第2話
僕の一番古い記憶は、細長くて尖った、深い緑色の葉っぱから、キラキラ輝く露が地面に垂れている景色だ。
ぽつりと落ちる水はまるでガラス玉のように弾け、光の余韻を食い入るように眺めていたのを、ぼんやりと覚えている。
よくよく考えてみると、明らかにアングルがおかしかったり、妙に映像がスローモーションだったりするから、どこかで記憶を捏造してしまっているのかもしれない。
それでも、その記憶以外に「昔」という概念に仕分けられる映像が僕の中にはなかったし、思い返すたびに胸の中がふんわりと温かく、そしてほんの少し痛むので、きっと僕史上最古の記憶、ということに間違いはないだろうと思う。
この記憶からもう何年たったのか分からない。
この記憶が、僕が何才でどういう状態にあったのかも、何もかも分からない。
それでも、緑から垂れる雫、という映像を母として、僕はこれまで生きてきたんだ。
事あるごとに思い浮かべてきたから、この手がその露に触れるんじゃないか、とまで思えてきて、手を伸ばしても触れることさえ叶わない現実に、何度も落胆したりした。
それでも、何かあるたびに慰めてくれる存在は大きい。大切に大切に、その記憶を抱えて今に至る。
その次に古い記憶は、たぶんあの場所だ。
妙に寒くて、それでいて居心地のいいあの場所には、僕みたいな子どもがたくさん集まっていた。
僕みたいな、誰からも捨てられて、守ってくれるものが何もない子ども達。
気がつけば僕はその集団の中で、薄汚れたブランケットに包まれたまま空を見ていた。
あの場所から見た空は妙に澄んでいて、どこまでも続く青が僕たちを見下ろしている。
そんな青の下で、僕たちは育った。
ボロボロの建物はすぐ風を通し、その扉は始終ガタガタと震えている。
どこからか与えられる食事は常に冷えていて、体を暖めてくれるものではなかった。
それでも、僕たちは生きていた。
これが最善なのだと、ここが自分達の最良の場なのだと信じて。
守ってもらえないなら、自分達で守り合えばいい。
僕たちは、自然と寄り添いお互いを守り合いながら生きてきた。
それでも、僕はいつも思っていた。
僕にはお母さんがいるから、と。
お母さんは、いつでも子どもを守るモノだから、僕はきっと守られている。
だって、記憶はこんなにも鮮明なのだから。
そんなことを思っていた僕が、この集団から浮いてしまうのも仕方のないことだった。
庇護されることのない者たちの中にあって、「自分には母がいる」と主張する存在は異質で、しかも誰もが心の奥底で求めていた「母」という存在に言及した僕は妬まれ、疎まれ、次第に輪の中から弾かれていった。
それでもここ以外僕には居場所がなかったし、ここにいるのが当然だと思っていたから、心の中のお母さんを思いながら毎日を過ごしていたのだ。
そんな思いが突如弾けたのが昨日。
そうだ、ここを出ていけばいい。
出ていくことしか考えていなかったから、行き先なんてなくてひたすら歩く。
どこかに行こうとしたわけじゃなかったから、どこにも辿り着かなくて。
でもきっといつかどこかには辿り着くだろうことは分かっていたから、別に焦ることもなくて。
歩く。僕の歩幅で、僕のリズムで。
夜の濃紺が次第に優しいオレンジに変わるのを見た。
痛いほどの風がやわらかくなるのを感じた。
だんだん上っていく太陽は、町の様子を少しずつ映し出す。
それに心を踊らせながら、少しずつ消されていく月や星に胸を痛めた。
ああ、たぶんこれが、生きているっていうこと。
あの場所では得られなかった、自分の足で歩くっていうこと。
何も分からない僕が、これからどんなことに出会うのかは本当に分からない。
それでも、心に「母」がいる限り、きっと僕は大丈夫。
母から始まった僕の人生は、ゆるやかに、自分のペースでこれからも続いていくのだろう。
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