第9話

「私はきっと薄情な女なんやわ……」

 呼吸を整えて、ようやく涙を枯らした百合子は小さく呟いた。その瞳には、先ほどのような悲しみはなく、代わりに酷く落胆した色だけがぼう、と灯っている。背中を真っ白な枕に預けたまま、上体だけを起こした百合子は、ゆっくりと呼吸を繰り返す。そうして、小さく息を吐き出しながら、タケキリの握り潰した便箋を眺めていた。大事な手紙を皺くちゃにしてしまったことをタケキリが謝罪すると、百合子は苦々しくも「ええんよ」と、頬を持ち上げて見せた。

 落ち着いた百合子の姿を、少しばかり残念に思いながらも安堵して、タケキリは定位置となった丸椅子の上で小首を傾げた。

「ハルと清司さんが、昔を思ってくれてることに喜んでしもうたんやもの。私もハルと一緒。懐かしくて仕方なくて、戻ってきて欲しいと思うてる。二人の幸福をきちんとお願いしたはずやのに……」

「今の、嬉し涙やったんです?」

「ちゃうけど! もう嫌やわ、タケキリさん!」

 タケキリの言葉に百合子は難しい顔をした。声を荒らげてしまったことに恥じているのか、少しだけ頬を熟れさせてから、百合子は申し訳なさそうに眉を下げる。

「またタケキリさんに、いらんことを言うてしもうてる……ごめんなさいね」

「いらんことを聞くのは、私の特権ですから」

「タケキリはさんは、本当に不思議なお人やねえ。なんか、あの子に似てるんよね」

「あの子?」

 ハルの手紙によって、昔を呼び起こしているらしい百合子は、ぼんやりとした双眼のままタケキリと見ながら、薄気味悪い笑みを浮かべた。まるで夢でも見ているように、タケキリと視線を合わせながら、その向こうにある景色を眺めているようだった。

「いつも私のはなしを聞いてくれる可愛い子がおったの。じっと私を見上げたまま、我慢強く耳を傾けてくれとった。まあ、狸やねんけどね」

 瞬間的に、タケキリは心臓が跳ねそうになって、思わず隠したはずの尻尾が出そうになるのを堪える。その狸が、目の前の自身であることをタケキリは口にはしない。獣は人間に化けないのが、今の世の常識で、知ってしまったら百合子は驚いて飛び上がるかもしれない。もしかしたら、気味が悪いと嫌悪するかもしれない。体を病んでいる百合子を驚かすことは、タケキリの本意ではなかった。

 オサキが人の姿に扮しているように、悪戯には程度がある。それは古くからこの街を知る獣や天狗が、長い間をかけて決めた暗黙の作法でもあった。

 だけど、少しばかり嬉しいと感じてしまうのは、百合子がタケキリにとって、命を救ってくれた恩人であるからだろう。

「檻の中で、暴れもせずにじっとしてたええ子やったんよ。懐かしいわあ。あの頃はホンマに楽しかった」

 遠くに去ってしまった思い出を、百合子の眼差しが見つけている。ハルが願い、百合子が欲する過去の光景は、月日が経過するたびに枯れていくこともなく、より色鮮やかになっていく。並んで歩く若い彼らは、きっと記憶の中では美しく、活力に溢れているのだろう。少女であった百合子が、賢くも見ないふりをしたものを、彼女はもう忘れているのかもしれない。

「狸にも、良い狸と悪い狸がおりますから」

「そうなん?」

「そうですとも。何事も善し悪しがある。そんで、それは見方でコロコロ変わるもんです。狸も、人間も、多分同じやと思うんです」

 百合子の手に拾い上げられた一匹の狸も、故郷の山から悪人のように追い出されたが、今の住処では面白可笑しいのだと笑われる。情勢とは、常にぐるぐる回り続ける丸い毛玉のようなものだ。一方面からは覆われた毛も、反対側から覗いてみれば、ふくよかな腹が見れ隠れする。百合子は自身を薄情だと言った。しかし、本当にそうであるのかを世界は知らない。それもまた、百合子自身から見ただけの百合子の姿なのだ。

「ハルさんたちは、百合子さんの元へ帰りたいって、お手紙で言うてはりました」

「……そう、やね」

「清司さんには、確かに不幸があったんかもしれません。せやけど、ハルさんの願いを喜びに変えて待ってられる百合子さんは、ホンマに薄情者なんでしょうか」

「……」

「誰かの願いを叶えはるんは、人間にとって尊い行為ちゃいます? それが百合子さんにも喜ばしいんなら、貸し借りのない心です。誰も損はせえへんでしょ」

「損得の問題やないもの」

「じゃあ百合子さんは、何を基準にご自身を責めてはるんです?」

 タケキリの純粋な問いかけは、百合子に息を詰まらせた。

「だって、こんなん違うんやもの。ハルと清司さんは、二人で幸せにならはるはずやったのに。自殺未遂やなんて……」

「起きてしまったことはしゃあないんです。狸だって、冬を越せずに死んでいくもんがおる。それでも、前の年の春には戻らへんでしょう?」

「そうやけど! ハルが帰ってきたいって言うて、私、ちょっとだけ喜んでしまった」

「ええやないですか。それでお二人が救われるかもしれんのなら。百合子さんが嬉しいんなら。それは皆さんが、幸せになることやないんですか?」

 百合子の言い続ける幸福の定義が理解出来ないまま、タケキリは穏やかな声で言った。過去を懐かしむ百合子の傍に、またその形が整うのなら悪いことは何もないような気がしたからだ。

 清司とハルの不幸の中に、一端の喜びを得てしまった自身を、きっと百合子は罰している。幼い頃に置いてきた恋心に、時々思いを馳せながら、二人の結婚を心から祝えなかったことも起因しているのだろう。人間は、濁りのない清新な精神を好む。金銭という利害の中で営みを発展させているくせに、害心を酷く嫌うのだ。人間の美徳とは、タケキリにとっては難しい。これだけ複雑な社会を形成しているにも関わらず、単純を好む趣向には、未だ理解は遠く及ばない。美徳を追い求める人間たちは、それだけで少しずつ磨り減っていくようにも見えた。

 祝辞を上手く述べられなくとも、百合子がハルと清司の精一杯の幸福を願っていたことを知っている。遊び歩いていた正の仕事ぶりを認め、今も帰ってこれないことを百合子の生家を守るためだと理解している。複雑さの中にある、百合子の言う情を、タケキリはずっと耳にしてきた。

「百合子さんのしたいように、願う通りにしたらええんです。狸の代わりに、今度は私が聞いてます」

 情の深い百合子の手に拾い上げられたからこそ、タケキリはここにいる。

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