32. 二人で

 科多駅を出発して既に五分が経過し、次の駅が見えておかしくない時間である。

 もう無駄ではないか、そんな不安が頭をもたげようが、全速力で追うしかない。


 時速百キロを超えても車輪が浮くような気配が無いのは、カーブの少ない路線のおかげだろう。

 ただ、ゴーゴーと響く風切り音が煩く、車体は一次症例並に震動していた。

 加速を始めてすぐ、前方に明るい光の点が見える。

 墨丘駅だ。


「くそ、間に合わなかった……」

「慌てんなよ。爆発なんて起きてねえ」


 壁を頼りにまた立った矢知が、接近する駅に異変は窺えないと指摘する。

 彼らの電車は整列する特事課に見送られ、墨丘駅を通過した。


「高木の要請が認められたんだ。バリケードを撤去して、封鎖線の外に素通ししやがった」

「なら、猶予は有るんだな」

「止めるだけなら簡単だ。その内どっかの車両にぶつかる。電力を切るとも言ってたが、そっちは難航するだろう」


 乗客を避難させた空車両を置いておけば、人的被害は最小に抑えられる。

 だがそれでは、間島有岐の生死は運任せだ。

 車椅子に乗った彼女の様子は、とてもリープで自分を守れるようには思えなかった。


「心配するな。電車が見えたぞ」

「え? あっ、あの光か!」

「運転を代わろう。お前は飛び移る用意をしとけ」


 潤が立ち上がると、矢知は足元を気にしつつ、運転席に腰を下ろした。

 光点の近付き方からして、二つの列車の速度差は時速四、五十キロくらいだろうか。

 扉から出て行こうとする青年へ、矢知が注意を促す。


「高木のボディチェックもしろ。武器と個人端末を奪うといい」

「端末?」

「お前には必要だろうよ」


 微妙な頷きを返して、潤は高木の元へ向かった。

 目を閉じて横たわる彼女は失神しており、彼が触っても反応しない。

 麻痺剤らしき小型注射器を腰ベルトに六つほど見付けたが、効能に確信が持てないため、全て外へ投げ捨てる。

 無線器は嵩張るので放置し、キーチェーンとスマホ型の端末だけ取り上げた。


「ロックが掛かってるじゃん……」


 指紋認証なのは都合が良く、彼女の指を拝借して解除する。

 登録指紋の変更を試みながら、岩見津の手錠を外しに行き、また高木の寝る場所へ帰ってきた。

 その後、二度の指紋要求をクリアして、登録者を変更。

 端末を自分のポケットに入れた時、風圧で車体が大きく揺れる。


 重なる二つの走行音――有岐の電車に、遂に追い付いたのだ。

 徐々に二台の電車の先頭が接近し、矢知が速度を落とし始める。

 慣性で前方に引っ張られながら、潤は一両目中央の乗車口に陣取った。


 電車間の距離は約一メートル、平時ならなんなく跳べる長さである。

 有岐の乗る先頭車両には彼がハッシュで空けた直径八十センチ程の穴があり、そこが目標だった。

 ゆっくりと、しかし着実に、ジャンプの刻限が迫る。


 助走のために後退あとずさった彼は、矢知の腕を信じて、ただ穴が現れるのを待つのみ。

 一度穴が眼前を通り過ぎた瞬間、潤はビクリと体を強張らせた。


 ――まだだ、まだ完全に並走してない。


 潤の電車のスピードがまた少し落ち、円い穴が再び現れる。

 右に、左にと動く目標が静止してくれるように潤は願う。

 細かく減速と加速を繰り返していた車両は、最後には希望通りピタリと位置を合わせた。


「おおぉーっ!」


 気合いを入れる雄叫びと共に、潤が空中に身を投げ出す。

 ヘッドスライディングの要領で跳んだ彼は、見事に対面の車両に潜り込み、その勢いを前転で殺した。

