02. 檻の中
有岐の寝ていた床が凹み、敷布団は渦を巻いて丸められている。
畳に空いた穴を塞ぐように、ぎゅうぎゅうと布団を詰め込んだようだ。
天井も一部が剥落し、照明は吹き飛んだ。所々でキラキラと光を反射しているのは、目覚まし時計や蛍光灯が砕けた欠片らしい。
暑く汚い空気の中、四つん這いになった彼は喘ぎながら有岐を探す。
「なんで……?」
布団は在れど、その
爆発を思わせる惨状だが、血痕は見当たらず――。
「
血なら彼の手元に、ボタボタ落ちていた。
彼女へ伸ばしていた左腕に長い裂傷が刻まれており、
その傷とこめかみが、痛みを訴えてズキズキと脈動する。
有岐に何が起きたのか、彼女はどこへ消えたのか。推測も出来ない事態に、彼の頭も悲鳴を上げた。
彼が動くたびに、床のあちこちから煙が噴き上がり、晴れていた室内もたちまち不透明の煙幕で満たされていく。
「間島は……くそっ、
目はぼやけ、痛みのリズムが加速する。
もう自分も脱出するべきだ、救出相手を見失った潤はそう決断した。
傷を負った腕を押さえて、彼は膝歩きで扉に向かう。
安い家賃はコーポの建築費を抑えた結果で、改修もいい加減な代物だった。
建材にも露骨に反映されており、耐火性が低い壁や天井は火の回りが早い。
潤が玄関ドアを開いた時には、外は一面の火の海に変わり果てており、熱風が部屋の中へと吹き込んだ。
火事の直接的な原因は、学生が使用した古いカセットコンロだったが、被害を拡大させたのは壁紙である。
倉庫に眠っていた古い壁紙を、新たな入居者が来る度に貼り重ね、火に弱い多重の層が生まれてしまっていた。
内部で準備を整えていた壁は、熱風に煽られて発火する。
フラッシュオーバー、瞬間的な一斉着火が、周囲の酸素を食い尽くした。
外からの気流に押し戻されて後ろへよろめいた潤は、バランスを保てず床に倒れ込む。
意識が遠退く中、炎は彼の左右から伸びて視界を端から塗り替えた。
背中が熱い。それが最後の記憶だ。
バチンと頭のスイッチを切った潤は、思考を止め、黒い虚空へと沈んでいった。
◇
同じ目覚めとは言え、火事で起きた時とは全く違う。
真っ先に感じたのは冷たさ、体温を奪う冷気だ。
頬を床に擦り付けた姿勢で薄く目を開けた潤は、自身がモノトーンの世界にいると知る。
炭の黒と、灰のグレーで構成された、暗く汚い部屋である。
畳――炭化した残骸に過ぎないが、これが水浸しで、身体を冷やす元凶になっていた。
ゆっくりと頭を持ち上げ、正座するように上体を起こす。
支えに使った左腕はまだ痛み、見れば傷口が開いたままだ。
せめて傷を押さえる物をと、彼は部屋の中に視線を巡らせた。
火は完全に鎮火し、床だけでなく壁や家財道具も濡れてしまっている。
タンスは真っ黒ではあるものの元の形を保っており、上段は無事に見えた。
力無く立ち上がった潤は、誰もいない部屋を横切り、タンスの棚に手を掛ける。
横幅半分サイズの上から二番目、幸い取っ手の金具も引いて外れるようなダメージは受けていない。
火に晒されたせいで、引き出すのに随分と抵抗はされたが、右手一本の力でズルズル棚が前に出て来る。
外見よりも中味の損傷が酷く、底板は焦げて穴が空き、棚の内側には黒々と布の残滓がへばり付いているだけだ。
比較的マシな一枚を剥がして、怪我に当てがおうとした彼は、情けなく口許を下げて
――またかよ、これはマズい。緊急事態だからって、これは無い。
また苦労して最上段の引き出しを開けると、今度は青いスカーフの焼け残りらしき物が手に入った。
半分近く焼失していようが、下着よりはいい。これを左腕に当て、口と右手で縛る作業に没頭する。
夜風で彼の前髪が揺れ、潤はここでようやく部屋の窓ガラスが無いことに気付いた。
窓は綺麗に割り砕かれ、枠にギザ付いた断面が少し残るだけだ。
窓の外は日も沈み切り、隣の民家の壁しか見えない。高さからして、向こうも二階の側面だろう。
布を巻き終えた彼は、窓に近寄って下に目を遣った。
コーポと民家の境は、よくある菱格子のフェンスが仕切っているはずが、自分の記憶と違うことに戸惑う。
緑色のフェンスはともかく、その内側にも鋼線を何本も横に渡したような囲いが存在した。
それに、仕切りより奇妙な事がある。音だ。
声も自動車の走行音も、何も聞こえない。
消防車が駆け付けた様子も無く、ただ炎だけが消えている。
喧騒を撒き散らしていた学生たちも、部屋で倒れていた有岐も消え、潤一人が火災現場に取り残されてしまった。
この彼女の部屋で気を失っている間に消火作業が終わり、誰からも無視されて放置されたというのか。
それが唯一考えられる推理であっても、納得できるものではない。どうして自分は救助されなかったのか。
外に出ようと、ドアへ向かって焼け跡を歩く彼は、もう一つ根本的な疑問を抱く。
この盛大に焼けた部屋に留まりながら、何故、自分は助かったのだろう、と。
確かに煤だらけで、怪我もしている。左腕だけでなく、指先も痛めたらしく、どの指も出血していた。
しかし、多少ヒリヒリする程度で、焼かれた箇所が――火傷したところが無い。
