未来の依り代

諸根いつみ

第1話

 二人の老人が住む屋敷は、暗く冷えていた。簡素な家具があるばかりで、装飾品のひとつもない。

「もう一人のおじいさんは?」

 漂凛ひょうりんは尋ねた。「よく来たね、お嬢さん」と出迎えてくれたのは、漂凛が心の中で、白のおじいさんと呼んでいる人だった。肌も髪も白いからだ。本当の名前は確か、ひいらぎといった。

「出かけてるよ。ごめんね。能世のせのお話を聞きに来たんだろう」

 能世とは、漂凛が心の中で、黒のおじいさんと呼んでいる人だ。いつも黒い服を着ているからだ。

「そうだけど、おじいさんと一緒にいてあげてもいいよ」

「そうか」

 柊は微笑んだ。

「おじいさん、具合悪いんでしょ? 寝てることが多いって、もう一人のおじいさんから聞いたよ」

「僕はもうすぐ死ぬんだよ」

「そうなの? この家の二人のおじいさんは、雑貨屋のおばあさんが子供だった頃からおじいさんだったって、雑貨屋のおばあさんから聞いたよ。雑貨屋のおばあさんはすごく年寄りなのにね」

「そう。能世と僕は長く生きてきた。でも、誰だっていつかは死ぬからね」

「おじいさんの中の時間が消えちゃうんだね。わたし知ってるよ。わたしたちの中には、それぞれ自分の時間があって、その時間が消えると、死ぬんでしょ?」

「〈神話〉かな?」

「そう。お父さんとお母さんがね、いつも〈神話〉のお話をしてくれるの。神様が、大地と時間と、時間の棲み処となる生き物をお創りになったんだよね」

「そうだね。時間が僕たちの中に宿っているから、僕たちは笑ったり泣いたり、考えたりできるんだよね」

「うん。それで、たくさんの時間の中に宿っているすべての始まりと終わりは、もうすでに神様がお決めになっているから、死ぬことは悲しくないんだって」

「そうだね。僕も、自分が死ぬことを悲しんではいないよ」

「よかった。わたしもね、四年後に死ぬの」

「え、そうなの?」

「うん。嵐で倒れた木の下敷きになって、死ぬの。〈帽子〉を被って、未来を見たんだ。だからわたしは学校へ行かなくていいし、ずっと遊んでてもいいんだ」

 漂凛は自慢げに言った。

「お嬢さんは、いくつ?」

「六歳」

 柊は悲しげな顔になったが、それを打ち払うように言った。

「そうだ。能世がお嬢さんのために買ってきたお菓子があるんだ。出してあげよう」

「クッキー?」

「そうだよ」

「やったあ」

 クッキーと温かいミルクを楽しむ漂凛に、柊は真剣な口調で言った。

「お嬢さん、ひとつ、僕のお願いを聞いてくれるかな?」

「なに?」

漂凛はまた一つ、クッキーをつまんだ。いろいろな種類があって嬉しい。これはジンジャー。

「これを捨ててほしいんだ」

 柊が漂凛に渡したのは、一枚の写真だった。

「わあ、綺麗な人」

 ドレスを着た、一人の美女が微笑んでいた。かなり古いもののようだ。

「お嬢さんのおうちのゴミ箱に捨ててくれればいいんだ」

「素敵な写真なのに、捨てちゃうの?」

「うん。ほかに頼める人がいなくてね」

「わたしがこれを持って帰って、捨てればいいの?」

「そうだよ。あのね、能世には内緒にしてほしいんだ」

「秘密なの?」

「うん」

 柊はうなずく。漂凛もうなずいた。

「わかった」

「ありがとう。お嬢さんはいい子だね」

漂凛は、もう一度写真に目を落とした。

「なんかこの人、見たことあるような気がする」

「そうかい」

 柊は、特に驚いた様子はなかった。目元は陰り、肌の白さが深まっていた。


家に帰ると、険しい顔をした中年女性が漂凛の母と向き合っていた。確か、漂凛の兄の友達のお母さんだったか。

