第11話

 ご機嫌の変わらない空というのは、どうにも不可思議なものだ。

 昼夜の違いは見分けられるとしても、常に分厚い雲に覆われている空では月を見上げて腹太鼓を打つことも出来ない。人のいない孤独な世界は、生物の匂いが全くしない。生きているという実感を忘れそうなほどに静かで、野山を駆け回り、この街を闊歩していたタケキリは、最初の頃酷い耳鳴りに襲われた。しかし、慣れというものはタケキリの得意分野でもあって、どこかの家の雨戸が開く音、聞こうをせずとも耳に入ってくる他者の会話、大気が流れると逆立つ草葉の音などを思い出すことで、暗がりばかりの小道や音のない世界を、のったりと歩けるようになっていた。

 見知っているはずなのに、見たことのない景色を有している世界の風景は、タケキリにとって新鮮でもあった。住処である木々の間を探検する生まれたての子狸のように、四本の足は自然とオサキの世界を出入りしている。

 元より悪戯好きの性質を持ち合わせているのが狸だ。人知れずに街中に入り、隣接しているいつもの世界に飛び出すと、人間達が驚いて飛び上がるもので、これは大変に気に入る遊びとなった。噂に聞く妖の類が、どうして消えたり現れたりするのだろうと考えたこともあったが、どうやらこういう仕組みらしい。

 そうして、オサキのような者達の言葉を思い出す。彼らが誰もが「領分の違う者」と、自己を称する節があるのだが、そこには何の嘘もなかった。このタケキリの知らなかった風景は、確かに生きている者の闊歩する小路とは、一線の引かれた領分が異なる場所だった。おそらくタケキリも、オサキとの奇妙な縁がなければ、認識することもなかっただろう。ただ生きているだけでは味わえない面白さを垣間見て、最初は警戒していたタケキリも、不可思議に迷い込んだ冒険心を擽られてしまう。山で寝起きをして、百合子の邸宅へと向かう。その間にこうして見知らぬ世界を駆け回ることが、タケキリの日常に組み込まれていく。おかげで南座で観劇する回数は減ったものの、どこまでも走っていけるような高揚感は、何事よりもタケキリを面白がらせた。

 しかし、好奇心とは可笑しなもので、厄介事を招くものでもある。

 タケキリが奇妙な世界に慣れて、今日は南座で行こうか、と四足歩行から二本足で立ち上がり、ボロを来た青年に化けていた時だった。普段なら、タケキリの他には何もいないはずの小路に奇妙な男の背が見えた。着物から伸びた男の太い腕が、か細い棒きれのような女の手を掴んでいる。静かな空間の中に、荒々しい声が轟いて、その隙間に女の悲鳴のようなものが混じっている。どうやら、男は女を無理やり引っ張っているらしかった。

 女は、腰を低くしてしゃがみこむ寸前の体勢になりながら、首を大きく横に振っている。振り乱した髪で、最初はよく分からなかったが、それはタケキリが南座でよく出会う婦人だった。

 どうして彼女はこんなところに――この小路は、生きた者が足を踏み入れることのない場所であるはずだ。山の主と顔見知りの狸でさえ、神無月の頼まれごとがなければ気づくこともない世界であるはずだ。そういった類と、獣よりも程遠い彼女がなぜこんなところにいるのだろう。

 タケキリが疑問を浮かべている間にも、男女は綱引きを続けている。しかし場所がどうであれ、理由がどうであれ、痴情のもつれに関わることはないだろうと、タケキリは考えた。人間達から、聞き上手の評価をもらっているタケキリは、聞くことが出来ても、男女の関係にわざわざ関与したりすることはない。それに狸には、人間の恋情など理解出来るはずもないのだから、解決にはならない。仕方なく来た道を戻るために、タケキリが振り返ると、弾のような声が飛んできた。

「タケキリさん! 助けて!」

 はっきりとした聞き覚えのある声に、タケキリは渋々首を回す。そうして、今気づいたという顔をしながら、二人に近づこうとした時、足をすくわれそうな暴風が飛んできた。まるで嵐の夜に窓を叩く大きな波のような風だ。通り抜けていくはずの大気が、質量を持ったように腹を打ち付けたような気さえする。タケキリは、瞬間的な暴風に足を取られて、大きく尻餅をついた。その瞬間に、前方からもヒキガエルを潰したような苦い声が耳に入ってくる。

 顔を上げると、男女はタケキリと同じように転んでいる。元より腰を低くしていた女はついに地面に手をついていて、女の手を掴んでいた男は、その手を離して少し遠くで顔を地面に擦りつけていた。

 奇妙なことはそれだけではなかった。顔を地面につけたままの男の尻を踏んづける人影があった。体躯からして男の背だったが、そのほとんどが大きく広げられた黒い翼で見えなくなっている。燃えるような赤い着物に身を包んで、まるで存在を誇示するような黒羽は、この街の東北部にある鞍馬山を根城にしている大天狗だった。不遜な態度でこの街の空を我が物にしていると、タケキリは聞いたことがある。鞍馬の烏達は気性が荒く、他の獣とよくよく領土戦争をしている。伏見の平和な環境に慣れきっていたタケキリは、反射的に顔を青くした。

