春の庭と冬の猫
マフユフミ
第1話
ここを出て行こうと思ったのは、咄嗟の思いつきのようではあった。
昨日まで、一言もそんなことを言ってはいなかったし、自分でもそんな希望を自分自身が抱いているなんて、1ミリたりと考えたことがなかったのだから。
それでも、思いつきのようなその考えは、あまりにもしっくりと腑に落ちた。
ああ、そうか。
この体は、心は、出て行きたかったんだ。
4月。
痛みにも近い寒さを経て、少しずつ日差しが緩やかになってきた。
淡いピンクの花びらが、柔らかな風に舞うそんな春の日に。
僕は住み慣れたこの場所から出て行くことを決めたのだった。
理由があるとすれば、きっとそれは寒かったから。
風が吹き付け、びりびりと空気の震えるココにもう耐えられなかったのだろう。
これからは、そんな冷たい空気も緩み、暖かくなる季節だ。
それでも、この芯から冷えてしまう場所ではなく、新しい所で春を迎えたくなった。
春という言葉の持つ軽やかさが、そんな気持ちにさせたのかもしれない。
来る春への希望が、僕の足を進めるのかもしれない。
自分自身の事なのに、そのどれもが曖昧だ。
それでも、ここを出よう。
その意志だけはなぜか揺らぐことはなかったのだ。
数枚の着替えとタオル、2冊のアルバムを古いトランクに詰め、準備は完了。
靴は履きつぶしたら買えばいいし、食べ物は、まあきっとなんとかなるだろう。
夜も明けきらない、まだまだ群青色の空を見ながら、僕は一歩を踏み出した。
朝の空気は凛と冷えている。
吹く風から逃れるようにコートの襟を立て、身をすくめた。
外に出る最後の最後にマフラーを引っつかんできてよかったと思う。
遠くの山際にぼんやりとした薄いオレンジが広がるのを認め、夜が明けることを知る。
まだまだ寒い早朝の道。
ここから完全に日が昇り、穏やかな朝が来るなんて、到底信じられない気分だ。
それでも、後悔なんて気持ちはまったく浮かんでこなかった。
だって僕は、僕自身で出て行くことを決めたから。
寒くても暗くても、外の世界に出ることを僕は選んだ。
いくら冷え切っていていようが、住み慣れたはずの僕の生まれ育った場所を捨てて。
守られた場所は、落ち着くけれど窮屈で。
きっと外には何かがある。
僕を新しい世界に連れて行ってくれる何かに出逢える。
この予感は、きっと現実になる。
だから今、僕はこの寒さの中を歩くのだ。
一歩ずつ、未来を見つめて。
徐々に広がりゆく朝焼けが、歩みを進める僕の背中をそっと包むのを感じながら。
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