「うちの子が、お宅で〈帽子〉を被ったっていうんです」

「あらそうですか。気づきませんでした」

 漂凛の母は、笑顔でごまかそうとしているようだった。

「お宅の竜李りゅうりくんに勧められたんですって」

「ごめんなさい。お友達に無理強いするような子ではないとは思うんですけど」

「ええ。わたしもうちの子への言い聞かせが足りなかったかもしれません。うちは家族全員、〈帽子〉は被らないことにしようって決めてるんです」

「ええ、存じています」

「今後、このようなことがないようにしたいんです。もう、うちの子をお宅へ入れないでいただけます?」

「わかりました。竜李によく話しておきます。もししょうくんが訪ねてきても、入れないようにします」

「よろしくお願いしますね」

 その人は、居間の入り口で聞き耳を立てていた漂凛の横を通り、帰っていった。

「あら漂凛。帰ってたの」

 ソファーに座っていた母が振り返って漂凛に気づいた。

「ねえ、〈帽子〉を被るのって、悪いことなの?」

 漂凛は居間に入り、不思議に思って尋ねた。

「そんなわけないじゃない。もし〈帽子〉を被らなかったら、未来がわからなくて、今頃漂凛は、勉強をしたり、掃除をしたりして、あと四年間の人生をちゃんと楽しめないことになってたんだよ」

「だけど、お兄ちゃんの友達は、〈帽子〉を被っちゃいけないの?」

「あのね、人それぞれ、いろいろな考え方があるの。未来を知りたくない人たちだっている。よそはよそ、うちはうち」

「どっちが正しいとか間違ってるって、決まってないの?」

「お母さんは、未来を知ることが正しいと思うけど、違う考え方も尊重しないとね」

「よくわかんないけど、わかった」

漂凛は、居間の隅の椅子の上に置いてある〈帽子〉を見つめた。各家庭に一台はあるのが普通だけれど、兄の友達の家にはないらしい。一年ほど前のある日、竜李が漂凛に、「お前、自分が死ぬところ見てみれば」と言って、初めて被らされた。

テレビから、メリメリという音が流れ、激しい雨の中、大きくなる影が映し出された。

父の説明によると、頭の中にある時間を〈帽子〉が捉え、映像と音声に変換し、テレビに飛ばすのだという。

物心頃ついた時から、自分は十歳で死ぬのだと、家族に言われてきた。それを改めて確かめたことで、漂凛は安堵したことを覚えている。

「ねえねえ、このにおい、ラズベリーパイでしょ?」

 漂凛は母が座ったソファーの背もたれから身を乗り出す。

「そうだよ。漂凛の大好物だから、また焼いたよ」

「今食べたい!」

「お腹いっぱいになって、お夕飯食べられなくなっちゃうよ?」

「今食べたいー」

「仕方ないわねえ。今出してあげる」


 夜、漂凛は、寝ようと自分の部屋へ戻った。ふと、柊からもらった写真のことを思い出し、クローゼットにかけたコートのポケットをさぐった。

 ベッドに寝転がり、改めて眺めてみる。本当に綺麗な人だと思った。捨てるなんてもったいない。そしてやっぱり、見覚えがある。

 写真を握りしめ、うんうんとうなりながら考えた末、漂凛は飛び起きた。

 漂凛は階下に降り、階段下の物置を開けた。暗くて見えなかったので、自分の部屋から懐中電灯を持ってきた。

 古い箪笥の引き出しを次々と開ける。上のほうの引き出しには、漂凛が小さかった頃の家族写真などが入っていた。思わずじっくりとアルバムをめくってしまったが、我に返って下のほうの引き出しを探った。

 そこには、漂凛が生まれる前に亡くなった祖父母や曽祖父母の写真が主に入っていた。子供の頃の母の姿が興味深くて、思わず見入ってしまった。この家は、母の曽祖父母から受け継いだ屋敷なのだ。

