第16話

◇◇◇


 百合子が病院から帰ってきたのは、三日後のことだった。タケキリが正に教えられた病院に顔を出した時、百合子はナントカの検査をしている最中で、結局顔を合わせることはなかった。邸宅に百合子が戻ったことを教えてくれたのは、先日正の後ろにいた女中で、病院へと向かう道すがらに、丁度顔を合わせたのだ。

「タケキリさん、もしかして病院に行きはるんです?」と、買い物かごを手に提げた女中は、気軽な口調で声をかけてきた。

「ああ、こんにちは。ええ、今日は早う仕事が終わったもんですから」

「そうですか。でしたら、お家の方へいらして下さい。本日から、百合子様もお戻りなんです」

「よう、なりはったんで?」

 退院、と言わなかった女中に問いかけると、彼女は小さく首を横に振る。予想通りの言葉に、タケキリは少しばかり落胆したような、しかしそうだろうな、という納得をして頷いた。

 秋の仮粧が強くなってくる京都の街には、随分と冷たい風が吹くようになった。空気が凍っていき、赤や黄に色づいた葉をゆっくり落とした木々が、眠りにつく準備を始めている。そのうちに神無月が終わり、神々が帰還すれば、本格的な冬がやってくるだろう。臓腑の中まで凍らせる冷たい空気が、この街を包み込む。そうなってしまえば、タケキリはこの街の裏側を覗き見ることはないだろう。オサキが出雲から帰還すれば、また可笑しな化術を学んだ一匹の毛玉に戻ることになる。冬支度を始め、次の春を迎えるために、冬を耐える準備をしなければならない。

 百合子は、それまで生きているのだろうか。不意にそんな思いが過ぎり、タケキリは背中がヒヤリ、とした。

 女中の話では、百合子の容態は芳しくないそうだ。痛む肺のおかげで眠ることが出来ず、薬の量が格段に増えて、そのせいか昼間も起きていることが出来なくなった。時々、赤い血を吐いて、食事も上手く喉を通らない。見ていられないのだ、と話しているうちに女中は涙を浮かべてしまう。

「申し訳ありません。ですが、百合子様がお可哀想で……」

「いいえ。私にも思うところはあります。あの方はお優しいですから」

「タケキリさん、どうか百合子様を見舞ってやってくださいね。お薬が効いている時は、誰かと話したがられるんです。病の時に、お一人ではお寂しいのかもしれません」

「勿論です。私は、百合子さんに返せんほどの恩がありますから」

 懇願するように、両手でタケキリの手を握る女中に、今度は力強く頷いておく。タケキリの言葉に嘘はなかった。百合子は、鉄に足を掴まれた毛玉を助けてくれた恩人だ。甲斐甲斐しく世話をされ、折れた足を治したというのに、百合子の病に一介の毛玉は、太刀打ちすることは出来ない。

 吹く風が身に染みるのを感じながら、タケキリは女中の背を見送って、百合子の邸宅へと再び歩き始めた。


 ◇◇◇


 まるでひと時に咲く大輪の花のように、百合子が活き活きと動けたのは、やはりひと時のことだった。季節が巡ると咲き誇る花達と同じくして、百合子が不死鳥のように蘇ったのは、たった数ヶ月の日々だ。

 病を患った体が心に追いつけなくなったのだと、百合子はベッドに横たわっても気丈な言葉を発する。感染病の類ではないことだけはハッキリとしていたから、百合子は病院ではなく、二条にある自宅で療養することを自身で選んだらしい。

 しかし、百合子はもう長くない。

 ベッドに横たわる細い腕が、いつかは動かなくなるだろう。それでもタケキリは、百合子の元へ足を運ぶ。雑菌に覆われた毛を銭湯で洗い流し、そうして自身の経験したこの街での出来事を阿呆のように語ってみせる。百合子は、肺の痛みに耐えながらも、起こすことの出来ない体を小さく震わせて、まるで寝物語を聞いている子供のように微笑を浮かべていた。

