第15話

 神泉苑の池を囲む茂みの間から、この街の裏から表へと抜け出したタケキリは、そのまま何食わぬ顔で百合子の邸宅へと向かった。春から初夏にかけては美しい花々の咲き乱れる神泉苑の池は、神無月ともなれば、静かに天気の良い空が水面に映し出されている。

 通い慣れた小路を通り、青年の姿のタケキリが角を一つ、二つ、と曲がっていく。すれ違う人間達は、二本足で歩くタケキリが狸だということには気づかない。のっぺりとした静寂そのものでありながら、時々乱暴な怒声や、啜り泣く声ばかりの裏道から出てくると、雑踏の溢れる京都の街が、やけに活き活きとしているように思えてならなかった。生きている者は賑やかだ。それも、神無月でタケキリが学んだことの一つだった。どちらが好ましいということはない。死を纏う京都の街は、出会う顔ぶれによって、よからぬ人生や、神無月でなければ見ることの出来ないだろう風景があり、生の溢れる賑やかな京都も、それはそれで風情がある。やはり生死というものは、一本の道で繋がっているのだろう、とタケキリは考えたりもした。

 行き交う人間の横顔を眺めながら歩いていたら、あっという間に百合子の邸宅へとたどり着く。いつもなら、そのまま慣れた足取りで「ごめんください」と、玄関口に入り込んで行くのだが、タケキリの足は門扉を超える前に止まってしまった。人力車の入れる造りになっている門の前に、正が立っていたからだ。彼はぼんやりとした眼差しでタケキリを見つけると、我に返ったように大股で近づいてきた。

「タケキリ君! 待っていたよ」と、正は慌てた様子で声をかけてくる。

「正様、なんやお久しいですねえ。どないしはったんです?」

 タケキリが小さく頭を下げると、正はほう、と自身を落ち着かせるように息吹いた。ほう、ほう、と何度か呼吸を繰り返し、伏し目がちだった視線を上げる。

「いいかい? 落ち着いて聞いてくれ」

 ただならぬ雰囲気に、タケキリも唇を結んで頷いておく。

「百合子が倒れた。今は病院にいる」

「なんですって?」

「昼が過ぎた頃に肺が痛むと言い出して、蹲ってしまったんだ。すぐに医者に連れて行って、今は落ち着いているが、今日は帰れないだろう」

 正は動揺を隠そうとするような、堪えるような声だった。

「百合子はんは、大丈夫なんですか?」

「意識はある。容態も少しは落ち着いたが、まだなんとも言えないそうだ。百合子は、君が来るだろうから、と心配していてね。それで、私が君を待っていたんだ」

「それは……えらいお手数をおかけしてしまいました」

「いいや。私では、ずっと寂しい思いをされるだけだったから」

 まるで反省や後悔をするように、また息吹いた正を眺めて、タケキリはなんとも珍しいものを見たような気がした。タケキリと顔を合わす正は、何処か調子の良い男だった。へらへらとした笑みを浮かべながら「百合子を頼むよ」と、タケキリの手を取って、小銭を握らせてくる。南座で会えば違う女の腰を抱き、邸宅で顔を合わせると陽気に酔って笑っている。しかし、目の前にいる正は、今まで見てきたどの正の顔でもなかった。参っているような弱々しい溜息を短く吐き出しながらも、顔つきは何処かを真っ直ぐに見ているような気がする。人間の新しい一面を垣間見て、タケキリは面白いと感じながら、少しだけ唇の端を持ち上げた。

「こんなときですけれど……」言いながら、タケキリは小さく安堵の息を漏らし、「なんや、正様がちゃあんと百合子はんのこと、愛してくれてはるみたいで良かったです」と、柔かな音吐を零す。

 政略結婚だった正と百合子は、互いの役目をきちんとこなしているのに、いつもちぐはぐだった。人間は恋愛結婚を好む。種を残すためだけでなく、生活を共にする相手を相性や好意で決める。それもまた狸と比べると、随分と複雑怪奇な現象だったが、いつか百合子はそのことに対して「いらんこと」を零していたのを覚えている。諦めたような、しかし何処か寂しそうな百合子の笑みは、幸福からの作用によるものではなかった。

 だから、少しだけ安堵した。少女の頃から、何かを諦めることに慣れている百合子にも、返ってくるものがあるのかもしれなかったからだ。

 しかし、正はふとタケキリに視線を戻すと、また見たこともない生真面目な顔をした。

「いいや、私と百合子の間には愛なんて存在しないさ」

 真っ直ぐとした正の言葉は、そうであるのが当然のような清さがあった。しかし、その顔は百合子の浮かべた笑みとよく似ている。諦念を抱いているような、それなのに何処か納得しているような表情だ。

「……人間の婚姻というもんは、複雑ですねえ」

「君はいい人はいないのか?」

「ええ、まあ。探しとる最中なんですけど、今は色々と忙しいて、手が回らんのですよ」

「苦学生も大変だな」

 同情しているというよりも、納得した顔で正は頷いた。

 タケキリは、人間の姿をした自身が田舎から出てきた苦学生、という認識をされていることを思い出す。最近は、街に馴染んでしまって、そんな説明をすることもなかったから、すっかり忘れていた。

 そうして、タケキリは恐らく自身が、生涯独身狸であることを予感している。好んで人間の街を闊歩する狸は、オサキや天狗のような者には面白がられ、狸界のスターになることは出来ても、雌は寄って来ないのだ。タケキリだって、もし子狸が生まれたとして、産毛だらけのうちから、人間への警戒心を抱かない狸の育て方など分からない。幼いうちに血を分けた毛深い子供が、鍋になるのを想像すると、少しばかり寒々しい気持ちになってしまう。だからこそ、鉄に後ろ足を噛まれた日から、タケキリは狸としての血を残すことは諦めていた。

 そんなことを考えながらも、正に曖昧に笑っていると「旦那様、そろそろ」と、おずおずとした声が飛んでくる。それは屋敷でよく見かける女中の一人だった。正の後ろから、ひょっこりと出した顔は、申し訳なさそうにしている。

「ああ、分かってる。すぐに戻るさ」と、正は首だけで振り返って返事をして、もう一度タケキリへと視線を戻した。

「百合子の病状は、どうなるか分からない。病院を教えておこう。よければ見舞いに来てやってくれ」

「ええんですか?」

 胸ポケットから取り出したメモにペンを走らせる正に、タケキリは目を丸くする。はじめて邸宅に招かれた時もそうだったが、正の行動は、時々予測の出来ないほどに突飛だ。

「その方が百合子もきっと喜ぶ。君が私のような不埒な男ではないことは、私が知ってるから」

「ツッコミ難い冗談ですねえ」

「そういうふうに、大事には出来ないんだ。私は、私のやらねばならないことがある」

 言いながら、正は病院の名前を書き終えたメモを破って、タケキリへと差し出した。その眼差しは、いつもの様子の良い男でありながら、何処か真摯な顔立ちだった。それもまた、正のことを話す時の、百合子の横顔によく似ている。

 愛のないと言った男から、一枚のメモ用紙を受け取ったタケキリは、その眼差しは不思議に思わずにはいられなかった。

 人間は、いつも不可思議だ。

 分からないことを胸に抱きながら、女中に急かされる正の背を見送って、タケキリは病院の名前を小さく読み上げた。

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