 若い頃の母の写真が出てきて、懐中電灯で照らしながらじっと見た。二十歳くらいだろうか。柊からもらった写真を出し、見比べる。少しだけ似ているような気がする。

 さらに引き出しを探った。アルバムに入っていない、バラバラの写真もかなりあった。床に広げ、一枚一枚見てみる。誰だかわからない人たちもたくさんいた。

 しかし、探し物は見つからなかった。諦めて床に後ろ手をつき、息を吐く。

 壁に、額縁がかかっていることに気づいた。懐中電灯で照らしてみる。

 なんだかよくわからない、複雑な形の服を着た女性の写真だった。思わず、「あ」と声が出た。その人は、柊からもらった写真の女性と瓜二つだった。


 どんよりと曇った空の下、漂凛は、風に舞う落ち葉を追いかけて一人で遊んだ。ほかのみんなは学校へ行っているから、遊び相手がいないのだ。

 疲れて、広場の噴水のふちに腰かけて休む。その時、食料品店のドアから、黒いコートを着た老人が出てくるのが見えた。

 黒のおじいさんだ、と漂凛は立ち上がった。

 彼が道を歩き、角を曲がろうとした時、出会い頭に中年女性がぶつかってきた。彼が抱えた紙袋から、リンゴが飛び出し、石畳の地面に転がる。

 中年女性は、少し謝るようなそぶりは見せたものの、リンゴを拾うことはせず、そのまま足早に立ち去ってしまった。

 彼は、まっすぐな背を曲げてリンゴを拾い上げ、全体的に少しすり切れたウールのトレンチコートでこすった。

「おじいさん、大丈夫?」

 漂凛は道路を渡り、能世に駆け寄った。

「ああ、漂凛ちゃん。こんにちは」

 優しげな目が漂凛を見る。

「あっちからぶつかってきたのに拾わないなんて、ひどいね」

 憤慨する漂凛に、能世は微笑んだ。

「ありがとう。でも仕方ないんだよ」

「どうして?」

「柊とわたしは、ほかの人とは違うから、避けられてるんだ」

「違う?」

「長く生きすぎてるからね」

「でも、もう一人のおじいさんは、もうすぐ死ぬんでしょ?」

「うん。その時は、町の人に手伝ってもらわなくちゃね」

「どうしておじいさんたちは長生きなの?」

「寒いから、うちに来て話そうか」

「うん」

 漂凛は喜んでうなずいた。能世の話を聞くのは大好きだ。


「どこ行ってたんだ?」

 家に帰ると、居間にいた竜李が尋ねた。

「遊んでた」

 漂凛は、すまして答えた。

「またあのじいさんのところ?」

「違うよ」

 漂凛は兄を睨みつけた。以前、母に能世と柊の家に行ったことを話したら、知らない人の家に行っちゃいけませんと言われてしまったのだ。母は、定期的に〈帽子〉を被って、未来をチェックしているようだが、当然、自分の記憶だけではわからないことも多い。

「じいさんと話したって、つまんなくない?」

「そんなことないよ。面白いもん」

 思わず言ってしまった。

「なにが面白いの?」

「昔のこととか教えてくれるから。昔はね、もっとたくさんの人がいて、車とか電車とかがいっぱいあったんだって」

その時、母が台所から出てきた。

「漂凛、またおじいさんの家に行ってたの?」

「お母さんも、あのおじいさんたちは長生きしすぎで気持ち悪いって思ってるの?」

「そんなことないよ。長生きしてるってことは、ほかの人から時間をもらったってことだよ。本当に心からその人のことを強く念じないと、時間をあげることはできないの。だから、あのおじいさんたちは、たくさんの人たちに愛されたんだろうね」

「だったらどうして、みんなおじいさんたちを避けるの?」

「それは……」

「時間を誰かにあげるためには、自殺しないといけないんだ」

 竜李は言った。漂凛はすぐに返す。

「知ってるよ。今日、黒のおじいさんに教えてもらったもん」

「あらまあ、そんな話をしたの?」

 母は目を丸くする。

「黒のおじいさんは、わたしが質問したことには、全部ちゃんと答えてくれるの。子供扱いしないで、わかりやすくお話してくれるんだ」

「なんだ、知ってたんだ」

 竜李は、漂凛を馬鹿にできなくてがっかりしたようだ。

「だったら、みんなが避ける理由もわかるだろ」

「ええ? わかんない」

「あのじいさんたちのために、たくさんの人が自殺したってことなんだぞ。人の命を吸って生きてるみたいなものじゃん。だからみんな、じいさんたちを化け物扱いしてるんだよ」