「それで、また鞍馬の天狗様がびゅうんと飛んで来はるんです。今朝の暴風は、あのお方のせいなんですよ」

 数ヶ月前には、そこに腰を下ろすことが当然だった椅子に、タケキリは再び尻を落ち着けて、この街の裏側の話をした。百合子の邸宅を訪れる前に、伏見の主の留守を守る狸としての仕事の話だ。寝物語のようなタケキリの話を、百合子は信じているような、嘘を吐く子供あやすような態度で慎ましく聞いてくれる。もう、どちらでもかまわないのかもしれない。自身の生きる灯火が尽きかけていることを、いつの時でもそうであったように、百合子は理解しているのかもしれない。

 タケキリは、今日も三足烏と共に、数人の死者の迷子を黄泉への虚へ案内したのだが、その道中で久しく鬼に出会ったのだ。どうやら南蛮の方から海を渡ってきたらしい鬼は、知恵を絞って徒党を組んで、タケキリと三足烏の前に立ちはだかった。京都の街の人間を、入れ喰いしてやろうという算段であったらしい。迷子の死者を先に走らせながら、誰もいない小路を走って逃げた。東大路通りを走り抜け、八坂神社の前を曲がって、四条通りの大きな道を駆け抜けると、待ち構えていたように、いつか出会った大天狗がどんよりとした色味のない、灰色の雲の前に浮かんでいて、次の瞬間には鬼を吹き飛ばす、嵐のような風が吹き抜けたのだ。

 天狗風に転ばされたことのあるタケキリは、四本足でなんとか踏ん張って耐えたけれど、迷子の死者達は尻餅をついていた。そうして、天狗風は裏表の世を自由に行き来するらしい、午前中に酷い風は吹き荒れたのだと、タケキリは街を根城にしている鼠達から聞いていた。

「天狗様は乱暴者なんやねえ」

「ええ、やけどお人柄の悪い人やないんですよ。言葉の悪い方なんですけど、結局は助けてくれはるんです」

「あべこべな方なんやねえ」

「ええ、裏側では、どれもこれもがあべこべです。せやから面白いんですけど」

 出会った様々な領分の異なる者達を思い出しながら、タケキリが肩を揺らすと、つられるように百合子も笑った。まるで女学生のやりとりのように、静かに声を震わせ終えると、百合子の眼差しが、ゆっくりと色を変えていく。寝物語に耳を寄せる少女の顔が引っ込んで、代わりに穏やかさを伴った女性の表情が見えてくる。何かを諦めて、何かを悟り、理解をした百合子の眼差しは、前に眺めた時よりも、ずっと弱々しくて儚い。

 ベッドの中で、もぞもぞと百合子の手が動くと、毛布の中から細くて白い力のない指先が顔を出す。タケキリに向かって真っ直ぐ伸ばされる指を手に取ると、百合子はほう、と息を吐き出した。

 望みが叶って安堵する溜息は、いつも生暖かい。

「ねえ、タケキリはん」と、百合子が小さく呼ぶ。部屋の中が静かでなければ、聞こえないほどの声量は、きっと百合子の精一杯だった。

「はい」

「いつも、私のいらんことばっかり聞いてくれてありがとうねえ」

 細い指が小さく力を込めて、タケキリの大きな人間に模した手を握る。本来は毛に覆われた百合子よりも小さな毛玉の前足だが、青年に化けているタケキリは、その弱い指先を包み込むことが出来る。生暖かい人間の体温が、僅かに伝わっていく。

 か細い百合子の言葉を聞き逃さないように、タケキリはじっと枕に落ちたままの横顔を眺めていた。すると、穏やかに天井を眺めていた百合子の目尻から、薄い涙が零れ落ち、頬を辿ってシーツへと滑っていく。唇を僅かに震わせて、百合子は言葉を探しているようだった。

