姿を見かけてからちょうど十四日後のことだった。時刻はほとんど変わっていないはずだった。その時間であれば彼女に会えるだろう、とググゥ自身が時間を合わせていたのだから。
時刻は変わらずとも夜明けは確実に早まっていた。夜空の端は白み、ビル群が遠くで霞んでいる。冷え込みも肌で感じられるほどに弱まっていた。
彼女は、相変わらず手を使わないで器用にチョココルネを食べ終えると、明けていく東の空を見つめたまま、そう呟いた。
ググゥは驚きを禁じ得なかった。自分が鳩でないにしても、その言葉は自分に向けられたもののように聞こえたのだ。辺りを見渡してみても、鳩はおろか他のいかなる生きものの姿はなかった。
ググゥは毎夜と同じ看板の上でおもむろに立ち上がった。首を意識的にゆっくりと回し、彼女を見やった。
「あなたのことは結構好きよ、鴉さん」
ググゥに向けられた最初の言葉はこうだった。
まだ夜明け前だというのに、彼女は眩しそうに目を細めてみせる。さらに白鳥のように物憂げに首を傾げると、視線は抗いがたい力で彼女に吸い寄せられた。
「僕は鴉じゃない」
そう答えると、羽音を立てながら線路を越えて彼女の隣に着地した。
「あら、そうなの? 私はあなたのことを鴉だと思っていたのに」
おそらく彼女は、宵に溶け込んでいるググゥのことを鴉だと見間違えたのだろう。
「私は鳥の中だと鴉が一番好きなの。あの、何ていうの? 斥候っていうのかしら。先行して群れから離れて見張りをしている一羽。すごくいい眼をしているのよね」
ググゥは苦笑いを浮かべた。
「あなたがその一羽だと思っていた。だけど、他の仲間がなかなか現れてくれないものだから、つい声をかけちゃった」
「僕は群れから抜け出したはぐれ者。いくら待っていても他の仲間は来ないよ」
彼女に惹かれていた。一つの言葉では括れない魅力があった。天使と同じ形をした環をもっているが、彼女の場合は薄汚れていて輝いていない。畏怖してしまいそうな立派な翼もどうやらなさそうだ。それに『凶兆の眼差し』である鴉の一族のことが好きだという。そして意味不明に夜明けのプラットフォームの端でいつも佇んでいる。しかも遠くの空を見つめたまま、手を使わずにチョココルネを頬張りながら。
消化しきれない不思議な符号ばかりだった。しかし彼女の魅力は謎めいたところばかりではない。そこはかとなく悲しみを漂わせていながらも優しく微笑むことができるのだ。
矛盾や謎をいくつも内包しながら魅力的に感じられる女性は数えられるほどしか知らない。彼女から絶えず伝わってくる危うさは、ワンピースの裾から覗いている華奢な脚で立っている姿とどことなく似ていた。夜風の冷たい空の下、彼女はその脚で地上に留まっている。
この世界にささやかな変化がもたらされただけでも、彼女は夜に消えてしまいそうだった。これが夢なら醒めて欲しくない。夢の中では、波紋を立てないように静かにしていることが一番よい。もう充分に心得ていた。
「そうなんだ。でもあなたのその赤い眼も好きよ」
少しの間を置いて、彼女は言葉を続けた。
洋上の孤島『祈りの島』を捨てて、四年以上の年月が経っていた。灼熱の太陽に焼かれ、夜の闇に方角も希望も見失い、記憶も思い出も嵐に洗い流された。失くしてしまったものは多かった。
最愛の妻の姿。
南国の果実と潮風の爽やかさを感じさせてくれるその匂い。
異なった二つの匂いも、今では片方ずつでしか思い出せなくなってしまっている。
それに煩わしさと息苦しさは感じていたが、なかなか楽しかった同族と海を渡る日々。
行くべき先を、進むべき方向を無言で示してくれた海風。
無数の新しい可能性を切り開いてくれた両翼の力。
枯れて湧き出ることを忘れてしまった涙。
それらと引き換えに得られたものはあったのだろうか。
少ないが、あった。
目を閉じて数秒息を止めれば自由に行き来ができるようになった『永承の砂浜』。