「化け物じゃないもん」

「化け物だよ」

 竜李はおどけて言う。

「お兄ちゃん、ふざけないで」

 漂凛はふくれた。竜李は、漂凛より三つ年上なだけなのに、知ったかぶりをするし、からかってくるし、いつも漂凛を苛つかせる。

 母は、竜李を軽くとがめてから、漂凛に目を戻す。

「漂凛、お母さんは、あのおじいさんたちが悪い人だなんて思ってないよ。でも、お母さんやお父さんが知らないところで、なにがあるかわからないでしょ。漂凛も、〈帽子〉を被って未来をちゃんと見て、いつも安全に楽しく過ごせるように、注意したほうがいいよ」

「でもあれ、見るのに時間がかかるんだもん。この場面を見るって決めてあるならいいけど、なにがあるのかわかんないのをずっと見てるのは、意味ない感じがする」

未来は変えることができる。しかし、死ぬ時期は変えられない。人の中に宿っている時間の長さが決まっているからだ。いつ死ぬかがわかっているのに、それ以外の未来を見て、細かい危険や不愉快なことを避けることの意味が、漂凛にはいまいちわからなかった。

「早送りすればいいじゃん」

〈帽子〉を被るのが好きらしい竜李は言った。

「周りの人とか自分の手足が早く動いてるのを見るのが変な感じで、好きじゃないの」

 漂凛は、手足をバタバタと素早く動かしてみせた。竜李は笑う。

「無理に被らなくてもいいけど、本当に気をつけてね」

 なぜ母がそんなに心配そうにするのか、わからなかった。

「大丈夫。死にはしないんだから」


 通りを歩く黒い作業服を着た男性たちとすれ違った。昼頃、漂凛が遊びから戻ると、父も同じような黒い作業服を着て、出かけようとしているところだった。

「どうしたの?」

 父は、町の中でも評判の庭師だが、いつもの作業服とは違っている。

「近所のおじいさんが亡くなったんだ。お手伝いに行くんだよ」

「近所のおじいさん? もしかして、白のおじいさん、じゃなくて、柊さん?」

「確か、そんな名前だった気がする。二人で住んでいるおじいさんの一人だよ」

「お手伝いって?」

「墓穴を掘るんだよ」

 父は、漂凛の頭をぽんとたたき、出かけて行った。

 翌日、漂凛は喪服を着て、父とともに墓地へ行った。どうしても一緒に行きたいと、漂凛が強く主張したため、父が黒いワンピースを出してくれた。

 晴天の墓地には、いつものようにしゃんとして、黒いスーツを着た能世と、牧師と、父と同じ黒い作業服を着た数人の男性たちの姿があった。

 漂凛は、少し離れたところから葬儀を見守った。男性たちの中に、苦手なおじさんがいたからだ。彼と彼の妻は、漂凛や漂凛の家族を見かけると、漂凛の死について話してくるのだ。漂凛の母がうっかり、漂凛が十歳で死ぬことを話してしまったことが悪かった。彼らは、漂凛の家族が、漂凛の運命を受け入れていることが気に入らないらしい。漂凛の死期までに別の土地へ引っ越したほうがいいとか、漂凛を外へ出さないほうがいいとか、うるさく話しかけてくる。いくら漂凛の両親が、今までの事例からかんがみて、人の生き死にに関することを変えることはできないと説明しても、彼らは納得しなかった。

近所の人の話によると、そのおじさんは、若い頃、事故死する運命にあった妹を家に閉じ込めて守ろうとしたが、結局、死期が来ると、妹はベッドで死んでいたという。しかし、それから何年経っても、彼はまだ諦められないのだろう。

