06. 逃走

 公園で隊員たちを引き離せたのは、彼らが手加減していたからだと潤は思い知った。

 ピッタリと間隔を維持して、三人の男が彼の後ろを走る。


 全力で足を動かしても追随し、息切れから速度が落ちると、彼らもそれに倣ってペースダウンした。

 つかず離れず、五メートルから十メートルほどの距離を空けて行われる鬼ごっこだ。


 鬼役は、三人では済まないだろう。公園東口だけで十人以上、他の入り口のガスマスクたちはもっといた。

 その全員ではなくとも、他の経路で彼を追う者がいるはず。例えば、自動車で先回りして――。


 これがクイズなら、正解のジングルが鳴るところだ。

 潤の考えた通り、青の大型車が前から迫って来る。昨夜見たこの研究所の輸送車を、彼も覚えていた。

 挟み撃ちされるのを避けるべく脇道を探すが、細い市道には民家が立ち並ぶばかりで逃げ場が無い。


 いっそのこと、もう一戦交えるかと、彼は背後を一瞥する。

 だが、あちこちから垂れる血が、ヤケ気味の作戦を押し留めた。

 せっかく止まっていた鼻血が再発し、スムーズな呼吸を妨げる。


 痰のように喉で絡まる血の塊を側溝に吐き飛ばした彼は、民家の一軒へ向きを変えた。

 ガレージ付きの一戸建て、玄関横から家の側面に侵入できる。

 隣家との区切りとなるブロック塀と、建物の壁との隙間は一メートルくらいと狭い。

 その隘路にエアコンの室外機が五台も並んでおり、潤が勢いよく跳び乗ったせいで、ベコンベコンと上面が凹んでいった。


 奥の突き当たりは背の高さの塀で、最後の室外機を踏み台にし、両手を伸ばして飛びつく。

 ブロック間の目地が足掛かりになり、上手くじ登った彼は、塀の上端で振り返った。


 人影は見えず、これで追っ手を撒ける希望が湧く。

 ブロック塀を越えると、背中合わせに建つ別の民家の裏庭へ出た。

 赤く汚れた手で触れたせいで、塀には不吉な跡が付いてしまう。手形から血が垂れる様子は、ホラー映画のシーンを想像させた。


 出血が激しくなったのは、粘着ネットから脱出した直後からだ。

 一瞬意識が飛ぶような力の奔流を感じ、気づけば顔や手は赤い液体でまみれていた。

 安静にしていれば、いずれ血は止まるのだろうが、衝撃波を使うとまた酷くなるだろう。


 大量出血が良い兆候のはずはなく、能力の行使にも限度があることが推測された。

 手の甲には黒ずんだ静脈が浮き上がっており、これも不穏な兆しに思われる。

 決して穏健派とは言い難い彼も、身体が正常に戻るまでは能力を使わずに切り抜けたかった。


 新芽が生えるプランターを跳び越え、裏庭から家の脇へ。

 室外機に加えて、大きな給湯器まで在り、先よりも通り抜けるのに苦労する。

 やや横這い気味に体を傾け、潤は再び街路を目指した。


 家の前にも植木鉢がいくつも置かれ、茂った低木が通りに出る彼を阻む。

 家の主人が手塩に掛けた盆梅のコレクションに、彼への配慮を期待しても無駄だ。

 鉢の間へ強引に身体を入れたせいで、梅の枝がミシミシと折れて曲がった。


 やっとの思いで道に出た潤に、休む暇など与えられない。

 待ち伏せしていた隊員によって投げられた二発の拘束球が、彼の眼前で炸裂する。


「ぐっ!」


 ジョルトは彼を守り、粘着液を全て投擲者に押し返した。

 ダメージは左腕のみ。開いた傷口から噴き出た血が、巻いた布をどす黒く染める。


 よろめく潤へ、更に追撃が二発放たれ、今度は衝撃波と一緒に彼の血も飛び散った。

 彼は左腕の傷を強く押さえ、隊員たちとは逆方向へ逃げる。


 球は投げても、やはり作業着の男たちは接近しようとしない。