「私、死ぬんはそんなに怖いことやないと思うてて、この病気になってから、いつか来るもんやと覚悟もしとった」

「百合子さんは、また気づいてしまってたんですね」

「うん。でも、不思議やねえ。色々と失くしたもんやと思うてたのに、私にはタケキリはんがいてくれはったんやもの」

 少女の頃に夢を失い、結婚と共に恋を失い、友人が別の場所へと旅立っていった。百合子は、もしかしたら裏側で出会う人間達のように、その生涯を思い出しているのかもしれない。奪われたのでもなく、失ったものを追いかけて、待ち続けた百合子は、まるでその両手には何も持ち合わせていないかのように、静かに涙を流す。

 ぽつぽつ、と呟くように、言葉を吐き出す百合子の双眼は、泣いているというのに酷く穏やかだ。そのアンバランスさを、タケキリは不思議に思う。しかし、空いた手で涙を拭った百合子の濡れた瞳は、ゆっくりとタケキリを捉える。

「ねえ、タケキリはん」

 先ほどと同じ抑揚の声が、タケキリの耳に届く。見下ろせば、すぐに交わる百合子の視線は、隠したタケキリの尻尾を炙りだそうとしているようにも見えた。大きく動くことのない唇が、また小さく震えた。

「私ね、まだまだやりたいことがあったんよ。正さんの隣で、ハルと清司さんをここで待ってたかった」

「はい」

「折角、アルコールの輸入が上手くいってきたんやもの。海の向こうの美味しいお酒を飲みながら、文学を読んで夜を明かしてみたかった」

「はい」

「……もう少し年老いたら、お父様とお母様みたいに隠居して、小さなお店をやりかったんよ。正さんが日本に持ち込んだお酒を並べて、これまで勉強したご飯を、なーんも知らんお客さんに振舞って、小さいけど賑やかな、私と正さんが切り盛りするお店」

「百合子さんの商才と料理の腕やったら、きっと繁盛するお店になるんでしょう」

 まるで幼児が心を熱くさせるように、百合子の声が少しばかり弾んでいる。それは、百合子が当然のように諦めた夢だ。こうであるように、と定められた先に見ていた生涯の到達地点なのかもしれない。諦念を抱いていながら、何か途方もないものに僅かな期待を込めるのも、人間の不可思議さだった。

 タケキリは、夢を見ているような百合子の言葉に、一つ一つ頷いておく。聞き耳を立てることだけが、病から百合子を掬い上げることの出来ないタケキリの、唯一出来る恩返しのような気がしたからだ。小さな夢を幾つも並べ立てた百合子は、少しばかり熱の篭った眼差しをタケキリへと向ける。天井を見ていた瞳と視線が交わると、タケキリはどうしてだかギクリ、とした。細い指に、また小さな力を込めた百合子の柔い唇が震える。

「私が死んだら、私のこともタケキリはんが連れてってくれるん?」

 まるで寝物語を信じた子供のような期待に満ちた眼差しだった。

「……百合子さん?」

「話してくれたことは、嘘やないんやろう? だってタケキリはんは、人間やないもの」

 なんでもないことのように言いのけた百合子を見下ろしていたタケキリは、思わず椅子から転げ落ちそうになるのを堪えた。そうして、あくまでも感心したように「ほお」と、声を上げる。

 まさか、バレているとは思わなかったから、これは随分な不意打ちだった。椅子に預けたままの尻から尻尾が飛び出しそうになり、それも堪えて、タケキリは未だに自身を見上げ続ける百合子から目を逸らさない。そうしてゆっくりと胸中で吟味をしてから、言葉を吐き出した。

