3.七宝焼きのネコ

 あの子の一番の宝物は七宝焼きのブローチのネコだ。つんとすました瞳は鋭くブルーグレイに沈み、ガラスの毛並みは素晴らしかった。口に含んでみれば、微かな苦みと一緒に、薄荷のような匂いがする。しかし、特筆すべきはその色だ。この作品を生んだ職人は、さぞや高価な釉薬を使ったのだろう。寝ぼけた夢の尻尾の混ざりこんだ朝焼けを、頭の中から染め出したかのように光る。




 このブローチはもともと母さんのものだった。高い衣装箪笥の上の綺麗な箱の中にあるのを私は知っていた。街に出かけるとき、お母さんの外套の襟にはいつもこれがついていた。私はそれを見るのが好きだった。

 私が高熱を出したとき、黒い列車に乗って遠くの街の医者のところに行った。病院で、母さんの外套からブローチが外れて落ちたのを私は知っていた。でも母さんは泣いていて気がつかなかった。夜が明けて、小さな子供の影法師がそれを拾ってもっていってしまおうとしたのを、私は屋根の上から見ていたので、追いかけていって取り返してやった。

 後でこのことを母さんに言ったのだけれど、なんのことだかわからないといった顔をされた。それで私はこのブローチを今でも大切に持っていて、母さんには返せずにいる。



***

 職人の朝は早い、なんてうそぶきながら、工房の主は窓を開けた。朝露を連れて空のどこかから降りてきた風が、徹夜明けの体にしみわたる。白みだした空は、深い青から薄紅に。遠くのほうで、布切れみたいな雲がたなびいているのが見える。

「おや」

 大きく伸びをした体勢のまま、職人は目を凝らした。雲だと思っていたものの一部が、輝くかけらを雨みたいに降らせながら、雲から離れて飛んでくる。

「竜か。――今日はいいことありそうだ」

 こもっていた空気は綺麗に出て行って、耳に、消し忘れたラジオの音が戻ってくる。

***



 また別のとき、このブローチは夏の日、家出したときに出くわした、縁日で買ったものだった。周りにいたのは、私と同じくらいの、綺麗な浴衣を着た女の子ばかりだったので、ティーシャツと短パンにサンダルを引っ掛けてきただけで、その上大荷物の私は居心地が悪かった。

周りの人たちはみんな面をつけていた。アニメのキャラクターの面は、見慣れたプラスティック製ではなくて、なぜか紙の張子でできているのが分かった。

 あやしい骨董品のようなものが並んだ出店に、いかにも詐欺師めいた風貌の男がいて、女の子たちに、なにかきらきらした品物を見せていた。男は、遠くでそれを眺めていた私をそっと呼び寄せて、手元のこのブローチを見せた。ネコの目が光った。

 朝方になって帰ったら、めちゃめちゃだったはずの家の中は普段通りになっていた。



***

 工房の主は、上機嫌で最後のひと仕事を終えた。ラジオから流れてくる、知りもしない三拍子の旋律に合わせて、鼻歌なんて歌いながら。ここ数ヶ月、ガラスに特別な素材を混ぜ込んで焼く手法を模索していた。今朝になってようやく生まれた成功作は、それはそれは素晴らしいできだった。

 そろそろ寝ようかと思っていると、使い残したはしたの粘土が目について、どうせだから、なにかの素焼きにでもしてやろうと考えた。相変わらずラジオがかかっていた。当てずっぽうな歌詞を口ずさみながら、こねくり回していた代物は、焼き上げてみると、妙に冴えない感じの鳥の形になったけれど、なかなか愛嬌のある目を描けたから、良しとしよう。

***



 別のとき、これは、私の友人だった空を飛ぶ子が、夜明けの空の薄暗がりの、白い竜のねぐらからくすねてきたものだった。そして私の蜻蛉玉と交換してくれた。蜻蛉玉はじいちゃんがくれた、青と赤と黄の大きいものだ。じいちゃんには船乗りの友達がいて、色々なめずらしい品物をもっていた。


 ある満月の晩、ブローチは本物のネコになって、竜のところに私を連れていった。ネコは盗品だったのだとネコ自身から聞いて知った。私はネコを返そうとしたけれど、子供好きの竜は微笑んで受け取らなかった。私はネコといっしょでないと、この場所に来られない。空を飛べない私は、そうして竜と知り合った。


 竜の白い身体は色を弾いてしまうらしい。だから竜は、夜明けの空の薄暗がりのねぐらから起き出すと、夜明けや、夜を越えた先にある夕暮れの空に身体を伸ばして、その色を染めつけてから帰ってくる。竜がねぐらに戻る頃には、一度染まっていた色が、鱗になって剥がれ落ちて、小さな欠片になる。

 竜のねぐらから少し下った所には、職人と盗賊の町があって、職人たちは、竜から剥がれた鱗を加工して暮らしている。竜は彼らに空の色をやる代わりに、季節に一度、彼らの作品の中で、もっとも出来のよかったものをねぐらにもって帰るのだ。そういえば、その町にはまだ、飛べる人たちがいるらしい。空を飛ぶ子はきっと、そこの子だから飛べるのだろうとネコが言った。

 ちなみに例の空を飛ぶ子は、いまでは蜻蛉玉の職人になっている。

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キウイと円舞 桐谷佑弥 @suzutorisakana

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