第10話

 山に帰ると狸界のタケキリは、スターとなっていた。

 化けることの出来る唯一の狸という地位を獲得し、先駆者として山の子狸たちに化術を教える。今では、街にばかり出ている狸を煙たがっていた毛玉ですら、タケキリをもてはやし、他の獣たちには、人間好きの変わり者だと面白がられたりする。この街の知り合いも随分と増えた。獣も、鳥も、人間も、はたまたオサキのような生きる者とは異なった者とも、よく言葉を交わすようになった。野山を駆け回っていた頃よりも、タケキリは世の中が随分と面白可笑しく回っていることを知った。

 狸界の地位を確立しても、タケキリは百合子の邸宅に通うことをやめなかった。

 ハルの手紙が届いてから、百合子は前にも増して活発な女性へと変貌していた。ベッドに横たわっていた体を起こし、しゃんと背筋を伸ばして立ち上がる。肺の痛みに耐えながら、まずは正の仕事に口添えをするようになった。清新な幼い妻の顔を引っ込めた百合子は、学生時代に学び、父母の背を眺めて知った知識の全てを、たまに夕食を共にする正に話し続けた。最初は百合子を諌めていた正を叱り、時には母のように説き伏せて、労う言葉を用意する。気丈な妻の姿に背を押されるようにして、正は百合子の生家の商売を、もう一度軌道に乗せ始めていた。どうやら海の向こうの酒の売買を仲介することに成功したらしい。京都の街では、その酒が出回り始め、小さなブームになっている。

 そうして、百合子は縁側でぼんやりすることをやめた。代わりにベッドの中でしか読んでいなかったフランス文学をかじり、暇さえあれば、近年流行りの文学や歌舞伎も楽しむようになった。

 タケキリが訪れると、百合子はよく笑うようになり、それは檻の中から見上げたお嬢さんの頃の百合子を彷彿とさせるような、叶うはずのない夢を語る眼差しでもあった。あの頃も、今も、百合子は自身の願いを叶わないことを知っている。タケキリは相変わらず、百合子の言葉に耳を寄せ、時々顔を合わせる正に「百合子を頼む」と懇願されている。

 正は、相変わらず調子の良い男であったし、息抜きと称して女の腰を抱いたりもしているが、百合子に対する情も確かに持ち合わせているようだった。百合子の病が激しく肺の中を暴れまわる時には、すぐに医者を連れて帰ってくる。文学の話など何一つ分からないという正は、百合子に頼まれれば、どんな本でも探してみせた。百合子に「じゃじゃ馬め」と軽口を叩く一方で、タケキリに金を握らせて「様子を見に来てやってくれ」と頼んでくる。百合子に恩を返すために、タケキリは邸宅から離れる気などはなかったが、正に願いを託されるのも悪い気はせず、昼を過ぎる頃には、必ず一度は二条にある邸宅に顔を出していた。

 そうして、今日も今日とて百合子の邸宅へ向かう。しかし、タケキリは素早く動かしていた四本足の動きを止めた。山の出口にいたオサキに声をかけられたからだ。

 変わり者の山の主は、ふらふらと何処かへ消えていくので、あまり顔を合わせることはなかったが、時々出会うと、面白い遊びを披露するように、南座へ一緒に通ったり、街の祭りに出かけたりする仲になっていた。それでも、タケキリの意思で会うことはない。いつもオサキの気まぐれで、こうして唐突に声をかけられる。

「オサキさまの留守を?」

 一匹の京都訛りの狸が、狐面の奇人たるオサキを見上げて小首を傾げた。オサキは相変わらずへんてこな仮面で顔半分を隠したまま、薄い笑みを浮かべている。

「ああ、十月は出雲に出向かなければならなくてね。去年までは、幼い狐に任せていたのだが、そろそろアレらも連れていかなくてはならない」

「ははあ、留守神様というやつですね。噂には聞いていますけど、私はただの狸ですよ」

 ぷかぷか、と煙を吐き出すオサキを見上げてタケキリは言った。コロコロと、煙草の銘柄を変えるオサキからは、いつも不思議な匂いが漂っている。

「なあに、留守を守れなどと難しいことは言わない。どうせこの街に入ってくるだろう災難は、元よりの領分違いの者達がどうにかするだろう。血気の多い輩だ。狸の手を煩わせたりはしないさ」