体内へ取り込んで共に生きることになった『憂鬱の微笑』。
微笑は人生の手助けをしてくれないが、決して裏切ることもしない。
そして、あの寂寞とした砂浜はいつでも受け入れてくれる。
纏っている夜の名残を差し引いても、彼女がググゥのことを鴉だと見間違うことも無理はなかった。慟哭の反動として丸ごと『憂鬱の微笑』を呑み込んでしまった身体は、羽先から徐々に黒く染まり出した。翼は新月の夜よりも深い色となり、白い羽が目立っていた胴体も光の届かない色へ沈もうとしていた。
「ねぇ、私は何に見える?」
彼女はググゥの正面へ身体を向けた。
「そうだね、天使かな」
彼女は一瞬怪訝そうな顔を浮かべて、それから笑い出した。
「天使に見えるの? 翼なんてないけど」
「うん、翼がないのは知ってる」
当然のことのように答えた。見た目のまま答えたのだから言葉に迷いはなかった。
この真っ直ぐな言葉を受けて、彼女は僅かに表情を曇らせた。この微かな変化をググゥは見逃さなかった。その理由までは分からなかったが。
彼女は悲しそうな表情を静かに微笑みに変え、意識的にググゥに目を合わせてきた。
悲しそうな表情を浮かべてしまったことを悟らせないようにするためだろう。この微笑み方を見るのも二度目の経験だった。失った妻が、ふと空や海を眺めながら微笑むときとよく似ていた。
「でも、君には天使の環があるから」
「そうなの? へぇ、環っかがあるんだ」
彼女は可笑しそうに笑った。
それは意外とでも言いたげなように。そのまま大げさな身振りで自分の頭の上を確認するように顎を上げてみせる。それでも見えなくて、同じ仕草を何度も繰り返していた。
ググゥはあえて黙ったまま見守った。
優しさと温かさが内から込みあがってくる。それは懐かしい感覚だった。
彼女が自身の天使の環を確認できないことは無理もないことだった。環は彼女の頭の動きと連動しているのだから。鏡を使わない限り、自身で確認することはできない。
「天使かもしれないけれど、私は落ちこぼれの天使ね、きっと」
ようやく諦めがついたらしい。彼女が心から納得しているかは不明だが、天使であることを認めた。
お互いに噛み合っていないところが可笑しくて、気がつくと笑い合っていた。
「まぁ、でも、天使と言われて悪い気はしないな。少し恥ずかしいけれど」
楽しく笑った後も、それに夜明け前という闇の深さを差し引いても、彼女の顔は蒼白く、目の周りには悲しみの疲労が残ったままだった。
このような目元をした者には、何かしらの過去の出来事に縛られていることが多い。経験から予想できることの数少ないうちの一つだったが、間違いなく当たっているという確信のもてる数少ないうちの一つでもあった。これもまた二度目の経験だった。だから、毎夜彼女がどこからやって来るのか、そして陽が昇るとどこへ消えてしまうのか、どのような目的でここに佇んでいるのかを聞かないことにした。それは間違いなく自分とは関係のないことであり、聞き出すことが自分によい結果をもたらすとは思えなかったからだ。
だから口から出た言葉は、過去を振り返らせたくないものだった。
「僕の名前はググゥ。正真正銘の『愚か者』の一族さ」
「私の名前はリリィ。おそらくただの『愚か者』よ」
つまりは自己紹介だ。彼女も自虐的ともとれる笑みで応えてくれた。
疲れている目元をしているところも、よく遠くを見つめるように目を細めてみせるところも、愛したかつての妻の表情を思い出さずにはいられなかった。
「ねぇ、ググゥ、あなたは鳥なのだから、自由に空を飛ぶことができるのでしょう?」
「いや、数年前に飛ぶことを忘れてしまった」
彼女は足元のビニール袋を拾いあげた。中にはチョココルネが入っている。
「それを、君が手を使わないで食べているところをずっと見ていた」
もう割り切れているつもりだった。空を飛ぶことについて、誰かと話をすることは辛かった。あまりの傷の深さに、反射的に話題を逸らしている自分に気がついた。