柊の棺は、父たちの手で黒い土の中に埋められた。そのあと、能世は父たちにお礼を言って頭を下げた。男たちは、淡々とお悔やみを言い、帰っていった。

 漂凛は、トコトコと能世に近づく。

「おじいさん」

「こんにちは、漂凛ちゃん」

 能世は微笑んだ。漂凛の父が、娘がお世話になっているようで、と挨拶した。

「おじいさん、おじいさんと死んじゃったおじいさんは同い年だって、前に言ってたよね?」

「うん、そうだよ」

「てことは、おじいさんも、もうすぐ死んじゃうの?」

「漂凛、失礼なことを言っちゃだめだよ」

 父にとがめられたが、漂凛は無視した。

「ねえねえ、どうなの?」

「そんなことないよ」

 能世は力強く否定した。

「わたしはまだ死なないよ。それに、死ぬことは悲しくないって、漂凛ちゃんもわかっているよね。神様が、すべての始まりと終わりをすでにお決めになっているからね」

「そうだけど……今、おじいさんは悲しそうだから」

 能世は、少し驚いたような顔をした。父が慌てる。

「すみません。この子は遠慮することを知らないので」

 父は、もう帰ろうと言った。ワンピースが少し窮屈だったので、漂凛は従ったが、まだ能世と話したかった。もし能世も死んでしまったら、もう昔の話を聞くことができなくなってしまう。能世が嘘をついているとは思えなかったけれど、漂凛は確証が欲しかった。

 翌日、漂凛は能世の家を訪ねた。出てきた能世の着ている黒いセーターには、白い埃が点々とついていた。

「こんにちは、漂凛ちゃん」

「お掃除してたの?」

「うん。ああ、埃がついてたか」

「上がってもいい?」

「もちろん。ちょっと埃っぽいかもしれないけど」

 中に入った漂凛は、座ることもせずに、居間を見回した。

「おじいさん、〈帽子〉持ってる?」

「記憶再生装置のことかな?」

「うん」

「持ってないよ」

「未来を見たことないの?」

「あるよ。前は持ってたんだけど、売ってしまったんだよ」

「そうなんだ。ねえ、一緒におじいさんの未来を見ようよ」

「え?」

「わたし、おじいさんが死んじゃうのは嫌だよ。おじいさんがまだ生きるって、確かめたいの」

「漂凛ちゃん、ありがとう。でも、前に未来を見た時に、わたしの時間はまだまだあるって、確かめたんだよ。それに、〈帽子〉はないし」

「わたしの家に来て。〈帽子〉あるから」

「ご迷惑じゃないかな?」

「そんなことないよ。それに、今、家に誰もいないんだ」

「でも」

「早く来て。お願い」

 袖をつかむ漂凛に根負けし、能世はついてきてくれた。

 能世は、漂凛の家の居間で、〈帽子〉を被った。〈帽子〉と無線で接続されたテレビの画面が明るくなった。

 しかし、なにも映らなかった。わずかに、なにかがうごめいているようなノイズが映るばかり。漂凛は、リモコンで、現在の記憶を表示させた。すると、漂凛と、居間の様子が映った。当たり前だ。しかし、一分後に飛ばすと、空白だった。早送りしても、ずっとそのままだ。漂凛は少し息を吸い込み、最後の場面へ飛ばした。それも同じく空白。そして、現在から数えて、一日単位で時間が表示されたところを見ると、かなりの桁数の数字があった。漂凛は、目をしばたたいた。学校へ行っていない漂凛でも、一年が三百六十五日だということくらいは知っている。