普段なら勝手に閉まる玄関のドアは、少し開いた状態で止まっていた。
フレームでも歪んだのだろう、押すとギーギーと耳障りな音を立てる。
黒焦げの廊下に出て隣へ向いた潤は、階段近くの一点に目を奪われた。
三脚で支えられた直方体の影。
青いLEDの輝点と、月の光を反射する三連の眼――余計な付属品が大量に付いていても、ビデオカメラの類いに間違いなかろう。
そんな物が在る理由が分からず、彼はカメラへ向けて歩み出す。
自分の部屋の前まで進み、中を一瞥した潤は、カメラに負けず劣らず異様な光景に目を剥いた。
開け放たれた扉、その代わりに何本もの極細のワイヤーが張り巡らされ、侵入者を阻んでいる。
ピアノ線に似た鋼線が、十センチ刻みで上から下まで二十本以上は戸口を横断しており、単なる立入禁止のサインにしては厳重だ。
ワイヤーに触れようとした彼は、ジジジと鳴る微かな虫の羽ばたきに似た音を耳にして、指の動きを止めた。
直感が、危険だと彼に教える。
落ち着いて観察すれば、最下端の鋼線は通路の壁際を這い、カメラの近くまで伸びていた。
三脚の傍には、ティッシュの箱を重ねたような黒いボックスが在る。
暗闇に難儀しつつ、目が線の行方を追う。
ワイヤーの末端は黒箱の上部に並ぶ突起へ、おそらく、ネジ留めされているらしかった。
天井から剥がれたのだろう、通路に散らばる小さなモルタルの破片を一つ拾い、ワイヤーを狙って投げてみる。
スタンガンを連想したのは、まず正しい推測だろう。
不法侵入を許さない厳重な電気の防壁――。
――違うな。何かを閉じ込める仕掛けでは? 泥棒? ライオン? 動物園?
妙な方向に行きかけた想像を、今一度、現実に引き戻す。濁った頭が痛む。
悪戯や窃盗を防ぐのに、一部屋だけを厳重に封鎖するのは理屈に合わない。
部屋の住人を外に出さないために、つまり高電圧の仕掛けは、本来そこに居るべき潤を逃がさない檻だと考えられた。
猛獣扱いされる
少なくとも、彼の頭には警報が鳴り響いていた。
放火犯だと見做されたのでは。或いは、有岐の消失に関与してると思われたのかも、と不安が募る。
どちらにしても、覚えの無い容疑で何者かに追われるハメになろう。
そんなものは空想、冷静になれば突飛な連想ゲームに過ぎないのだが、立て続けにショックに見舞われた潤は思考をまとめるのにも苦労する有り様だった。
出血は少量ではあっても、腕の傷を垂れる感触が気に触る。
顔にも怪我があるのか、頬が温く濡れてきたように思う。
一旦、コーポを離れて身を落ち着けたい。頼れそうなのは実家くらいか、そう考えたところで、スマホも財布も他人に預けてしまったことを思い出した。
「くそっ、どうすんだよ、これ……」
再びカメラへ視線を戻した潤は、迷いが晴れないまま、そちらへ大股で歩き出した。
カメラが捉えた映像を誰が監視しているのか、彼に知る由も無い。
だが、その見えない相手の登場を待つという案は、二つの理由で却下された。
電気ワイヤーに監視カメラ、こんなやり方が真っ当な警察によるものとは信じ難い、これが一点。
そして、もう一つ。
――俺は法なんか犯してない。ビクビクしてたまるかよ。
容疑者とされるだけでも、十二分に不愉快だった。
素直に出頭するのが正しい選択肢なのだろうが、それを選べるほどの従順さを彼は持ち合わせていない。
最後は警察の厄介になるとしても、まず堂々と出ていってからだ。
自分が拘束対象だというのは潤の想像に過ぎず、
唯一この土地で馴染みがある大学へ赴き、警備員に事情を話して、中で待たせてもうことも考えた。
電話を使えれば家に連絡できるし、事務局の職員がいれば顔も知っているので、頼み込んで金を借りればよい。
この方針で行くと心を定め、カメラに手が届きそうな距離まで近寄った時、ピンと言う小さな電子音が発生した。
防護柵と壁に取り付けられた赤外線センサー、二つの機器に挟まれたラインを横切る者は、これに探知される。
センサーが動体を認めた結果、地上に並べられた投光器の群れが、次々と建物を照らした。
強烈な光を左手で遮りつつ、駆け足に切り替えた潤は、三脚を避けて階段に向かう。
こんな場所、さっさと走り去りたいところだが、地上にも張られたワイヤーを前に、急停止せざるを得なかった。
高電圧線はコーポをぐるりと囲んでおり、どこにも出入り口が見当たらない。
ワイヤーに沿って半周ほど走った彼は、電源を止めない限り脱出できないのだと悟る。
「……潰しちまうか、こんなもん」
建材の残骸なら、いくらでも在る。
ワイヤーなり、それを支えるポールなりにぶつけてやれば破壊できると踏んで、彼は建物へ戻った。
一階の通路にもカメラが置かれており、その前を通って端の部屋の中に入る。
半焼したカラーボックス――今はもうブラックボックスだが、これなら手頃だろうと、彼は中身をぶち撒けて担ぎ上げた。
室内へ、真横から光が差し込む。
投光器ではなく、車のヘッドライトだ。
電気ワイヤーの外側に、囚人護送車を思わせる四角い大型車輪が潤の方を向いて停まった。
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