第一章 巻月潤
01. 巻月潤
寒さの緩んだ四月初頭、
半日以上にも亘る拘束を終えて、彼の足取りも軽い。
入学手続きは先週、今日は新入生への諸注意と健康診断の実施日だ。
注意事項の説明が二時間に及んだのも驚いたが、昼休みを挟み、その後の健康診断が三時間も掛かったのは全くの想定外だった。
百万を超える人口が暮らす巨大地方都市、城浜。
この街では、いくつもの不穏な事件が影を落としている。
特に大学にも近い中心街では、四肢を切断された猟奇殺人が連続し、大学の説明会でも注意が促された。
ATMや自販機の破壊、路上強盗の増加、放火と見られる火災の発生。
先月も街中で若い男の全裸死体が発見されており、治安が悪化しているのは間違いないだろう。
港湾を中心に栄えた城浜では、外国船舶の入港も多い。
そこから伝染病や未知のウイルス、危険外来種が侵入する事例が頻出したため、その予防策が先の健康診断である。
血圧測定や血液検査だけでなく、免疫能の有無を調べる抗体検査というものも行われた。
地方出身という理由で県内進学者より検査項目が多く、苛立ちはしたものの文句を言っても仕方がない。
結果が判明するのは一週間後で、チェックに引っ掛かった者は更なる精密検査が待っているらしい。
――面倒臭い。再検査なんて、勘弁してくれよな。
新生活、潤がやるべきことは山積みで、雑事が増えるのは避けたいと思う。
夕方の街路は買い物帰りの主婦が多く、生命を脅かすような不安とは無縁だ。
少し脅かし過ぎだろうと、大学の対応には彼も苦笑いが浮かぶ。
城浜大学は、中堅私立として規模だけは抜群に大きい。街の中心地近くに位置し、潤も早速、人波溢れる雑踏の洗礼を受けた。
城浜から遠く、古臭い寺社くらいしか見どころの存在しない故郷。その黴びた町の中心から、さらにバスで二十分かけて行き着く山の中に実家は在った。
神隠しや怨霊による祟りが、かつて本当にあったこととして語られるド田舎だ。
彼にとって、都市生活は憧れだった。
ただ、本当は国立大学が第一志望で、城浜を受けたのは小論文と面接だけの試験形式が魅力的だったせいだ。
実際、国公立を受験すれば、彼の偏差値では不合格になった可能性が高い。
それでも進学が叶ったのは、猛烈に勉強したから――そう言いたくても、分不相応なのは自覚がある。
バカだ脳筋だとからかわれて十八年、これを覆す気なら大学だけではまだ足りない。
遊ばず、勉強に邁進して、最後に悪友たちを見返すことを心に誓っていた。
幸運なことに、試験結果は優秀だったようで、学費はかなり減免されるらしい。
バイトに明け暮れる心配は無用のようで、今後のキャンパス生活に希望が持てた。
あれこれ大学生活について頭を巡らせている内に、二階建てのコーポへと到着する。
大学から歩いて通える下宿は、どこも人気が高く、このコーポも全室が城浜の学生で埋まっていた。
ゴミ捨て場の横を通り、建物の脇に設けられた階段で二階へ上がる。
彼の部屋は奥から二つ目、鍵をポケットから出していると、階下からバカ笑いが響いて来た。
男女複数の声が混じっているのを聞くと、誰かが部屋に友人たちを連れ込んでいるに違いない。
床下の話し声も届く安普請なので、あまり遅くまで騒いでくれるなと彼は願った。
「今日は疲れたね」
「ん、ああ。そうだね」
扉を開けた時、横から軽やかな声が掛かる。
一番奥の部屋の住人、
同じ文学部の新入生で、潤と同時期に入居し、何かと顔を合わす機会が多い。
どうやら出身地も近いらしく、お互いに親近感を抱いていると思うのは、彼の勘違いでもないだろう。
実家は二県も離れた土地だったが、入学してみれば同郷も多かった。
後ろを通り過ぎる有岐に、オーバーアクションで両手を挙げてみせると、クスクスと笑い声が上がる。
人懐っこそうな彼女とは、履修や一人暮らしの相談も出来るかもしれない。
このアパートを選んで良かった点かなと、潤は横目で有岐を見送りつつ部屋に入った。
靴を脱ぎ、上着をハンガーに掛け、洗面所で顔を洗う。
田舎に比べて埃っぽい街では、顔を湿らせる冷水の刺激が気持ちいい。
これで水がカルキ臭くなければ文句も無いのに、と、彼はタオルで顔や手を擦った。
二重線。
鏡に映る自分に違和感を覚え、潤は顔を鏡面に寄せる。
スポーツマンとは程遠い彼も、顔付きだけは精悍な部類だろう。
イケメンと言うには、少し古臭い目鼻立ちかもしれない。
短めの髪を掻き上げ、パーツの大きい見飽きた顔を確かめると、タオルを投げて部屋に戻る。
輪郭がブレたような奇妙な感じを受けたものの、気のせいだと結論付けた。
――昔、実家のテレビが、こんな映り方をしてたっけ。
アナログ放送ではあったゴースト現象、デジタル化した今では見られない輪郭の多重化である。
鏡像がそんな風に見えたなら、目の疲れを疑った方がいい。
実際、血も抜かれたし、立ちっぱなしだった。疲れが出ても何ら不思議ではない。
夕食の準備も放棄して、彼はゴロンと畳の上に寝転がる。
“よせよ! バッカじゃねーの”
“アハハハッ!”