 適度に距離を取って追い掛けつつ、その後は何度か球を投げ付けてくるようになった。

 その度にジョルトが発動して、痛みにうめく。


 本気で拘束を狙ったようには見えず、中途半端に牽制する彼らの意図は、潤もうっすらと理解し始めていた。

 能力を無駄撃ちさせて、弱らせる気なのだと。


 麻酔銃を使用するのは止めたようだが、球は遠慮なくぶつけてくる。

 まだ早朝で人通りがほとんど無いため、粘着液を撒くのに躊躇ためらいが感じられない。


 ――人目につく場所がいい。今は何時だ……六時くらいか?


 実際には、まだ六時前、この時刻に人が行き交うのは駅くらいだ。

 城浜駅まで約半時間、道もあやふやな上に、球をかわして走り続けるのも辛い。


 せめてもと、広い道を選んで進んだ先で、四車線の国道へ行き当たった。

 トラックや乗用車がちらほら通るこの道に出てからは、拘束球を投げられずに済む。


 国道は城浜市を横断する主要道路の一つで、城浜駅には通じていないらしく、代わりに新幹線の止まる新城浜駅への標識が在った。

 朧げな地図の記憶を辿り、新城浜へなら行けそうかを考える。


 焼けたコーポからだと遠い新幹線の駅も、ここは同じ東区、多少は近付いているはずだ。

 とは言え、在来線なら二駅を挟む距離であり、魅力的な目的地ではない。


 どこかで反転して逆走するか、それ以上の時間を掛けて先へ進むか。

 決めかねる潤の目に、よく知るロゴマークが飛び込んでくる。赤い円に8の字のサークルエイト、大手コンビニの標識である。

 二十四時間営業の店なら、もちろん店員はいるし、客も少しは入っているだろう。

 店舗に駆け込んで救援を呼ぶ、これが新たな選択肢だった。


 頼めば電話も貸してくれるかもしれないが……どこに掛けるのが正解なのか。

 実家は論外、泣き言を吐いても、助けは遥か遠くにいる。

 救急車、これもに対処するには頼りなく、とすると他に知る連絡先は一つ。


 警察にどう説明したものか不安が残るものの、公園からここまで、作業着の追跡者しか見かけなかった。

 人目を憚るように行動し、名乗りもしない彼らは、公的な機関の人間とは違うように思われる。


 逮捕されるのは男たちの方だと、潤は多分に楽観的な結論を出し、コンビニへラストスパートを掛ける。

 もし警察が来ても攻撃してくるようなら、衝撃波で吹き飛ばして――そこまで考えた彼は、それが最悪の事態だと思い至って顔を歪めた。


 不都合な現実からは目を背け、ギリギリまで昨日までの日常にしがみつく。

 懸命に抗えば、きっと誰かが救いの手を差し伸べてくれるはずだと。

 駐車スペースを走り抜けた潤は、観音開きのドアを押して店の中に飛び込む。


「すみません、電話を――」

「事故ですか!?」


 血だらけの彼を見て、独りレジに立つ若い店員が叫んだ。

 追われていて怪我をしているという説明に納得したのかはともかく、直ぐに通報すると言う。


 残念ながら、店員は電話でなく、カウンターの裏側に設置された緊急通報ボタンを押した。

 他に客は無く、店員もタオルを取ってくると一度奥へ引っ込んだ。


 作業着の連中は、店からかなり離れて立ち、無線機で何やら交信を始める。

 三人だけだった男たちも、増援が次々に到着し、五人はコンビニの横手に消えた。

 前に並ぶのが十人、少し遅れて二台の大型車が駐車スペースに進入してくる。

 こちらからも四人ずつ降りて合流し、最後に一人、長身の指揮官らしき男が登場した。


 受け取った大量のタオルで、腕の血を拭き取りつつ、潤は相手の行動を窺う。

 男たちはコンビニを遠巻きにするだけで、結局、何事も起きないままパトカーが現れた。


 ――さあ、どうなる?