「いつから、気づいてはったんですか?」

「タケキリはんが、まだ可愛らしい狸の格好で、誰かと塀の上でお喋りしてた時から」

「見えてはったんですか?」

「ごめんなさい。最初は、信じられへんかったんやもの」

 タケキリが目を丸くすると、何故か百合子は申し訳なさそうな顔をした。騙されたフリをしていることへの謝罪だったようだが、タケキリが驚いたのは、そこではない。

 まだタケキリが化術を知らない毛玉であった頃は、確かにこの邸宅を塀の上から眺めていた。狸である自身は恩人に、手も足も出ないことを知っていたからだ。百合子への恩をどう返すべきかを悩んでいたタケキリは、街に降りてくる狸など他にいるはずもなく、常に一匹だった。言葉を交わすのは、いつもフラフラと街を歩いては、人間を驚かすばかりの伏見の主しかいなかった。しかし、今のタケキリは理解している。伏見の主たるオサキと、毛玉が言葉を交わす時は、いつも往来に溢れている人間達が何処かへと消え去って、いくら晴れていようとも、ぽつぽつと雨が降っていようとも、空模様は雲に覆われて、死の匂いが立ち込める。おそらく、オサキの気遣いだったのだろう。狸が言葉を交わすという不可思議な景色を覆い隠すために、あの時のオサキは、タケキリをこの街への裏側へと引き込んでいた。

 それは領分の異なる世界だ。生きた者が闊歩することは出来ず、認識することもかなわない。神無月でなければ、タケキリさえも自身の意思では、触れることの出来ない場所だ。

 それなのに、百合子は見ていたと言った。

 毛玉が不可思議な伏見の主と世間話に興じているのを、見えるはずのないものを見ていたと断言した。ありえないことを告げられて、タケキリは酷く驚いていた。

「そんなことが起こるなんて思ってへんかったの。でも、貴方の声は、あの日の塀の上にいた狸と同じ声やった」

 百合子は淡々と、事実だけを述べるような口調で、タケキリを見つめ続けている。長い睫毛の乗っかる瞳は、病で伏していることが嘘のように強い。

「なんで、この家に上げてくれはったんです? さぞかし気味が悪かったでしょう」

 ほう、と息を吐きながら、タケキリは苦笑する。毛玉が人に化けるなど、恐ろしくてかなわないだろう。人間は見目を気にする生き物だ。狸のような嗅覚も、爪も、待ち合わせていない彼らは、見た目の判断を一番に頼る。そうであるはずの者が、定められた姿をしていないことは、きっと世の理に反しているようで、不気味に違いない。

 しかし、百合子は持ち上げることのない頭を小さく横に振った。

「タケキリはんが何者であるかなんていうのは、もうどうでもええことやわ。最初こそ、正さんと一緒に帰ってきた貴方が、ちょっとだけ怖かったけど……でも、正さんと結婚してから、私のいらんことを聞いてくれたのは、タケキリはんやもの」

「お節介でしたか?」

「狸が恩返しやなんて変な話やったけど、私は嬉しかった」

 タケキリの手を握ったままの百合子の指先に、また少し力がこもる。それが、逃がさないと言われているようで、逃げるつもりはないのだ、とタケキリもしっかりと百合子の手を包み込んだ。

 百合子は、全てを知っていた。

 塀の上で手を拱いていた狸の願望も、それを成すために尽力してくれたオサキのもたらした結果も知っていながらに、一匹の毛玉が邸宅に通い続けることを許容していたのだ。足を鉄に掴まれた狸を掬い上げた手は、少女が人妻になっても、病に伏しても変わらない。苦しいはずなのに、何処かで理解を示して浮かべる柔い笑みも、諦めることに慣れていながら、前を見据えている眼差しも、あの頃のままだ。

 騙していたことに腹を立てることもせず、許してくれる百合子に、タケキリは胸中で安堵する。

「私、今までタケキリはんに助けてもらってばっかりやったもの。私を訪ねてきてくれはるなんて、もうタケキリはんしかおらんかったから」

「そんなことは……」

「恨み節やないんよ。ただの事実やから。でもねえ、タケキリはん」

「はい」

「私ね、一人で行かなあかんと思うの」

 それは断定的な言葉だった。百合子が何かを諦めるときと同じように、そこには強い意思が灯っている。タケキリの喉が自然と、ひゅっと音を立てた。

 百合子の細い指がタケキリから離れていく。逸らした視線は真っ直ぐに天井へと向けられて、もうタケキリを見ないようにしているようだった。

 タケキリは「何処へ」とも、「どうして」とも、言葉を吐き出せずにいた。安堵した胸中はぐるぐると波立っていたが、それも仕方のないことのように思える。当然のようにも感じられる。柔らかな手に拾い上げられた時から、百合子に許容されていたのが不思議でしかなく、結局、タケキリは一匹の毛玉に過ぎない存在だからかもしれない。

