07. 拘束
潤もいきなり襲われたことをチャラにする気はないが、矢知の言う通り能力が出血を招いているのは確かだ。
これが伝染病のせいだと、彼だって素直に信じたりはしない。
そんな病気が流行ったとすれば、もっと大々的に報道されるだろうし、注意喚起が県、いや政府レベルでされるだろう。
それでも、新病の噂は都市伝説としてネットに流布していた。
昨今の変死数の多さから、城浜を『悪霊都市』などと揶揄する言説はたまに見る。
だが、あくまで噂は噂、マスコミに取り上げられることもなく、精々が扇情的な週刊誌のネタにされるくらいであった。
伝染病でなければ異能の正体は何なのか、それを知りたいのなら、逃げてばかりでは
「俺を……モルモットにするつもりなんじゃ?」
「多少はな。しばらくは病棟生活だ」
無骨な顔を注視してみても、潤にその腹の内までは見透かせない。
甘言で誤魔化さない矢知を、彼は差し当たり信用してみることにして、一歩前に進んだ。
これは降伏ではなく、敢えて敵の懐へ入って打開を図る前進策だと、自分に言い聞かせる。
ドアに近付いた潤へ、出て来るなと制止する手が上がった。
「先に無力化させてもらう」
「抵抗はしない。とりあえずは」
「今のお前は、火の点いた爆弾と同じなんだよ」
矢知が右手で合図を送ると、部下の一人が白い器具を握って走り寄る。
受け取った矢知は、それを扉の前の地面に置いて後退した。
「そいつを拾って、中に戻れ」
「ペン?」
「麻酔薬だ。自分で打て」
「ええっ?」
理解に苦しみながらも、潤は片方のドアを半分ほど開けて、注射器だと言う器具を拾い上げた。
サインペンを一回り太くしたような外見で、針は無い。
「どうやって使うんだよ。なんで俺が?」
「これからは、投薬も採血も自分でしろ。医者を吹き飛ばしたくないだろ」
覚醒度次第だが、ジョルターは危害を加えられると無意識に衝撃波を発動させる。
潤の場合はその自動発動が顕著で、攻撃をほぼ全て弾いてしまった。
これは注射であろうと同じであり、針を刺そうとした瞬間にジョルトが発生するだろう。
「例外は、自分の意志で刺した時だ」
「もう予防接種も受けられないわけか」
「普通の医者は諦めろ。自殺ならできるけどな」
冗談かと思い、矢知の顔を見た潤は、冷たい視線で
ペン型注射器の使い方は簡単で、先端を皮膚に押し当て、スイッチを押せば針が飛び出す仕組みらしい。
場所はどこでもよく、太腿か二の腕を勧められた。
短い針だから痛みも少ないと聞き、思い切って怪我のしていない右腕に当ててスイッチを握り込む。
「いっ!」
無痛を予期した潤は結構な激痛にショックを受け、恨みがましく矢知を見返した。
「おい、いつまで刺してればいいんだ?」
「もう離して構わん。言い忘れたが、打つ時は床に寝た方がいいぞ」
「そういうことは早く――」
忠告は遅く、両手をダラリと下げた潤は膝を突き、へしゃげるように崩れ落ちる。
フロアに頭がぶつかる瞬間、生まれた衝撃波で積まれたチラシが舞ったが、この時には既に彼の意識は失われていた。
◇
矢知は十秒ほど数え、中へ入って注射器を回収すると、潤の足元へ回り込む。
裏側を見せるスニーカーをきつめに蹴って、昏睡した身体がブレて見えるのを確認した。
外に待機する部下へ対象確保の指令が叫ばれ、一斉に作業着たちが動き出す。
「寝ていようがジョルトは発動する。静かに運んで、車に固定しろ」
「はっ」
コンビニ前にやって来た青い輸送車は二台、最後にもう一台、救急車に似た白い中型車輌が在る。
第三症例まで進んだ患者の搬送は、拘束器具を備えたこの特殊搬送車が担う。
柔らかいマットにベルトで何重にも縛るのは、逃走を恐れるからではなく、ジョルトの発動を防ぐためだ。
段差で車体が揺れた程度で発動するものでもないが、万一、接触事故でも起こすと衝撃波で車を潰しかねない。
それを避けるためのアンチショックベッドへ、潤は慎重に載せられた。
彼らにすればニトログリセリンを運ぶようなものであり、潤の扱いは昏睡後の方が遥かに良い。
ウレタン質のマットに沈む頭部から足先まで、十本のベルトが、金具の嵌まる小気味よい音と共に巻き付けられていく。
本部に作戦完了を伝えた矢知は、副長に第一輸送車を任せ、自らは潤の傍らに独りでつくと告げた。
同乗を志願する佐々井を断り、矢知は潤の頭の横、同乗者用の小さなシートに腰掛ける。
狭い車内、ジョルターが暴れ出したら、隊員が何人いても止められないだろう。
無駄に被害を増やすより、高次症例者に相対した経験のある彼が乗れば充分だと、矢知は考えた。
コンビニや警察への対応をする二班を残し、特搬車を第一班が先導する形で、二台が連なって研究所へと出発する。
潤が抵抗を続けた場合に使用する予定だった重装備は、特搬車にも搭載されていた。
