第3話
僕の知っていること。
冬の風が冷たいこと。雨が寒いこと。
夏の風がぬるいこと。日差しが痛いこと。
そんな僕が今、風のやさしさを知り、雨の柔らかさを知り、日差しのほんわりと丸いことを知った。
春のはじめの、少しだけ肌寒い日に。
けれどそれは、ただ季節の違いというわけではなく。
何よりも違うのは、これまでの僕と今の僕、宿している心持ちの違いなのだろう。
充分に世界の厳しさを知っているから、ほんの少しのやさしさがうれしくて。
厳しさを本質だと思っていたから、ささやかな温かさが尊くて。
大勢での安心感を知っているから、一人がどことなく寂しくて。
それでも大勢の窮屈さを知っているから、一人の自由が心地よくて。
きっと、今の僕は、誰よりも自由だ。
そして誰よりも、世界の全てを愛している。
今もまた、何度目かの朝を迎えた。
昨日夜を明かした公園はとても緑が多くて、朝露に濡れた葉や土の匂いが濃く漂っている。
どこか懐かしいようなその匂いに、僕はまた一つ勇気をもらう。
僕のふるさとの匂い。
僕の背中を押す、力強い記憶。
そして僕は歩き出す。本能のままに。
ただただ歩いている得体のしれない僕に対して、世界はやさしい。
「ほらこれ、持っていきな」
そう言って握らされた焼きたてのパンとか。
「そんなかっこじゃ寒いだろ」
そう言ってかぶせられたマフラーとか。
町の人々は、圧倒的にやさしくて。
「ああ、これが人なのか」
そんなことを思ったり。
ただただ歩いている得体のしれない僕に対して、世界はつめたい。
「小汚い恰好で来るんじゃないよ」
そう言って遠ざけられた靴屋とか。
「あんなの見ちゃだめよ」
そう言って逃げられた小さい女の子とか。
町の人々は、圧倒的につめたくて。
「ああ、これも人なんだ」
そんなことも思ったり。
僕はこの外の世界で、「人」というものを知る。
あの場所に居れば、知らずにすんだものなのかもしれない。
自分が蔑まれる存在であることや、冷淡な人がいるということも。
それでも僕は、知りたいと願った。
きっと本能的に。
だって、それ以上にやさしい人はいる。自分のことを、対等に「人」として扱ってくれる人もいるのだ。
そんなことも、あそこを飛び出さない限り分からなかった。
そして、まだまだ知りたいのだ。
人が人として生きるということ。
美しかったり、汚かったりする感情を。
たぶん、何よりも知ったのは感情だ。
人が人に向け、動物に向け、植物に向け、無機物に向ける。
そんな感情が、こんなに様々な彩りをもってここにあることを知った。
そして、思った。
「ああ、これが、人なんだ」
集団で閉じ込められた世界では計り知れなかった感情という生き物を、この旅で僕はまざまざと見せつけられた。
きっとここから、僕はちゃんと「人」になる。
「ねえ、そんなところで何してるの?」
歩く僕に、いろいろな人が声をかけてくる。
何をしているのかなんて、僕自身も曖昧で、はっきりとは言えないけれど、それでもこう答えている。
「探し物をしているんだ」
僕が、きちんと人になるために。
様々な景色を見て、感情を知り、人を知り。
そして、僕という人間を自分自身で知るための場所。
僕がちゃんと一人で生きていけるための場所を。
僕のことを待ってくれているであろう、いまだ見たことのないどこかを。
それが一体どんなところで何をするところなのか、僕にも分からない。
僕はどこで何をするために生まれたのか。
知りたかった。自分自身の手で掴みたいと思うのだ。
「きっと、ここではないどこかが、僕を待っているから」
そんな予感のようなものだけが、僕の歩く理由だった。
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