 床に敷き詰められた瀕死のジョルターたちは、クッションの代わりになってくれたものの、服は派手に汚してしまう。

 頭を上げた直ぐ先、ドアより少しだけ先頭寄りに、有岐の座る車椅子が見えた。


「巻月、行けたか!」

「おうっ、またあとでな、オッチャン!」


 首尾を確かめに乗車口まで来た矢知へ、潤が片手を上げて応じる。

 先ずは停車だと、彼はまだ意識の怪しい有岐を横目に、運転席へ急いだ。





 潤を見送ると、矢知は列車を停めに戻る。

 加速ハンドルは前へ、ブレーキは下へ。

 ガクンと急停止した衝撃に小さく唸りつつ、足の下に転がる鞄を持って、彼は運転席の外に出た。

 やらなければいけない仕事が、彼にも一つ残っている。


 運転席のドア近くで岩見津のリュックを拾い、車両の中央へ進むと、高木の周りの床を目で探った。

 彼女が使ったポケットナイフ、これが彼の目当てだ。


 床に座り込んだ矢知は、黒い鞄の留め金を外し、鍵をナイフで潰し始める。

 片手での作業は、なかなかにつらい。

 ブリーフケースに似た鞄は、荻坂なり浦橋なりの所持品だろう。

 樹脂性の素材は案外に硬く、鍵部分を破壊するのに骨が折れる。簡易ロックでなければ、もっと苦労したに違いない。


 ガシガシ刃で鍵周りを突き、最後は隙間に刺したナイフを捻って、無理やり鞄を開けた。

 保冷剤、そして黄ばんだ液体で満ちた四つのパック。中身は“因子”だろう、という矢知の予測が当たる。

 五次症例者の造血細胞こそが荻坂の関心事で、浦橋たちの仲間を増やす鍵となり得たはずだった。


 ビニールパックにナイフを突き立て、液体を鞄の中に溢れさせる。

 次に岩見津が持って来た薬剤をリュックから取り出して、鞄へ注いでいった。

 促進剤や抑制剤、内容は何でもいい。

 四本全てを造血細胞液に混ぜると、仕上げとばかりに鞄を傾け、液体を車両にぶち撒けた。


 作業を終えた矢知へ、床を這いずる音が近付く。

 多少、麻痺効果の薄れた岩見津が、二両目から膝歩きで前までやって来たのだった。

 矢知の隣にへたり込み、高木を指しつつ、もつれる舌で質問する。


「死んだ?」

「いや、まだ生きてる」

「……逃げる?」

「俺たちがか? ちょっと体力的に厳しいな」


 その返答に、岩見津も大きく頷いた。

 二人は尻をずらし、座席を背もたれにして並んで座り直す。


「ひどい……目に……」

「全くだ。酷い一日だったよ。荻坂が吹っ飛んで行ったのが、せめてもの救いだ」

「見たかった……」


 矢知と岩見津は床に広がる液体を眺めながら、いつ来るかも知れぬ誰かを待って、ポツポツと言葉を交わし続けた。





 運転席に飛び込んだ潤が見たのは男の死体、そして凹み潰された制御盤だった。

 青いシャツには覚えがあり、科多駅にいたリーパーの一人のようだ。

 潤のリープに耐え、電車を発進させ、あまつさえ操作ハンドルを壊してから絶命するとは大した使命感である。

 潤にすれば、迷惑この上ない置き土産でもあった。


 ブレーキをかけるのが不可能なら、何をすべきか。

 車両中央へ戻った潤は、青い患者服を着る有岐の前で腰を屈め、その頬を叩いて呼び掛ける。


「間島! おいっ、間島! 起きてくれ」


 ピクリとも反応しない彼女に、潤の不安がこれでもかと膨らんだ。

 体温も低く、血色も悪い。

 まさか本当に手遅れなのかと歯を食い縛った時、間島の小さな口から呻きが漏れる。


「…………ん」

「うわっ」


 単発の小さなジョルトで、潤の手が弾かれた。

 どろんとした目付きは変わらず、意味の有る言葉も出て来ない。だが、生きている。

