第12話

 隣にいる小さな少年は三本足の烏が、人間に化けた姿であるらしい。昔から化術は狐狸の得意分野であったのだが、まさか烏まで使えるとは思わなかった。そういう意味で驚いていると、少年の姿をした烏は、目を丸くするタケキリの方が面白いと言いたげに笑みを浮かべる。

「そんなに驚かなくとも。ただの狸が扱えるモノを、化烏が使えないわけないじゃないですかぁ」くっくっ、と喉を鳴らして笑う烏の笑みは随分と獰猛で、少年の姿には似つかわしくない。

「改めまして、僕は三足烏と呼ばれています。どちらかと言えば、大天狗様の領分に近い者でありますよぅ」

 間延びした自己紹介と共に、幼い手が差し出された。

「これは丁寧に……私は伏見山のオサキ様の袂に住まう、タケキリと名乗る狸でございます」

 握手のつもりで小さな手を握り返すと、そのままタケキリの尻が持ち上がった。子供の力とは思えないほどに軽々と、三足烏がタケキリを立たせたのだ。上等なシャツとズボンに身を包んだ三足烏は、どこからどう見ても華族や貴族の子供にしか見えないが、まるでこの世界の曇り空のような髪色と、夜闇に冴えそうな夕日色の瞳の顔立ちは、何処か不可思議さを醸し出している。まるで姿を真似しただけで、人間でないことを隠そうとはしていないようだった。

 不思議な姿を模った三足烏を、まじまじと見つめていると、幼い顔が親しげに目を細めた。

「空狐様の留守神とは、大抜擢じゃないですかぁ」

「たまたまというか、奇妙な縁を頂いとりまして」

「最近は化ける狸も珍しくなりましたもんねぇ」

「ええ、まあ。あの、仕事と言われましても、何をしたらええんでしょう?」

 眼下にある子供に低姿勢を崩さないままにタケキリが問いかけると、「狸のくせに勤勉なのですねぇ」と三足烏が感心したように頷いた。毛玉にとって、大天狗は恐ろしいものだ。そもそもただの狸に過ぎないタケキリの肝は、もう随分と冷え込んでいる。この街は、奇々怪々な領分の異なる者達が闊歩し、主を名乗る街である。野生を生きる狸は、生まれ落ちたときから山や森で、そういった者達を仰ぎ見て生きていく。庇護を受ける狸もあれば、嫌がって出て行く狸もいる。しかし、生を貪る呑気な狸が、その恩寵を受けることは一大事だ。踏み越えられるはずのない領分に立つ者達と、深く関わることでさえ畏怖を抱く事件のようなものだ。

 早く済ませるに越したことはないのである。

「狸は勤勉ですとも。丸くふわふわしておりますけど、中身は生真面目なんです」

 冗談交じりに言えば、三足烏は深く感心した顔をする。

「なるほど。だから、たった一度受けた恩を、涙ぐましく返しているんですねぇ」

「もしかして、三足烏様は私のことを知っておられたんですか?」

「有名ですよぅ。化ける狸など最近見ませんから。それが人間に近づいてるとなると、興味を唆るものですよぅ。僕らは面白いことが大好きですから」

 まあ、僕らは化狸だと思っていましたけどねぇ、と三足烏は間延びした語尾で笑っていた。

 タケキリは目立ったことをしていた自覚はなかったが、考えてみると最近は随分と自身の周りが騒がしい。弟子になりたいと寄ってくる狸もいる。山のスターだと揶揄する獣もいる。ただ面白可笑しく生きているだけの狸であるはずなのに、不思議なことも起こるものだ。つい数年前までは、人間の匂いをつけたままの変な狸だと山を追い出されたりしていたのに。

「……さぁて、お仕事と参りましょう」と、思考に耽っていたタケキリを見上げ、三足烏がにこにこと笑いながら、「あのお嬢さんは、タケキリさんのお知り合いですか?」へたりこんだままの女を指差して言った。

「ええ、あの人は、南座でよく顔を合わせる方ですけど」

 既に女を囲んでいた烏達は、何処かに飛んでいってしまったようだ。薄暗い小路の隅で、息を整えるようにして、女がしゃがみこんでいる。そういえば、どうしてこんなところに彼女がいるのか、という謎をタケキリはまだ解いていなかった。

 知り合いの顔を遠くから見つめていると、三足烏が嬉しそうに手を叩く。

「なら話が早い! では、お仕事ですよぅ」

「は、はい?」

「あの人を隧道に連れて行きますよぅ」

 なんでもないことのように、三足烏は言い放った。

 ああ、そういうことなのか、とタケキリは瞬間的に言葉全ての意味を呑み込んだ。つい先日まで、南座で観劇を楽しんで上品に笑っていた婦人は、既にその生命を絶ってしまったようだ。生きていない領分に足を踏み込ませているのは、そうなるべくして在るということらしかった。

 人の寿命は狸より長いという。しかし、狸ですら、凍るような季節を越せずに春を迎えられない者もいる。人間の仕掛けた罠にかかり鍋の中に落ちていく者がいる。テリトリー争いに負け、大きな傷を負ったまま、じわじわと死んでいく者がいる。寿命とは、目安に過ぎない。生命の長短は人知れずに存在しているが、推し量ることの出来ないものだ。