シート下のボックスに詰められた高電圧、催涙、粘着、麻酔。法的には黒に近いグレーの装備に加え、未だかつて使われたことのない緑の
これは紛うことなく真っ黒で、矢知ですら今後も封印されたままであることを願う。
幸い、潤が説得に応じたおかげで、派手な市街戦は避けられた。
更なる
収納スペースからゴルフボール大の球を三つ取り、上着のポケットに二つ放り込み、一つを右手に握る。
麻酔球――気休めだろうが、車内なら効果は増すだろう。
通勤ラッシュに巻き込まれるのを嫌い、彼らの車は狭い市道を縫って進んだ。
今のところジョルターは城浜特有の現象であり、遺伝子変異が原因であろうと研究所からは説明されている。
平穏な朝の街も一皮剥けば、得体の知れない超常に浸蝕されつつあった。
『城浜次世代医療研究所』、所長は
バブル期に建設された施設は一度閉鎖された後、荻坂の指導の元で改修されて再始動する。
三年前に矢知が雇われた時には、既に秘密主義が徹底され、設立経緯や研究成果の詳細について彼にも知る術はなかった。
全八棟の内、彼が立ち入れるのは半分の四つ、残り半分で現在何が行われているのかも、厚いベールの向こう側である。
分かっているのは、施設の全てが“発症者”の研究に邁進しているということだけ。
病院や市内で突然発生する危険な患者を、直接現場に赴いて確保するのが対策部の仕事であり、その業務に不満は無い。
デリケートな人権問題になりかねず、パニックや差別を助長する恐れがあるため、研究が確立するまで市民には情報を伏せる方針も理解できる。
――だが、この男は何だ?
“潜在的なキャリアを炙り出すために、本年より各所で検査薬の投与を実施する”
荻坂の言う
これは本格的な検査のためのテストケースに過ぎず、来月以降、役所や学校、企業など多岐に亘って予定が組まれている。
矢知は潤の左腕に指を伸ばし、身体に触れないようにして巻かれた布の端を少しだけ捲った。
二の腕に貼られた正方形の白い保護パッド、注射の痕だ。
巻月潤が受けた検診は、単なる潜在ジョルターの判定テストで終わらなかった。
投薬が引き金になって異常な覚醒をした、そうも考えられる。
では、それが予期しない副作用なのか、それとも故意に引き起こされたのか。
本部を呼び出す無線機を持ち上げた矢知は、途中で左手を止めて携帯端末に持ち替える。
荻坂の個人番号を選択すると、耳を近付けて返答を待った。
長い呼び出し音を聞き飽きて、切断ボタンを押し、腕時計に視線を移す。
荻坂を研究所で見たのは、昨夜が最後だった。
潤を捕え損なって本部に戻った時には姿が無く、以降、副所長ら幹部連中も表に現れない。
緊急事態を受けて会議室に篭っているのかとも思うが、誰も陣頭に立たないのは無責任の極みだ。
中央棟には各部間の連絡を受け持つ通信室が在り、こちらへは先程、帰投を伝えたばかりだった。
トップの所在を知らないのは通信室も同じで、苛立つ彼は担当者を畏縮させてしまう。
何度も問い質すのは八つ当たりに近く、矢知も我慢して研究所までのドライブを無言で過ごした。
潤が打った麻酔薬は、さほど強いものではなく、一時間もしない内に効果が切れる。
搬送に手間取ると、車中で目を覚ます可能性もあった。
到着まで後五分を切ったところで、潤の指先がピクリと動く。
その人差し指を凝視した矢知は、輪郭が微妙に多重化しているのに気付いた。
安全運転にも拘わらず、初期震動が起きている。
「おいっ、急げ! スピードを上げろ」
「しかし、ここからは山道で、揺れを抑えるには……」
「構わん、さっさと
「は、はいっ」
“第四”との言葉を聞き、多少動揺しながらも、運転担当は前を行く第一班にスピードアップを伝えた。
発症した者は九十八パーセントが第一症例止まりで、頭痛程度に考えて放置する人間も多い。
不幸にも第二症例に進んだ二パーセントの大半は、約一週間で命を落とす。
現在までに対策班が出動した第二症例以上の対象数は二十八人、その内十一人は発見時に死亡していた。
第三症例、
第三症例へ進行した生存者は、一昨日までなら六人しか発見されていなかった。
その六人も確保後三日で亡くなっており、新参の隊員が能力を知らないのも無理はない。
後衝動は、対象を攻撃するあらゆる物を弾き、拘束を解除する。
言わば鉄壁の防御能力であり、催涙ガスだろうが、炎であろうが無効化してしまうだろう。
――火事から生還したのは、やはりバックジョルトのおかげか。しかし……。
今この時点で、第三症例者の確保数は三人である。
その内の一人、先に回収した間島有岐のいる研究所のゲートへ到着し、車はその前で静かに停止した。
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