「これは一番好きな食べ物なの。食べているとね、嬉しくなったり悲しくなったりするの。幸せだったときも辛かったときも、このパンはずっと一緒だったから。これを食べていると不思議と落ち着くのよね、他にもっと美味しいものはたくさんあるのに。小さい頃のおやつもこれだった。親は共働きだったから、小学校から帰ってくると、このパンがテーブルに置いてあることもたくさんあったな。家の隣がパン屋さんだったの。どうしてチョココルネだったんだと思う?」
その答えを知っているはずもなかった。彼女も彼女で少しも正解を期待しているようではなかった。話を聞いてもらいたいだけなのだろうと思う。
「何となく形が子供のおやつみたいでしょって、母は言っていたわ。それに、よくカタツムリの絵ばかり描いていたでしょ、とも。それだけなんだけれどもね。大人になってからは何度も家で焼いてみたけれど、さすがに長続きしなかったな」
リリィはチョココルネを半分にちぎると、片方をググゥに差し出した。
「私の幸せと悲しみを半分分けてあげる」
半分になってしまったリリィの幸せと悲しみをくちばしで受け取った。
同じように口だけで器用に食べてみたのならば、彼女の抱えている幸せと悲しみが少しは理解できるのだろうか。
チョコレートクレームは信じられないほどに甘くて重たかった。乾燥している寒空の下、水分を取らないでいる喉をすんなりと通ってはくれなかった。喉や胸の奥から込みあがってくる感情の塊が、飲み込むことを拒んでいるようでもあった。
無邪気すぎるほどに甘くて幸せな食べ物だった。しかし、カカオ本来の苦味を無理やりに潰してしまうほどに甘く上書きされた味は、どこか切なくて、簡単に飲み込めないほどに苦しいものだった。この切なさと苦しみが、彼女にとっての悲しみの味なのだろうか。
何度も線路越しの看板の上からリリィがチョココルネを頬張る姿を眺めてきた。しかし一度も彼女の正面から、そしてこれほど近くから見たことはなかった。
お腹を空かして味わいながら食べていたわけではないのかもしれない。明けゆく空を見つめ、口でくわえたまま休み休み時間をかけて食べていた。実は、チョココルネを頬張りながら涙を流していたのかもしれない。リリィから感じられる危うさは、甘いチョコレートの世界に安定を求めて身を委ねようとしているような、夢うつつの世界でしか漂うことを許されていない生きもののような、儚さと希薄さにも似ていた。
『愚か者』と『落ちこぼれ』の冠を掲げたふたりは、ちょうどよく似合っていた。ほの暗いプラットフォームの端で夜明けの方向を向き、チョココルネをくわえながら並んで空を眺めている姿は。
ググゥは思い出さずにはいられなかった。夜明け前のプラットフォームは孤島に似ている。『祈りの島』を連想させられた。『祈りの島』の崖の窪みで妻と並んで夜を明かした日々のことを。
もう一つ気になっていたことがあった。
それはこうして近くで並んでみたことで確信へと変わった。リリィの姿を見つけるたびに、春の始まりを告げるようなほのかに甘い匂いと草原のような若葉の匂いが、どこからともなく鼻をくすぐるのだった。
かつての最愛の妻は空と海の果てに消えたのではなく、地上の生きものとなって再び目の前に現れた?
夜明けのプラットフォームという陸の孤島で、ググゥはかつての妻と同じように疲れた目元をして微笑み、二つの異なった匂いを感じさせてくれる女性と再会した。
想い出を糧にして放たれる匂いは確実に薄らいでいく。姿や声よりもずっと早く。南国の果実と海を渡る潮風を感じさせてくれたかつての妻の匂い。今では片方ずつでしか思い出せなくなっていた。それもそのときの情緒に振り回されながら。
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