 生きる者は死に向かう。それもまた生きる者の理だ。だからこそ、この世界は鼻の良い狸が、眉間に皺を寄せるほどの静寂と、死の匂いがするのだろう。

 三足烏は、実に手際の良い烏だった。

 転げたままの婦人に手を差し出し、まるで紳士がエスコートをするように立ち上がらせると、丁寧な口調で「ここが黄泉である」と嘯いてみせる。婦人はタケキリに二度程視線を送ったが、小さく会釈をすると、ため息を一つ吐き出して苦笑した。

「ああ、やっぱり……」婦人はあっけらかんと言いのけてから、もう一度タケキリを見て「アンタも死んでしまったん?」と、憐れみの視線を投げて寄越した。

「そういうわけやないんですけれど」

「じゃあ、やっぱりアンタは人間じゃなかったのねえ。いやね、みんなで噂していたのよ。アンタ、人間にしては随分と可笑しな人だったから」

「そうだったんですか?」

「そうよ。文句も苦言もなく、ただ人の話をへえへえと聴いてるだけの人なんているもんですか。それに、そんなボロを着て、あんなに頻繁に観劇に来るのも変だもの」

 今更になって気づいたとでも言いたげに、婦人は笑う。タケキリは自身が思っていたよりも、人間らしくなかったことを知って、なんとも居た堪れない心持ちになった。

「タケキリさんは、僕と同じく貴女のような方をお迎えするための者ですよぅ。さあ、行きましょう」

 タケキリが苦々しい思いを抱いてると、三足烏がぴょんと跳ねて歩き出す。どうやら、婦人を「黄泉」とやらに案内するらしい。なるほど、これが仕事なのか、とタケキリも二人についていきながら納得する。

 歩きながら婦人は様々なことをタケキリに話してくれた。例えば、実は夫が賭博にハマっていて、財産など既になくなってしまっていること、それでも南座に通っていたのは、歌舞伎を見ると心が落ち着き、空想の世界へと飛んでいけてしまえたこと。苦境に立たされた自己を省みることが出来ず、かといって、夫の蛮行を止めることも出来ずにいて、いつも死を望んでいたことを、婦人はいつもの世間話のように語っていた。

 タケキリは、耳を傾けながら「へえ、へえ」と相槌を打つ。興味がなかったわけではなかったが、言葉を探すのに時間が必要だったからだ。相手が狸であったなら、同じく野生を生きる者として、親しげな言葉をかけ、よく生きたと笑ったものだっただろう。しかし、人間はそうではない。狸は常に死に対して、細心の注意を払って生きていくが、人間は寿命という言葉にかまけて死を忘れていく生き物だ。寿命とは等しく存在するが、長短の落差が激しいことを、人間は知っていながら見て見ぬフリをする。

 だから、タケキリは隣を歩いていく婦人が、吐き出す言葉や表情と等しくあっけらかんとしているのか分からなかった。夫の不甲斐なさや、自身の情けなさを、本当はどう思っているのかを汲み取れなかった。

 ぺらぺらとしゃべり続ける婦人であったが、自身の死因については分からないらしい。どうやら階段から落ちたと思ったら、この街の小路に放り出され、見上げた先に男がいたのだという。

「きっと階段で頭でも打ったのね。でもいいの、ウンザリしていたから、もういいの」

 婦人は少し伏し目がちに言い、タケキリから返事ないことを確認すると唇を動かし続ける。

「もしもだとか、そういうものは思うだけ無駄だもの。私はあの人を愛して結婚して、あの人に失望して死んじまったんだもの。恨んだところで、私は幸せになれないんだわ。だから、もういいのよ」

 婦人はまるで自身に言い聞かせているようだった。恨みや辛みを愚痴に変えて笑い、そうしてじっくりと死んだ自身を受け入れているようにも見えた。この世界に晴れはない。どこまでも続く暗然の小路が伸びていくだけだ。詭弁であるにしろ黄泉だと名付けるのは、ぴったりだった。命を持たない者が集う場所は、陽の射さない暗がりである方が、なんとなく似合っている気がした。

 婦人を送り届けたのは、大きな虚のような洞窟だった。岩肌が突き出していて、流れてくる空気が妙に冷たく、どこか恐ろしい。奥へと続く道は、入口から覗いても数メートル先しか見えず、土の匂いがした。それは隧道であるらしく、入口に立った三足烏は、虚の先こそが婦人の辿る道だ、と言った。婦人は、夜闇に支配されたような虚の暗がりに躊躇している。先ほどまで動かし続けていた唇が、まっすぐに結ばれている。

「大丈夫ですよぅ。先に逝った者が迎えに来ているはずですから。仏様というのは、存外にお優しいものですよぅ」

 恭しく頭を下げながら、三足烏が優しい手つきで婦人の手を握った。すると不思議なことに、婦人は小さく頷いて虚の中へと足を進め始めたのだ。夜闇の中に消えていく婦人の姿が消えていくまで、タケキリはじっとその背を眺めていた。

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