案の定、真下の部屋での喧騒が丸聞こえだ。
耳栓代わりと、頭の安定のために、彼はクッションを引き寄せた。
クリーム色のクッションも、元は純白だったはず。もうくたびれ切った代物を、肌触りが気に入っているからとわざわざ実家から持って来た。
クッションを二つ折りにして頭を沈めれば、両の耳が都合よく綿に埋まる。
多少なりとも騒音を遮断して、平穏を確保した潤は、うつらうつらと眠りに落ちていった。
風呂で溺れ、口腔に水が流れ込む。
酸素を求めて息を吸い、余計に事態を悪化させる、そんな悪夢を見た。
湯で身体が熱せられ、頭の血が茹だる。
ウンウンと唸りつつ、二、三度首を振った潤は、全てが夢でないことに気付いた。
湯の代わりに顔を濡らすのは滝のような汗、部屋は夏の如く蒸し暑い。
息が苦しいのも現実で、原因は白い
ヤバい、ヤバすぎる、ヤバいヤバい、と少ないボキャブラリーが潤の頭の中でぐるぐる回った。
初めての経験であっても、熱と煙と来れば思い浮かべるのは一つ。炎を探して室内を見回すが、白煙以外に変わりは無い。
うっかり煙を深く吸い込んでしまい、エホエホとえずいた潤は、慌てて床に放りっぱなしのスポーツタオルを拾い上げた。
口をタオルで覆って外へ出ようとしたところで、部屋の隅のタンスに取って返す。
一番上の引き出しから通帳と印鑑を掴み、これらはジーンズの尻ポケットへ。
更に机に置かれた財布とスマホは、前ポケットへ
貴重品を回収して、ドアを開けた途端、大量の煙――真っ黒の煙と
二階通路は黒煙が溢れ、防護柵の下部を炎の先がチロチロと舐めていた。
火元は直下、そう彼の勘が告げる。
潤は姿勢を屈めて通路を走り、階段を駆け降りた。
建物を遠巻きにする一団を認めると、そちらへ近付き、火事の原因を尋ねる。
「カセットが火を噴いて――」
「三つとも引火したんだ」
「いきなりカーテンが燃え出したのよ!」
潤と同年代の学生たちが、口々に発火時の様子を説明した。
彼の予想通り、一階の奥から二つ目の部屋が出火元で、鍋をするのに並べたカセットコンロが爆発したらしい。
火種はカーテンや天井に飛び散り、あっという間に大火事に発展したと言う。
部屋に居た四人の内、二人は爆発に巻き込まれて火傷が酷く、地面に寝かされていた。
彼らを運び出すのを優先したため、初期消火など望むべくもない。
近隣の人間も集まり始めてはいるものの、肝心の消防車はまだ到着していなかった。
「通報したんだよな?」
不安を感じた潤が、一同を見回して聞く。
皆は顔を見合わせるばかりで、自分が連絡したと名乗り出る者はいなかった。
「馬鹿野郎! さっさと電話しろよ!」
「は、はいっ」
ウェーブのきついミドルヘア女に通報を任せ、他の連中には全員が避難しているかを確認させる。
部屋番号や名前を呼び合う彼らを見ていた潤は、有岐の姿が無いことに気が付いた。
「間島は? おいっ、間島!」
返事も無ければ、振り向く顔もいない。
彼はコーポへ向き直る。
炎は遂に二階に及び、屋上を超える火柱が空へと伸びていた。
「これ、持っててくれ」
「え?」
「無くすなよ」
通報を終えた学生に貴重品を渡した潤は、近所の年寄りが持って来たバケツを奪う。
中に汲まれた水を頭から被り、彼は建物へと走り出した。
「きみっ、危ないぞ!」
「中にまだ人がいる!」
酷い煙ではあるが、まだ火を避けて二階に上がる余裕はある。
問題は彼の部屋辺りで、いよいよ本格的に炙られて炎が壁を作り、その火勢に潤もたじろいだ。
しかし、ここで引き返しては有岐の生還は絶望的だろう。
自力で出て来ないところからして、室内で倒れている可能性が高い。
コーポの全焼は避けられそうになく、救出する気なら彼も覚悟を決める必要があった。
――やってやろうじゃんか。突っ込めば抜けられる!
根拠などあろうはずもなく、指を
タオルを顔に巻き付けて目より下を覆うと、潤は最奥の扉へ向かって頭からダッシュする。
一瞬、灼熱が顔を舐め、額の水滴を乾き飛ばした。
炎は奥まで届いておらず、彼の部屋の前を抜ければ、直接焼かれずには済む。
膝を突き、煙から逃げるように姿勢を低くした潤は、ドアノブを手で探った。
「
金属製の扉の異様な温度に、思わず声が出る。
気合いでノブを掴み、勢いよくドアを引き開く。
黒煙と共に中に這い進んだ彼は、床で横たわる人影へと近寄って行った。
危惧したように、有岐は布団を被ったまま動かない。
どうやら潤と同じく仮眠を取ったらしく、睡眠中に昏睡したのだろう。昼寝好きとは気が合うなと思いつつ、彼女の安否を気遣って顔を覗う。
煙が目に染みたせいか、その横顔は滲んで見えた。
「おいっ、しっかりしろ!」
「ん……」
顔を叩き、呼び掛けてみるが、反応が薄い。
引き摺ってでも運び出そうと、掛け布団を剥いだ潤は、緊急事態にも拘わらず固まってしまった。
「ちょ……」
下着にTシャツという格好の彼女を、そのまま連れ出していいものか。
――どうすんだよ。ダメだろ、これじゃ。
「起きろよ、服着てくれって!」
仰向けの有岐の輪郭が、二重、そして三重に線をダブらせる。
合わない焦点に、潤は目を細めつつ、彼女の腕に手を伸ばした。
空間が
その瞬間、乾いた破裂音が部屋の中に響き渡り、強烈な力が潤を弾き飛ばす。
部屋の壁へ叩き付けられた彼は、ゴム人形の如く床に崩れ落ちた。
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