 警察までもが潤を捕えようとしたなら、彼は腹を括る必要がある。

 警官に刃向かえば、彼は本物の容疑者となり、ヒーローどころか悪役だ。

 それでも逃走するのかを、この土壇場でも未だ決めかねていた。


 パトカーから降りた警官は二人で、彼らに向かって指揮官が歩いて行く。

 近寄る男の顔を見た制服の両方は、よりにもよって敬礼で挨拶した。


「くそっ、警察も仲間かよ!」


 その二人が店に歩いて来るのを見て、潤は覚悟を決める。

 八方破れのヤケクソと言った方が正しいか。緻密な作戦という柄じゃないし、巧みな話術で交渉するのも大の苦手だ。


 掲げた右手を、扉へ。

 逃げられるまで逃げて、考えるのは後回しにする。落ち着いた大人の分別などクソくらえだと、心の中で吐き捨てる。


 衝撃波を連発して強行突破することを狙い、彼らが入店するタイミングを見計らった。

 しかし、警官たちはドアに手を掛けず、ガラスの扉越しに店内へ呼び掛ける。


「男は新伝染病の感染者です。店員は至急出て来てください」


 後ろに控えていた店員は、振り返った潤と一瞬顔を見合わせたあと、「ひっ」と短い悲鳴を発してドアへ突進した。

 出て行く彼の背中に浴びせるように、潤が抗議の声を上げる。


「伝染病って何だよ! 転んで擦りむいただけだって」

「君はそこで待つように」

「悪いけど、抵抗するからな。本気だぞ!」


 半端な脅しを受け流した警官は、店員へ他に誰か中に残っていないか質問しながら歩み去った。

 替わってドアの前に進み出たのが、指揮官と目星を付けた人物だ。


「……何者だ。警察なのか?」

「逃げるのを諦めたようで、助かる。対策部長の矢知だ。大人しく隔離されてもらおう」

「説明しろ、俺をどうする気だ? 無理やり突破してもいいんだぞ」

「コンビニは封鎖して、こちらも全力で対応する。大体、その身体で歯向かうつもりか?」


 フロアを汚すおびただしい血の跡へ、矢知は視線を落とす。

 顔を上げた彼は腕を組み、物分かりの悪い子へさとすように、殊更ことさらゆっくりと状況を分析してみせた。


「急激な発症で不適合反応を起こしかけている。無理を重ねたら、全身から出血して死ぬぞ」

「なっ……」


 巷で話題になっている不審死には、新病による被害者が含まれおり、それが実例だと言う。

 投薬による治療・・を行い、隔離病棟で経過を観察しろというのが、矢知の指示だった。


「本当に病気なら、なんで問答無用で捕まえようとしたんだよ。武器まで使うなんて、普通じゃない」

「危険だからだ。力があるのを、自覚したんだろ?」

「そうだよ、これで反撃する。撃ったって無駄だからな!」

「不随意の防御反応なんて、痙攣と変わらん。自分で制御できるのか?」

「そりゃ、あれだ、練習すれば……」


 言い淀む潤を鼻で笑い、そんなことは不可能だと否定する。

 力は遅かれ早かれ他者を殺めてしまうだろう、そうなる前に自らを隔離するべきだと、対策部長は決断を促した。


「お前が協力的なら、我々も手荒な手段は取らないでおこう」

「……で、あんたは何者なんだよ。まだ答えてもらってない」

「こういう面倒な患者に対応するために作られた、半民半公の対策部隊だ。警察の外部協力者と言えば分かるか?」


 首に掛けたカードホルダーを、矢知がシャツの下から引っ張り出して見せる。

 権限証明書らしく、もっともらしい外見ではあっても、潤に真贋を判別できる代物でもない。


「行き先は牢屋じゃなくて、病院なんだな? 出て行ったら撃ち殺されるなんて、冗談じゃないぞ」


 睨む潤へ、矢知も真正面から答える。


「無闇に人を傷付けるようなことはせん……お前たちとは違う」


 冷徹な司令官といった態度は崩れないものの、彼の最後の言葉はどこか憎々しげに響いた。

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