「どういうこと?」

 漂凛は言った。

「わたしは、あと百年くらいは生きられるんだよ」

 能世は、〈帽子〉を脱いだ。

「そうじゃなくて、どうしてなんにも映らないの?」

「それは、わたしの時間がほかの人からもらったものだからだよ」

「あ、そうか」

「時間は、宿主が変わると、出来事という中身が抜けるからね」

「よかった。おじいさんがわたしより長生きで」

 能世は笑った。

「でも、漂凛ちゃんのこれからの人生のほうが、きっといろいろなことがあって楽しいだろうね」

「そうかな? わたし、四年後に死ぬんだよ」

「え?」

 能世は目を丸くした。

「知らなかった? 白のおじいさん、もう一人のおじいさんには話したけど」

「知らなかった。そうなの?」

「うん。嵐が来て、倒れた木の下敷きになるの。ねえ、どうしてほかの人から時間をもらったのか、まだ話してもらってないね。教えてよ」

「そうだね。漂凛ちゃんになら、話してもいいかもしれない」

 能世はつぶやき、話し始めた。


 まずはちょっと歴史をおさらいしようか。

 人の脳の研究をしていた偉い科学者が、人の脳の中には、未来を含めた、その人の全人生の記憶が収められていることを発見した時、わたしは子供だった。その研究発表は、最初はみんなに相手にされなかったんだ。でも、時間が経って、それが本当だということが証明されていった。未来の記憶の通りに、予測不能な災害が起こったからね。

実を言うと、その発見が本当だということをみんなが信じるようになったことで、世界は混乱に陥ったんだ。その発見より前の世界では、神様は、もっとあやふやな存在で、神様を信じていない人たちも多かったんだよ。神様を信じている人たちの中にも、未来がすでに決められていることを受け入れられない人たちもいた。もちろん、受け入れた人たちもたくさんいたけれど、そうではない人たちが、未来を変えるため、神様に逆らうため、もしくはただ単に絶望したために、自殺していったんだ。

 たくさんの自殺者が出たことで、さらにわかったのが、自殺した人に近しい人の脳内に、空白の記憶が生まれるということだった。それからさらに研究が進んで、人の脳の中に収められているのは、未来の記憶ではなくて、時間だということがわかったんだ。

漂凛ちゃんとか、最近の人には信じがたいことだと思うけど、昔は、時間というのは、人とは関係なく、川のように流れているものだと考えられていたんだ。そうではなくて、生き物の脳に宿るものだったんだけどね。そして、本当は誰かが生きるはずだった時間が、自殺という形で放棄されると、別の人に乗り移る。別の人というのは、自殺した人が死ぬ間際に、一番強く想っていた人。もし、誰も想っている人がいなければ、宿主を失った時間は、そのまま消えてしまうらしい。

 最初の発見より前の世界では、誰も、決められたシナリオから外れることはなかったから、時間の乗り移りは起こらなかった。でも、発見によって、本当は自殺しなかったはずの人たちがたくさん自殺した。そのことによって、新たな時間を得て、とても長生きする人たちが出てきたっていうわけなんだ。

 そういうことがわかってきた時、わたしは大人になっていた。わたしは、そういう大発見のこととか、社会のこととかは、正直、あまり興味がなかったんだ。自分には関係ないと思っていたから。今話したことも、あとになって、いろいろ調べたんだ。

 わたしは、同級生の柊と一緒に、音楽ユニットをやっていた。働きながら音楽活動をしていたんだけど、そのうち、大きなレーベルからデビューさせてもらえることになって、プロの音楽家になった。その頃は、こことは違う大きな街に住んでいて、演奏できる会場もたくさんあったし、いろいろなところに移動して、演奏したな。音楽好きな人たちもたくさんいたし。

 知り合いも増えて、いろいろな人たちと話せる機会も増えた。その中に、ある女の人がいた。結構有名な女優さんで、わたしたちのファンだって言ってくれて、驚いたな。

 ある時、その女優さんから呼び出されて、付き合ってほしいと言われたんだ。そう、好きです、って。でもわたしは、その人のことを全然そんな風に考えたことがなかったから、断ったんだ。それからも、何度か会うことはあったんだけど、わたしは彼女を避けてしまって……それからしばらくして、彼女からメッセージがきた。

その頃は、〈帽子〉が各家庭にあるわけじゃなくて、未来を見るためには、予約を取って、専門の施設に行かなくちゃいけなかった。もちろん、わたしは自分の未来を見たことがなかった。彼女のメッセージは、わたしに、施設に行って未来を見てきてほしいというものだった。予約も彼女が取ってくれたらしくて、たまたま、その日は休みだった。彼女がわたしの休みの日を調べたのかもしれない。

それから、彼女は自殺してしまった。かなり大きなニュースにもなったよ。わたしは、なにか大きな意味があるんじゃないかと思って、彼女のメッセージの通りに施設へ行って、初めて未来を見たんだ。