 タケキリは、カミサマというものも色々とあるのだなあ、とぼんやりと感じていた。

 十月に出雲に神が集まるという神無月は、この街からもさまざまなカミサマが姿を消すという。オサキの願いは、随分と不可思議だった。タケキリは一匹の狸に過ぎない。オサキの留守を守るというのは、つまるところ伏見の山の一角を抱えるということだ。ただの毛玉には、あまりにも荷が重いように思えた。

 しかし、オサキには恩がある。狸は丸いふわふわとした毛玉であるが、いじらしくも恩は忘れない。

「……私は何をすればええんでしょう?」

「お前はそこに在るだけでいい。ただ、俺の留守神がいるということが大事なんだ」

「はあ」

「変わることといえば、俺の庭と道が、お前の前に現れるぐらいのものさ。俺の留守神ならば、迷うこともないだろうから、普段のように走り回っていれば良い」

「なんもせんでええんです?」

「かまわないよ。そういうものは、したくなったらすれば良い」

 オサキは薄らと笑みを浮かべたままだった。それがなんだか怪しく見えるのは、タケキリが野生の狸であるからかもしれない。人間の営みに馴染んでも、警戒を怠らないのが獣であり、毛玉だ。

 しかしそれも、狐面の下からはお見通しのようだった。

「人の世界は面白いだろう? 俺達は獣よりも、人間に近くて遠い。俺達の世界もそれなりに物珍しいと思うぞ」

「それは随分と魅力的ですねえ」

 山から下りて、人間に混じり世の中を闊歩するたびに、タケキリには真新しい不可思議がやってくる。南座にたむろする婦人や紳士たちの噂話や、木屋町の酒屋で飲み明かす酒豪達との騒がしい一夜を思い出す。アルコールの回った人間の舌は、随分と饒舌で、タケキリの知らない世界を聞かせてくれ、時々自身が本当は二本足で歩行する人類に生まれ落ちたような気分になることもある。それでも、賢明に足掻いているかと思えば、すぐに投げ出して死を予感させる。複雑な思考に身を投じて、難解な言葉を吐き出す人間達は、野生を生きる一匹の狸にとって、遠く理解の及ばないものでもある。

 生き方が異なる生物の群れは、姿形を近づけただけでは、決して同輩にはなれないものだった。

 だからこそ、百合子のことを引き抜いたとしても、人間社会は不可思議で面白くてたまらない。

 毛玉から見ているだけでも面白い。では、オサキの眼差しは何を眺めているのだろう。面白さを追求するのが、狸の本分である。

 ほう、と一つ嘆息して、タケキリは決意した。

「私は一匹の毛玉に過ぎませんが、謹んでお受けしましょう」

 地面に尻をつけてから、タケキリはゆっくりと頭を下げた。化術の師たる山の主の願いとあれば、アレコレ言い訳を考えたところで、どうせ断れはしなかったのだ。

「そうか、助かる。じゃあ頼んだぞ」

「えっ?」

 にたり、とオサキの唇が、更に湾曲したような気がした。降り注ぐ声に顔を上げると、目の前にいたはずのオサキの姿はどこにもなかった。代わりに晴れ模様だったはずの空が、いつの間にか隆々とした筋肉のような灰色の雲に覆われている。山の中にあるはずの、獣達の気配がなく、まるでタケキリだけが世界に取り残されたような、薄気味の悪い匂いがした。一歩も動いていないはずであるのに、まるで知らない場所にやってきてしまったような感覚に、全てが死に絶えたような、あるはずもない不安が起こる。じわり、じわり、と薄靄が広がっていく。獣の目を持ってしても見通しの悪い世界は、確かにタケキリの知る伏見そのものだった。そうして、この感覚はオサキの隣を歩いている時によく似ている。

 木屋町を闊歩している途中で、産寧坂を上っている最中に、不意に人間達が消えるのだ。伽藍堂のような果てのない世界は、きっとオサキの見ているこの街の一部であるのだろう。

 暦は既に十月になっている。オサキが一切の説明もなく、出雲へ旅立ったのだろうと、タケキリは直感した。

「丸投げやないですかっ!」

 伏見の山に一匹の狸の叫びが轟いたが、当然返事はなかった。

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