 世の裏側で、様々な死者にであったタケキリは、人間が死んだことを立ち上がれないほどに後悔し、泣き喚いても、結局はそのバランスの悪い二本足で歩き出すことを知っている。きっと、百合子もそうなのだろう。目の前に訪れている死の予感に対し、百合子は一人で歩みたいのだろう。人間という枠の中で、人間として、死んでいきたいのだろう。

 何も叶わなかった百合子の人生で、それでも賢明に歩んできた百合子は、何かを恨むことを知らず、憎むことを排除して生き抜きたいのかもしれない。怪我をしても、縄張り争いに負けても、一匹となっても自然と生きていく狸のように、ただ生から死への一本径を真っ直ぐに歩む。その潔白さを証明するように、天井だけを見つめる双眼から、また細い雨垂れのような涙が落ちた。いつか見た美しい百合子の涙を、タケキリはそっと偽物の人差し指で拭う。

「百合子さん、悲しまんで下さい。立派なご決断やと思います」

「…………」

 タケキリが声をかけると、百合子の唇が結ばれる。きっと口を開いたら、もっと泣いてしまいそうで、堪えているのかもしれない。

「ただ、私がお迎えに上がれるかは分かりません。それを決めるんは、実は私やないんです。やけど、この街には、百合子はんが迷子にならんように、きちんとしてくれはる方がいらっしゃいます」

 百合子がその強い意思で、神無月を生き抜いてしまったら、きっと彼女の望みを叶えられないだろう。それだけは申し訳なくなって、タケキリは少しだけ声を落としてしまった。すると、百合子は、やはり慣れたように諦念を抱いた瞳で、天井を見上げたまま苦笑した。泣きながら、穏やかに頬を持ち上げる百合子は、今まで眺めてきた中で、一番ちぐはぐしていた。

「タケキリはんは律儀なお人やねえ……それでも、私は一人で行かなあかんと思うの。最後にいらんことを、ちゃんと自分で抱えて生きたいんよ。せやから……」

 言葉を続けようとした百合子の声に、僅かな嗚咽が混じる。細い雨のような涙が、徐々に水量を増して、頬を流れ落ちていく。百合子は一度、ぐっと堪えるように唇を結んだ。そうして、また震えた声を喉から絞り出す。

「もう、会いに来んで下さい」

 消え入りそうな、だけど必死な、忍び泣く声音だけがタケキリの耳に届いた。

 決定的な言葉の羅列を反芻し、意味を理解するのに、少しばかり時間を要する。それでも、タケキリは人間よりも、ずっと聞こえの良い耳を研ぎ澄まし、人間を真似るために学んだ脳で、その意味をしっかりと理解する。不思議と憤慨するような気分にはならなかった。ただ少しだけ、百合子の死に立ち会えないだろうことが、寂しくあった。人間であったなら、きっと薄情だと罵られていただろう。それでも、一匹の毛玉にとって、死は必ず訪れるものだ。歩む先には死しかなく、それが遅いか早いかの違いでしかない。

 だから、百合子が死に間際で、何を想い、何を思考するのかを眺められないことだけが、残念だった。それでも、タケキリは出来るだけ百合子の願いを叶えてやりたかった。病を治すことの出来ない狸に出来る恩返しは、百合子の言葉に頷いて、聞き届けることだけだからだ。

「百合子さんが望むなら。大丈夫、貴女の歩んだ道は、きっと迷うことなく誰かが待っていてくれはります」

 だから安心してください、とタケキリは微笑を浮かべた。

 そうして、タケキリは少しばかりの寂しさと残念さを、胸中に抱いて立ち上がる。一度、百合子の離れた手が、再び伸ばされたような気がしたが、それも勘違いで、彼女の細い腕は布団の中で、もぞもぞと動いただけだった。

「ありがとう、タケキリはん」

 タケキリが百合子に背を向けて、彼女の部屋のドアをくぐるとき、小さくか細い声だけが、一匹の狸を見送ってくれた。 

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