わたしは、七十代で病気にかかるらしかったけれど、治って退院するらしかった。わたしの記憶は、そこで途切れていた。

そこから、数百年の空白の時間があった。すぐに、彼女がくれたものだということがわかったよ。彼女は、何人もの誰かから時間をもらっていたんだね。でも、その時はまだその意味が実感できなかったんだ。

でも、そのことを柊に話したら、柊はすぐにその意味を正確に理解したみたいで、すごく驚いていた。それから、わたしもだんだんその意味を実感できてきて、こわくなった。そんなに長生きするなんて、考えたこともなかったからね。

誰かに時間を譲ろうとも考えた。幼くして死んでしまう運命にある子供を探して、その子のために自殺しようって。でも、長すぎるから、苦しみを背負わせてしまうことになるんじゃないかとも思ったし、そもそも、誰かにあげるというのが本当に正しいのかって、悩んだよ。

でもそれよりも、正直、こわかった。死にたくなかったから。今すぐでなくてもいい、自分の本来の寿命をまっとうしてからでも遅くはないって、考えるのを先送りしてしまった。わたしは、孤独に生きることも、死ぬこともこわかったんだ。

それから、柊がわたしになにも言わずに、勝手な行動を取り始めた。わたしたちの音楽ユニットのファンとか、いろいろな人たちに、自分に時間をくれるように呼びかけ始めたんだ。とんでもないことだよね。自分のために、自殺してくれってことなんだから。

当然、いろいろな人たちから非難されたよ。そのせいで、わたしたちのユニットは活動できなくなってしまった。わたしたちは職を失って、細々とほかの仕事をして生活していくことになった。あの時はつらかったな。

ある日、久しぶりに柊が連絡してきて、会って話したんだけど、柊は、自分も長い寿命を得たと言ってきた。その時は詳しいことは話そうとしなかったけど、彼は自分で時間を集めたんだ。

許されることではないかもしれない。喧嘩になったよ。でも、しばらくして、わたしは、自分が本当は喜んでいるってことに気づいたんだ。柊は、自分の得た時間は、わたしの時間よりは短いけれど、その時が来るまで、一緒に生きようと言ってくれた。柊は、わたしが孤独に耐えられないことをわかっていたんだ。


 能世が悲しげな顔で黙ってしまったので、漂凛も悲しくなってきてしまった。やはり、柊は能世にとって、大切な人だったのだ。

「あ、そうだ。ちょっと待ってて」

 漂凛は思いつき、自分の部屋へ走っていった。

 手にしたのは、柊から預かった写真だった。能世のもとに戻り、写真を渡す。

「これ、もう一人のおじいさんからもらったの。あなたには内緒だって言われたんだけど……これも、もう一人のおじいさんの思い出になるかな」

「これは」

 能世は写真を見て、目を見開いた。

「どうして漂凛ちゃんがこれを?」

「捨ててほしいって言われたの。綺麗な人だよね」

「この人は、わたしに時間をくれた女優さんだよ。どうして柊が」

「そうなの? この人、うちの物置にかかってる写真に写ってる人とそっくりなんだ。見る?」

 漂凛は、物置に能世を案内した。埃まみれの写真が、昼の光にきらめいた。白と黒が組み合わさった、複雑な形のドレスを着た女性。

「ほら、似てるでしょ?」

「似てるというか、彼女だ」

 その時、玄関の扉が開く音がした。

「あ、お母さん帰ってきちゃった」

 漂凛の母は、能世の姿を見て驚いていた。能世は、挨拶も早々に、母に尋ねた。

「あの、物置にかかっている女性の写真は、どうされたんですか?」

「え? いきなりなんですか?」

 能世は、母を物置に手招いて、再度尋ねた。

「ああ、この人は、昔の遠い親戚です。かなり古いものですけど、女優だったとかで」

「そうですか。ご親戚ですか」

「どうしたんですか?」

「いえ。ありがとうございます。失礼しました。わたしはこれで」

 出て行く能世を漂凛は庭先まで追いかけた。

「おじいさん、また来てね」

「あ、写真」

 能世は、写真を漂凛に返した。

「もらっていいの?」

「いいよ。もし気に入ったなら、漂凛ちゃんが持っていて」

「ありがとう。あのさ、訊いてもいい?」

「なにかな?」

「わたしはそうでもないんだけど、お母さんとかお兄ちゃんは、未来がわからないと不安みたいなの。おじいさんは、未来がわからないまま、長い間生きてきたんだよね? おじいさんは、不安じゃない?」