 近くでよく調べると、彼女の座っているのは単なる車椅子とは違うと分かる。

 椅子の下部には、大きなリール状の機器が二巻き設置され、そこから極細の銅線が繰り出されていた。


 患者服の裾をくり、線の行方を観察する。

 銅線は彼女の足首辺りに刺さり、そのまま縫うように上へ続くようだ。

 鎖骨辺りにも銅線の一部が見え、体の後ろへ回り込んでいるらしい。


 謝りながら首裏の布を引っ張って彼女の背中を覗いた彼は、脊椎に沿ってジグザグに這う二重破線を確認した。

 リールから右足へ、背中を通って首でUターンし、また背中から左足、そしてもう一つのリールへ。

 有岐はこの椅子に、縫い止められている。

 二つのリールの間にスイッチを見付けた潤は、躊躇うことなくオフにし、今度は彼女の両肩を揺すった。


「間島、聞こえるか?」

「んん……」

「起きろって!」

「……ダ、レ?」


 彼は返事に喜び、次々と質問を浴びせるものの、有岐の口は重い。

 巻月潤の名前を告げても、曖昧な呻きが返ってくるだけで、未だ開いた瞳孔で宙を眺めていた。

 出汁だしガラ、そんな表現が口をきそうになる。

 必要な因子を回収された彼女は、用済みとなって捨てられた。

 カーネルメンバーでないリーパーを、脱出に同行させるつもりはなかったのだろう。


 急に窓外から光が差し、暫く明るいホームを映した後、暗闇に戻る。

 封鎖線を越えて一つ目の駅。

 取り敢えず今のところ、線路上に障害物は無い。


 彼女の意識がはっきりするまで、潤は懸命に呼び掛けを続けた。

 直ぐにでも銅線を引き抜いてしまいたいが、体に食い込んでいるために手が出しづらい。

 強引に抜いて、何か大事な神経や器官を傷付けることを恐れた。

 三分ほど、車椅子を固定すベルトを外そうと格闘しながら、有岐ともじれったい会話を繰り返す。


 座席下の金具と車椅子のフレームは、太い硬質ゴムのベルトで四方を縛られていた。

 必要最低限の慎重なジョルトでベルトを切断し、椅子を動かせるようになった時、照明が消えて車内を闇が覆う。


「電気が切れたぞ、間島!」

「うぅ……ん……」

「止まっちまえば、もう大丈夫だ。ゆっくり脱出して――」


 前方へ視線を動かした潤は、光の存在に口を閉ざす。

 接近するホーム、そして、進路上で光る壁――同じ線路上に停まる車両が在る。


 僅かずつでも減速しているおかげで、衝突自体の被害は少ないかもしれない。

 だが、車内の発症者がジョルトを連鎖させたら、自分は平気でも有岐は大丈夫なのか。

 二両目へ移動するべく、潤は車椅子を後ろへ運ぼうと試みたが、床の発症者たちが邪魔で上手く動かせない。

 ほぼ死体に近い彼らも、押し退けようと力を加えると、ジョルトを返してきた。

 小さな衝撃の連鎖が、さざ波となって車両を広がる。


「くそ……どうすりゃいいんだ」


 迫る壁、多数の発症者、銅線で縫われた有岐。

 ハッシュで先頭車両を切り取る――それでは後続車両と衝突して、爆発を早めるだけだ。

 車両丸ごとリープさせる――流石にそこまでの力は無い。


 間島だけなら、リープさせられるだろうか。

 成功すれば、銅線も切り離せる。

 迷う時間は無い。

 有岐の前に回った潤は、彼女の両手を自分の手で強く握り締めた。


「みんな、ゴメン――」


 無言の同乗者たちに謝罪した彼は、有岐の目を見据える。彼女も自分・・だ。

 有岐を範囲に入れて、発動させればいい。


 有岐を連れて、潤は時間を跳躍させた。

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