 更に首を持ち上げると、灰色の空に黒い無数の烏が浮かんでいる。数羽の烏が、大気を切り裂いて滑空し、女を取り囲んでいた。再び恐怖したのか、女は腰を抜かしていた。

「あれぇ、狸じゃないですかぁ」

 呆然と男の尻を蹴り回す大天狗を眺めていると、不意にそんな声が耳に入ってくる。間延びした声にタケキリは、自分が狸だ、と気づくのに数秒かかった。気づけばタケキリの隣に、一羽の三本足の烏が立っていた。カァ、とわざとらしく鳴いてから、まじまじとタケキリを見つめていた。

「迷い込んだ……ってわけでもなさそうですねぇ。ああ、オサキ様のとこの留守神さんですか?」

「へっ、あ、そのように仰せつかっておりますけど……」

 親しげに話しかけてきた三本足の烏は、傾げていた小首を立て直すと、今だに男を踏んづけている大天狗へと嘴を向ける。

「キイチ様ー! こちら、噂のオサキ様の化狸さんですよぅ!」

「はぁ? ちょっと待ってろ!」

 和太鼓のような激しい怒声が飛んできて、タケキリは首を竦めた。

 噂の大天狗は、自身よりも一回りは大きいだろう男の首根っこを掴むと、そのまま引き摺ってやってくる。男は目を回しているのか、先ほどの威勢もなく、今度は地面に膝を擦りつけていた。

 転んだままのタケキリの目の前にやってきた大天狗は、物々しい雰囲気を醸し出していながらも、まるで少年のような姿だった。成長期の子供のような形体をしていて、苦学生に扮しているタケキリと見た目は変わらないように見える。噂では恐ろしい怪物ような傑物を想像していたタケキリは、少しだけほっと胸を撫で下ろした。化術を扱うようになってからというもの、見目の大事さを知ったからだ。

「お前がオサキの留守神だな? 新参者が仕事放棄とはいい度胸じゃねえか」

 大天狗はタケキリを見下ろしたまま、冷淡な声で言った。見た目に騙さそうになっていたタケキリは、ひっと悲鳴を上げる。睨みをきかせた天狗の赤い双眼は、一匹の毛玉など、いつでも吹き飛ばしてしまえそうだった。

「あ、あの、私めはタケキリと申します。えっと、仕事とは……?」

「あっ?」

「いいえ! オサキ様からは、何もしなくて良いと仰せつかっておるものですから。すべきことがあるのなら、どうかご教授願いたく……」

「は? お前、何も聞いてないのか? 化狸のくせに?」

「いやいやいや! 私はまだ寿命もきてへん、普通の狸です! オサキ様に留守を頼まれたのは確かですが、適当に走り回っていろと!」

 どうやら大天狗は、何か勘違いをしているようで、タケキリは必死に弁解する。

 留守神とは、そもそも山の主や土地の神に見初められた生きていない者達の仕事だ。大天狗のように鞍馬山の神と懇意の者や、神子として召し上げられた者達が行うものである。生まれてから、死の淵など一度も見ていない狸には、本来ならば回ってこないお役目だった。

 身振り手振りをつけて弁解するタケキリを、大天狗がまじまじと見下ろしている。暫く思考した大天狗は、イラついたように唇を結んだ。

「あのクソ狐っ。まあいい。お前が狸なのはわかった」

 どうやら理解してもらえたらしく、タケキリは大きく安堵した。

「あ、ありがとうございます」

「だが、この時期はただでさえ忙しい。狸だろうが、仕事はしてもらねえと困る。お前だって見知らぬ者に野山を荒らされたくはないだろ?」

「それは、確かに」

「聞き分けの良い狸だな」

 大天狗は鼻を鳴らして不遜な態度で言いのけた。文句など言えるはずもない。鞍馬の大天狗と言えば、その羽をはばたかせるだけで、春の桜を散らし、激怒すると嵐が吹き荒れるという。いつぞやの時代には、その暴風をもって盛大な親子喧嘩をして、京都の街を吹き飛ばしかけたという伝説もある。一匹の毛玉など踏んづけられて終わりだ。それに世の中が弱肉強食であるのは、野生の狸にとっては暗黙の理でもある。

 タケキリがこくこく、と頷くと、大天狗は男を掴んだまま飛び上がった。曇りばかりの空に朱い着物がゆらゆらと揺れている。

「とりあえず三足烏についていけ。そいつが色々と教えてくれる」

 男をぶらり、と下げたまま、大天狗はそう言い残して去っていった。烏の集団がついていく。静寂だけの世界にやってきた嵐が過ぎていき、小路にはタケキリと三本足の烏と、腰を抜かしたままの女だけが残っていた。

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