2.本棚
もうずいぶん前のことになるが、私の本棚にある陶器の鳥のことだ。これはかつて私が、ある人から譲り受けた。不思議な人だった。顔ももうはっきりとは思い出せないが、あの人の本棚は時々夢に出る。
あの人がいなくなってしまって、私が警察に呼ばれた。直接に関わることは多分ほとんどなかったのだ。一方通行の想いを言うならば、私は容姿くらいしか知らないあのひとが好きだったし、あの人もあの人で私を好いてくれていたのだろうと今では思う。辛うじて互いに名前と顔とがわかる、その程度の希薄な関係のどこかでのこと。
私のもとに警察がやってきたのは、消える前、あの人が私を部屋に招いたからだ。近隣住民は透明人間ばかりだのに、警察は彼らの証言をかき集め、私を名指ししてきた。優秀だと思う。
あの人は職場で大人しく、誰かと親しくしたりしていなかった。他の場所でもきっと変わらなかったのだろうと思う。そういえばあの人を初めて見たときも、その後も、文学少女がそのまま社会人になったような印象を受けていた。丸い目は黒目がちでうるんでいた。よく見るとかわいらしい顔つきなのだが、特段に他人に覚えられづらい形と名前をしているらしかった。スーツはいつも埃っぽいが、一向に型崩れする様子もなく、また一向に彼女の体にはなじまない様子だった。私はなんとなく、いつも彼女を気にしていた。そのくせ顔は思い出せないのだが。
彼女が私を招いたときも、少し意外な感じはしたが驚くほどでもなかった。ただ、彼女でもそんな気分になることもあるのだろう、とそう思った。
訪ねて行くと、紅茶を出された。慣れ親しんだ味と同じような。もしかしたら私が買い置きしているものと同じメーカーのものだったのかもしれない。部屋には小さな本棚がいくつもあって、色褪せた文庫本が詰まっていた。
部屋の一番奥に、ひとつだけ大きい本棚があった。他の家具とは違い、高級品の趣があり、黒く重そうな木材でできている。両開きのガラス扉がついていた。
近寄ると、中には、本ではなく作り物の動物たちと、白磁でできた踊り手たちがぎっしりと並べられていた。壊れたのを修繕した跡の残るものもかなりあった。踊り手は、てんでバラバラに手足を振り上げ、笑いながら、みんなこちらを見上げている。棚の隅のほうで、黒く丸い目でこちらを見上げる茶色い鳥の置物が、なんとなく彼女に似ているようで目についた。人間の踊り子よりも、鳥のほうが似て見えたというのも変な話だけれど。
彼女は棚を見せてしまうと、欲しいものはないかと私に尋ねた。これもまた唐突で、私は反射的に質問の理由を聞いていた。誕生日がもうすぐだから、と、おずおずと差し出すような言葉が、回答だと理解するのに少しかかった。
自分でもすっかり忘れていた。この人はどこでそれを知ったのだろうか。思い返せば、一年か二年ほど前、誕生日占いが流行ったときに言ったことがあるかもしれない。それを覚えていたのだろうか。やや混乱した頭で考えていると、一番好きなものはどれかと、再度尋ねられた。彼女は普段滅多に口を開かず、話しても淡々と話すのを知っていたので、必死さが伺える声色に、動揺させられていた。
棚に目をやり、ずらりとこちらを見上げる置物たちを吟味する。反射的に一番安そうなものを探していた。これらは、きっと彼女の宝物だ。しかし、彼女はなぜかそれを私にくれようとしている。彼女の声色が頭の中でこだましていた。安そうな、という選び方では、却って不誠実なのではないかと思い直す。それに、私は今まで陶器の置物なんて買ったことがなくて、それらの価値を推し量ることができなかった。結局先ほどの茶色い鳥を選んだ。
彼女は本当にうれしそうに、私がそれを選ぶとは思わなかった、だなんて言った。真意はうまく掴めなかったが、喜んでいるようなので良かったと思った。彼女は私が選んだ置物を取り出すと、台所のほうで綺麗に梱包してきてくれた。
こういった経緯で、このかわいらしい鳥は私のものになった。私の悪い癖だけれど、そのときのラッピングリボンが捨てられずにいる。
お礼になにか必要だろう、だとか、彼女の誕生日を私は知らないことだとかを考えているうちに一週間ほどが過ぎ、彼女が職場に来なくなった。そしてしばらくして警察が来た。
隠すようなこともないので、私が彼女を訪ねたことを話した。磁器の鳥とリボンに関しては、調べるからと持っていかれたが、しばらくして返された。その後はなにも無かった。聞いた話によれば、空になった彼女の部屋の家具やらはそのままだったが、扉付きのあの本棚の中身だけは空になっていたらしい。
数年が経った。あの頃からいる人たちは少し老けた。彼女のことは、日常生活の中では比較的大きな事件に属することだろうが、数か月で誰もが忘れ去ってしまった。年に一度ほど、そんなこともあった、なんて誰かが言い出すことがあるが、その程度のことだ。
私の本棚にはあの鳥が飾られている。それで私は見るたびに、あの人のことや黒くて大きな本棚を思い出す。
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