1.キーウイ鳥のワルツ

 些細な事故のようなことで、ふとした瞬間に忘れかけていた言葉と再会を果たすことがある。奇跡というのは、「はじめまして」ではなくて、「ひさしぶり」のことだ。例えば、流れ星の光はそれこそ些細な事故のひとつだろうけれど、私たちに星の言葉はわからない。でも、言葉との再会ならば、そのものによって彼らの記憶を手繰り寄せられる。それが私のものでなかったとしても。


***

 ならず者のウィリアム親父、劇作家のジェームズ兄貴を訪れた。そして尋ねる。進捗どうだい。

 ジェームズ兄貴、しかめっ面で原稿の束をぶちまける。空中を舞う紙と紙。

 そこからポロポロ、そしてバラバラ落ちていくのは文字の雨。それからブンブン、やがてバタバタ飛んでいるのは文字の虫。キーウイ鳥がワルツをおどれば、俺たちゃ商売あがったり!

***


 課題曲「キーウイ鳥のワルツ」。曲名を忘れかけていた。放課後の図書館でなんの気なしに開いてみたページ、その言葉の意味はやはりわからなかったけど。

 ワンフレーズをきっかけにして、あの頃の記憶が、私の意志とは関係なしに蘇ってくる。調子のよいときの数独や、毛糸のセーターのほつれみたいに。


 あの頃、あの子の家にはまだマホガニー・ブラウンのピアノがあって、窓からやってくる午後を、ひたすらに抱きしめていた。私にはもういないけれど、あの子には姉兄がいた。鍵盤をなぞる指は黒鍵ばかりを追っていて、旋律は記憶の砂山にすっかり埋もれてしまっている。(曲名は「キーウイ鳥のワルツ」だ)

 頭の中の近所の婆さんは、こちらが辟易するようなガミガミ声で叫んでいる。譜面との押し問答だ。私はいい加減黙って欲しかったのだけれど、音符が解るのがそのひとだけなのだから仕方がない。右手と左手は冷戦のさなか。彼らを楽器に触らせるのが間違いだったろう。


 それが今の私の感想だった。しかし、あの子はそんなことに気づきもしなかったし、ただ純粋に楽しんでいたのだと思う。それとも楽しむということすらよく知らなかったのかもしれない。

 それで、多分きっと、私の知らない言葉を話していた。


 午後の日差しはあまりに強い。キーウイ鳥のワルツはその頃はまだ、エミュー鳥のマーチだった。姉さんがやって来て、しきりに文句を言っている。私が聞く耳を持たないので、サアーっとカーテンを閉めて行ってしまった。譜面が暗転する。マホガニー・ブラウンが得意げに艶めいて、ミミズク鳥のララバイはエミューよりも幾分かはマシだった。暗くなった部屋で、鍵盤の残像がちらちらしている上を、足の長いクモが走り抜けて出ていった。寝室のほうから悲鳴がしたのを聞くに、クモは姉さんを脅かしに行ったらしい。

 兄さんは瓶底眼鏡をかけていて、ひょろりと長い手足をいつもぶらぶらさせている。そしていつも曲名を尋ねてくる。それは決まって、「キーウイ鳥のワルツ」なのだけれど。兄さんがあんまり真面目くさっているので、私もふざけ半分にすまして答えるのだった。そうでないときは、私のピアノをほめる。美しい曲だ、良い音だ、これはきっと弾き手の実力に相違はない、とこんな具合に。しかし兄さんは音楽を知らない。結局は言葉が続かず、語尾をにごしつつ、ピアノのマホガニー・ブラウンをほめる。瓶底の奥の黒目が落ち着かなげに揺れるので、もういいよ、と私は彼を追っ払う。

 別のときの兄さんは、やっぱり瓶底眼鏡だ。そしてピアノとたいそう仲が悪い。兄さんはゲームが好きだ。兄さんの手にかかれば、楽器は宇宙船の操縦パネルに早変わりする。紙製のディスプレイに浮かんだ悪の怪人どもに、ミディデータのパルス波形が炸裂する。兄さんの作った曲はとっておきの、極太のレーザー光線で、敵を「灰燼に帰す」ことができるのだ。私がピアノを弾き始めると、旋律は瞬く間に不気味なスライム状生物へと転じ、それが兄さんの銃撃を浴びてのたうち回るので、このグロテスクなゲームが嫌になってきた。そのことが原因で兄さんと口論になった。ついには私が泣き出した。それっきり、彼が現れることもなくなったが、厄介だったのは彼が本気で私を喜ばせようとしていたと、私が知っていたことだ。罪悪感は置いておいて、他にどうすることができたというのだろう。


 あの頃の私が、兄さんや姉さんのことを見定め、あるいは思い出せなくなる前に、あるいはキーウイ鳥のワルツが弾けるようになる前に、私は全く新しいものに変わってしまった。あの頃から数えて、はっきりとした自覚はないものの、確かに四度ほど変わったと思う。それで、今の私はマホガニー・ブラウンのピアノも、兄さんも姉さんも持っていなくて、そのことに全く気づきさえしないまま日々を過ごしていた。

 「キーウイ鳥のワルツ」という言葉はあの頃からやってきた。それの直接の要因となったあの本の題は、メモを取ることも、再び手に取ることも、禁じられている類のもので、なおさら過去を確かめる術がないことに気がついた。兄さんがいなくなった直後と同じようなばつの悪さを感じた。しかしあの子はきっと、過去の再確認よりも新しい再会を望んでいる。

 これまでの、というより今の私は、編み上げる途中のリリアンみたいに神経質だった。それを頭のてっぺんからするするとほどいていって、私は一度いなくなった。それで、新しい、今の私になった。朧な記憶を頼って比較したところ、今度の私は、視界がぼやけていて、環境音ばかりを拾っている。そんな感覚にも一週間ほどで慣れた。前の感覚は忘れた。


 はす向かいの教室に、白い子がいる。薄茶けた猫っ毛で、豆腐みたいな頬をしている。目立つ子で、それでいて地味な子だ。ひとつ前の私のとき、その子と廊下ですれ違った。なにか小さく歌っていたのが気になった。ひとつの予感だった。(それは都合のいい記憶の改ざんにほかならないけれど)

 嘘のような青空に雲があって、枝先の若葉が時代を謳歌している午後だった。私はそこに小川の流れるような音を聞いている。そこに不可思議な信号が共鳴した。視界をさらうと、あの白い子が脇をすり抜けていくところだった。

 思わず呼び止め、曲名を尋ねた。知らない、と返ってきた。キーウイ鳥がワルツをおどれば、と暗号めかして言うと、懐かしい、とほほ笑む。

 私にとってその笑顔が何より懐かしくて、それでこの子も、あの子を忘れられないで、生きていて、きっとマホガニー・ブラウンのピアノが抱いた午後を知っているのだと思えた。

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