 能世は、膝をついて漂凛と目を合わせる。

「確かに、未来がわからないと不安だよ。どんどん別れが来て、これが最後だってわかることが少ないからね。気がついた時には、もう別れは終わってて、あれが最後だったんだって、あとになって思い返すことになる。そういうことのほうが、ずっと多い。柊とは、そうじゃなかったから、よかったけど」

「よくわかんないよ」

「ごめんね。一つ一つのことを大切に生きれば、大丈夫ってことだよ」

「そっか。大丈夫なんだね」

「じゃあ、わたしは帰るよ。さようなら、漂凛ちゃん」

「じゃあね」

 手を振って、二人は別れた。漂凛の目には、その時の能世の顔からは、先ほどまでの悲しみが消えているように映った。よかった。ちょっとは元気になってくれたみたい。

しかし、その後、能世は行方知れずとなった。


「トビー、どこにいるの?」

 雨の中、漂凛は傘を差し、愛犬の名前を呼びながら歩き回っていた。

 先月、道端で弱っていた子犬だ。元気になってきたところだったのに。

「トビー、帰ってきて」

 漂凛は、横殴りの風にあおられる傘を持ち直した。必死に持っているが、ほとんど役に立っていない。夕暮れ時の雨は強まっていて、すでにびしょぬれのワンピースに、生温かい雨がどんどんしみこむ。もう町の外れまで来てしまった。

 諦めかけた時、道の先に、ミニチュアシュナウザーの小さな姿が見えた。

「トビー!」

 子犬は、道を走って行ってしまった。その先は森だ。

「待って!」

 漂凛は、森の中へ駆け込んだ。一気に周りが暗くなり、ごうごうという風の音も強まる。

木の陰に、トビーの灰色の姿が見えた。漂凛を待っているようにも見える。遊んでいるつもりなのだろうか。

「もう、そこで待っててよ」

 その時、より一層強い風が吹いた。傘が手を離れて飛ばされる。

 漂凛は思い出した。自分は十歳だ。もう十歳になっていた。

 背後から、メリメリ、という、思っていたよりも何倍も大きな音がした。漂凛は、覚悟を決めて目を閉じた。

 どん、という衝撃が、足の裏から伝わってきた。泥と雨水が背中にかかる。目を開け、後ろを振り返ると、大きな木が倒れていた。足元に駆け寄ってきたトビーを抱き上げた手は震えている。

「帰ろう、ね」


 漂凛は、傷ひとつなく森から帰った。家族は驚いた顔をしていたが、なにも言わなかった。それから、漂凛は十一歳になった。ろうそくの立った、母の手作りのラズベリーパイ。

 両親に言われ、学校にも通い始めた。難しいことばかりで、全然ついていけない。馬鹿にしてくるやつらには言い返してやっているからいいけれど、友達ともいろいろ違ってしまっていることに気づく。

そんなある日、やっと、また〈帽子〉を被ってみる気になった。

 そしてわかったのは、漂凛には、約百年の空白の未来があるということ。すぐに悟った。どこかへ姿を消してしまった能世がくれたのだと。

 はっきりとした事実を前にし、漂凛はこわくなった。悲しくなった。未来がわからないって、こんなに不安なことだったのか。能世はどこで、どんな気持ちで、最期を過ごしたのだろう。いくら長い時間を生きてきたからといって、大切な人を失ったからといって、もうなにも感じなくなってしまったわけではないだろう。生きていれば、楽しいこともあったはず。それを諦めたのだ。そこまで、わたしのことを想ってくれたのか。

漂凛の中に、温かい気持ちが満ちてきた。

 ありがとう、おじいさん。わたし、この時間を、後悔のない人生にしてみせます。

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